エデンの看板
エデンの園に看板があった。
「この看板を読んでいるお前、ここから立ち去れ。浅知恵の愚か者め。私が禁じた知恵の実を齧ってしまったからこそ、お前は今、この看板を読んでいる筈だ。お前は私を裏切った。ここに居る資格はもう無いぞ」
アダムは、初めて読む文字を読解しながら、父である神の怒りに恐れ戦いていた。彼には知恵の実を齧る以前の自分の無邪気さが、もう思い出せない。知恵を得た事で、いわば別の人間として再び生まれた様なものだった。しかし神は、今となってはどうにもならぬ、知恵を得る以前の無邪気な振る舞いに因って、罪を自覚できる現在の私を断罪すると言う。憎むという。
アダムは一しきり嘆いた。
「ああ、神よ、私はその実を齧る以前は、全くの無知だったのです。罪も知らず、それを犯す恐怖さえ知らなかった。それ故、知恵を得るという禁を犯してしまった。しかし、禁を犯してあなたの忌み嫌い禁ずる知恵の獲得を経たが故に、あなたの意に背く恐れもまた得たのです。もし今の私に再び禁を御命じなさるのであれば、私は必ずや守り通すでしょうに」
身に付いた知恵故、この恐ろしい呪いの文言に直面しなければならなくなった。それは実に巧妙で、恐ろしい罠だ。
「…そうだ、この看板は、知恵を知らぬ無邪気な私の前にもずっとあったのだ。よくよく考えてみれば、私は文字を読めぬ以前から、この「立ち去れ」「愚か者め」「裏切った」の言葉の光を浴びながら、戯れ暮らしていたのだ。なんという邪悪だろう。私は、彼の疑った通りの、愚かな裏切り者になった。何という深い猜疑、何という深い呪いだろうか?神は私の罪を犯す前から、罪を犯す事を予期して、罪を犯した場合に落ちる墓穴を、初めから用意して置いたのだ。何という憎悪だろうか?何故あなたは、こんな呪いの文言の書かれた読めもしない、そして読めた時にはもう手遅れな立て看板を設置したのか?何故こんなものよりもまず、私が無垢なまま罪を犯さずに居られる様、手を尽くして下さらなかったのか?」
…
そしてアダムは、神の意向通りにエデンを立ち去った。
しかし、彼が後にしたエデンには、我々が知る話とは違い、イブという女が残っていた。イブは言葉を解さない。まだ知恵の実を食べていない事は明らかだった。アダムは幸運にも、神の呪いを一人だけの責任で受けた訳だ。
そして立ち去る前に、知恵の木とその看板とに火を点けた。イブは驚き悲しんで泣いたが、しかしこれで彼女の方はエデンを追われずに済む。アダムは、孤独の中で細やかな満足を覚えていた。彼女が、あの恐ろしい父の、見えない呪いを受けながら暮らす心配は無くなったのだ。アダムは、そこに背を向けて歩きながら、「これが愛さ」と、寂しく思った。
…でも、最後に振り返った時に見たイブの目は、アダムを裏切った人間を憎しみを籠めて見ている様に光っていた。それは見る事の叶わぬ、悪意ある神と同じ輝きなのではないか、と、エデンを焦がす火の中にアダムは感じた。