最後の軍人
「三時の方向から襲来!」
見張り番が声を張り上げた。テントの中で寝袋にくるまっていた兵士達は反射的に飛び上がり、枕元のライフルを握りしめた。
迫りくる大勢の敵に、誰よりも先に弾丸を放ったのは、指揮官のペネロペだった。
「マッカートニー!ジョンソン!野戦砲につけ!他の連中はライフルを構えろーあの軍勢にありったけの鉛玉をお見舞いしてやれ!」ペネロペはそう叫びながらも、嬉々として引き金を引いた。敵の肩が弾ける。脳味噌が飛び出す。それでも、彼等は止まらない。臆する気配を微塵も見せず、ただ愚直にペネロペの率いる部隊のキャンプに押し寄せる。マッカートニーが野戦砲の砲身を突出してきた敵の一群に向けて傾け、ジョンソンが弾を込めて発射する。ヒョォォォと空気を切る音がして、次の瞬間、軍勢の中にぽっかりと穴が開く。
「良いぞ!ジョンソン!マッカートニー貴様らの砲手としての腕は紛れもなく一級だ!」
ジョンソンは次の弾をこめようとして、ハッとする。
「指揮官殿!弾が底を尽いてしまいました」
「なんだと!ジョンソン!そんなに大砲を撃ったのか!でかしたぞ!そんなに敵を殺したのなら貴様の昇進は間違いなしだ!さぁライフルを手に取れジョンソン、マッカートニー、この軍勢を退けた後には、輝かしい栄光が待っているぞ!」
ジョンソンとマッカートニーは昇進という言葉に目を輝かせて、ライフルを構えた。
敵の軍勢は徐々に数を減らし、二時間後には一人として野営地の土嚢を跨ぐことなく、全て砂礫の上に突っ伏した。
「皆、よくやった!貴様らの活躍は本国にも直ちに知れ渡る事になろうぞ!さあ、祝勝会だ酒を持て、料理番ピアソンよ!ご馳走を用意してくれ!」
ペネロペは上機嫌に喚きながら、興奮冷めやらぬ部隊の一人一人を激励して回った。実のところ、ペネロペ以外の兵士の心情は決して勝利の喜びに浸れるほど明るくなかった。彼等はもう二ヶ月もこの野戦地で戦い続けていたのだ。二ヶ月前、この砂漠の真ん中で待機を命じられて以降、本国からの指令は一通も届かず、突然現れる無数の軍勢と戦う必要があった。物資の支給など何一つ無く、敵が落とす弾丸以外は完全に枯渇していた。
この祝勝会で振る舞われている肉は、敵の死肉であり、コップに注がれた薄赤色の液体は、血液を濾し取った生臭い飲み物だった。
兵士達は生きるため、やむを得ずこれを必死に喰らったが、ペネロペだけは喜んで貪った。「あぁ!なんという美酒!なんという馳走!さすがだピアソン!貴様ほどの料理人は世界広しといえど一人もいないだろう!」血を濾し取って薄くしたものをペネロペは酒と呼び、幾度もコップをあおっては、酔っ払いのようにピアソンの肩を揺さぶった。
そのうち周りの兵士達も、ペネロペの熱狂に当てられ、おぞましい血液を本当の酒のように感じて、酔い始めた。死体に群がるカラスに、肉のこびりついた頭骨を投げつけ、慌てて飛び去っていくのを馬鹿のように面白がるペネロペと兵士達は狂気の渦中で、明日を生き抜くための英気が湧き上がってくるのを感じていた。
砂漠に冷たい夜が訪れ、再び暑い昼がやってくる。 砂が、はらってもはらっても、兵士の体に重苦しく纏わりついた。
「ペネロペ指揮官殿!ヘンケル一等兵が何処にも見当たりません!」そう報告をしにやってきたのは、バクダン副指揮官だった。
「慌てるなバクダン副指揮官!兵士が忽然と消える?この見渡す限りの砂漠にか?」
「し…しかし!ヘンケル一等兵は、間違いなくこの野営地から姿を消したのであります。それはもう、便器までひっくり返すほど隈なく野営地内を捜索しましたが、ヘンケル一等兵の糞一つとて見当たりません」
「そんな馬鹿な事があるか!そうだ、周りの者は何と言っている?見張りだって立てているんだ、誰かしらヘンケル一等兵を見ているだろう!」
「それなら、一名おりますが…」
「そいつを連れてこい!」
そうペネロペが言うとバクダンは明らかに困惑した素振りを見せた。
「しかし、そのたった一名がとても正気とは思えない状態なのであります…」
「良いから連れてこい!バクダン副指揮官、貴様のその肩書はお飾りか?おまえはただの小太りの木偶の坊なのか、私がやれと言ったら文句の一つもこぼさずにやるんだ!副指揮官の貴様が他の兵士の範とならずに誰がこの部隊の規律を正せるのだ!」
ペネロペの怒声の圧に打ちのめされ、バクダンは情けなくペコペコ頷くと、振り返って、後ろに控えていたマリケス一等兵に、「連れてこい!」と言った。
数分して、二人の兵士が、一人のうなだれた男を両脇で抱えてやってきた。
「どれが目撃者だ!」
「は…はっ!真ん中の男であります。」
「デュラ二等兵か?随分、見違えたようだが?」
「は…そうであります」
真ん中に抱えられた男は髪が異常なほどに掻きむしられ、まだ新鮮な赤色を保った血液が爪から流れ落ちていた。
幽鬼のように落ち窪んだ目はまさに狂気に飲み込まれかけている男の目だった。
「デュラ二等兵!ヘンケル一等兵に何があったか知っているらしいな」
ペネロペがヘンケルと言った瞬間、デュラは異常なほど見を反り返らせて、叫び始めた。
「〔 アァァァァ…!〕ヘンケル!どうしたんだ!自分の存在が感じられないなんて、自分がまるで夢の中にいるようだなんて!俺達は永遠にこのままだなんて!よしてくれよヘンケル!おまえの故郷には、母が妻が娘が!待っているだろう?〔いや、俺達はもう帰れない…戦い続けて、やがて惨めに死ぬのさ!〕ヘンケル辞めてくれよ!怖いよ!」
デュラ二等兵が叫び続ける。バクダンも他の兵士も一人二役の狂気に圧倒されていた。ペネロペだけが平静を保っていた。。
「〔みんな死んじまうんだ!クソッタレ料理人のピアソンもお前も、俺も!マッカートニーとジョンソンだって昇格の夢を見たまま死ぬのさ!あのイカれた、女、指揮官ペネロペだって、きっと最後には悶え苦しんで死ぬのさ!〕大丈夫かヘンケル?怖いのは僕もそうだ!だけど、あぁ!どうしたってんだヘンケル!君の足がないじゃないか、それに胴体だってドロドロになっているぞ!〔デュラァァァ!死ぬんだ、死ぬのさ、夢も希望もここが終着点さ!いひゃびゃひゃ!〕ヘンケル!ヘンケル!君が消えてしまった!薄汚い寝袋の赤いシミに変わってしまった。うわぁぁぁぁ…!」
デュラは叫びながら、体を大きく仰け反らせて痙攣し、悲痛な絶叫を喉から血を溢れ返しながら続けた。両脇にいた兵士達はあまりの恐ろしさに腰を抜かしてしまっていた。「終わりだ…終わりだ…」バクダンまでもがそうブツブツ呟き始めた。「馬鹿野郎!」ペネロペが机を弾き飛ばし、バクダンを押しのけた。限りなく発狂を続けるデュラ一等兵の髪を掴み、力一杯引っ張った。デュラの瞳が眼孔の中を、机に転がしたビー玉のようにぐるぐる転げ回っている。「貴様は何だ!」ペネロペがデュラの叫びに負けないぐらい声を張り上げていった。一瞬、デュラの瞳が正面で静止した。デュラとペネロペの瞳があった。
「貴様は何だ!」もう一度、もっと大きい声でペネロペが怒鳴った。喉から血が吹き出した。
「ぐ…ん…じ…」枯れた声が微かにデュラから漏れ出した。
「貴様らはなんだ!」ペネロペが周りの兵士にもいった。ペネロペの圧力により彼等は既に正気を取り戻していた。「はっ!軍人であります!」口々に兵士がいった。
「そうだ!貴様らは軍人だ!貴様らは戦うためにここにいる!貴様らの主義、主張、経歴、経験、帰ったら何するだの、誰が待っているだの…この戦場においては、胸につける階級章以下の装飾品に過ぎない!貴様らは兵士だ!貴様らにあるのは敵を殺す事だけ!生存や生還!そんなことは以ての他!軍人の意義は!戦って戦って、戦い抜き、そして勝利する事だ!」
ペネロペは今一度、デュラ二等兵の髪を引っ張り顔を引き寄せた。「いいか!貴様の仕事は、軟弱者のヘンケル一等兵のように未来を心配することではない!臆病者として生きて帰ったとして!その後のうのうと暮らすより、臓物を撒き散らしながら銃剣を敵の喉元に突き立てる方がよっぽど素晴らしい!発狂するなら敵の血を浴びながら発狂しろ!敵の肉を歯で食い破り、血を啜って発狂しろ!頭を掻きむしるな!その爪で敵の目玉をほじくれ、目から脳味噌まで、指で突き通してみせろ!それが軍人だ!」
あの半狂人デュラの狂気はいとも容易くペネロペの狂気に打ちのめされて、追い出された。その日からデュラの体には、ペネロペの狂気が乗り移ったのだった。彼は人が変わったように暴れ回る様になった。鉄鉈で敵の体を切り裂き、生肉を口に頬張り、傷口から流れ出る血を啜り尽くした。
そして、慟哭した。あの半狂人時代の、絶望に轢き潰されたような叫びではない。喜びの叫び、勝利の雄叫び、我らが至上の女指揮官ペネロペに勝利をもたらした事による快楽の叫びだった。
「流石だな!デュラ副指揮官!貴様は最高の軍人だ!溶けて消えたバクダン前副指揮官もきっと喜んでいるぞ!」砂漠に残っているのはペネロペとデュラ、それ以外に数人だけだった。
「ピアソン!駄目だ!貴様は立派な軍人にして当代最高の料理人だろう!貴様が消えてなくなってどうする?誰が我々の祝勝会の為のご馳走をこしらえると言うのだ!」
「分かってる…分かってるんだ!心を強く保てば溶けずにいられるって。でも、駄目だ。俺はあんたやデュラのように強くない。どうしても、最後は絶望に心が折れてしまうんだ。けれど、それにしては、よく持った方だと思うぜ」ピアソンはそう言って、冗談っぽく笑った。そして、三秒と経たない内にその笑みがドロリと溶け出して、寝袋のシミと化した。「ピアソン!ピアソン!聞こえているか!おまえは我が部隊の誇りだ、よく今まで耐えた!あとは任せろ、私達がきっとやり遂げるからな。あの地平線まで、敵の死肉で埋め尽くしてやる。待ってろよ…」
ペネロペは、かつてピアソンだった赤いシミを暫く見つめた後、立ち上がるとテントの外に出た。外は静まっていた。血の霧が辺りに立ち込めて、その中、デュラが鉄鉈を研いでいた。病的に瘦せこけていた彼の体躯はいつの間にか異常なほどに肥大化し、伝承に出てくる狼男のようだった。
「デュラ…」ペネロペはこの最後の部下の横に肩を並べた。お互い血塗れだった。軍服というより血糊を着ているに等しかった。
「おまえはいつまで軍人でいられるか?」
それからいくつも時間が過ぎた。死体は地平線のその先まで続き、砂漠の砂を覆い隠した。沸騰した血が空に昇り、血の雨を降らせ始めた。やがて、砂漠の窪みに血の池ができ、その十年後には一本の長い血の川ができた。野営地には新しく人骨を折り重ねて建てられた家ができ、小さな子供が、その周りを飛び回った。
押し寄せる軍勢は、デュラが容易く引き裂いた。
「マッカートニー!ジョンソン!貴様らは最高の砲手になるんだ。今は大砲の弾が無いが、いつかお前達の腕前が役に立つ時が来るはずだ!」
「ピアソン、貴様には世界一の料理人が残したレシピをやる!心して励め!」ペネロペは腹をぷっくりと膨らんだ腹を揺らしながら屋内を忙しなく動き周り子供たちの教育に励んでいた。
数年後、大人になった子供たちが、使い手を失った銃を手に取り戦うようになった。敵の軍勢は相変わらず何処からともなく現れ、集落に襲いかかった。
「ペネロペ指揮官殿」
「どうしたヘンケル一等兵!部屋に入るときはノックを必ずしろと言ったはずだぞ!」ペネロペが怒鳴った。
「は、はっ!動揺していたもので」
「言い訳はいらない!最高の軍人は言われたことを忠実にこなすのみ!言い訳など必要ないのだ!で、何の用だ!」
ヘンケル一等兵は今にも泣き出しそうだった。
「泣くなよ!軍人の涙は枯れてなければならないんだ!」
ヘンケル一等兵は遂に泣き出した。そして言った。
「あのデュラ副指揮官殿がー」
その死体は、腹から腸を撒き散らして死んでいた。
何体かの敵を、巨大な腕で地面に押さえつけ、その凶暴な爪を脳味噌奥深くまで突き刺していた。体の穴という穴から血を垂らしながら、かつて、ペネロペが話した軍人像さながらに死んでいた。
「あぁデュラ…お前は本当に…最高の軍人だ!」
ペネロペはそれから言葉を紡ごうと、口をパクパクと動かしたが何一つ音を発せなかった。ヘンケル一等兵は自分の母の目から涙が溢れるのを初めてみた。
それからも時間と血は流れ続けた。死体の大地が固まり、遷移が起こり、砂漠は消えて、森ができた。
ペネロペの部隊は日増しに拡大し、集落の規模はもはや街と呼んで差し支えなかった。
「時は来た!」ペネロペ指揮官が言った。しゃがれているが筋の通った強さがあった。彼女の前には、大勢の兵士がいた。その中には奇形も多かった。
「ペネロペ!」「ペネロペ!」「ペネロペ!」誰もがそう叫んだ。
「兼ねてより!敵の軍勢を退け続けて来た我々だったが、遂に反撃の時だ!敵の本拠地がどこにあるのか、一体何が目的なのか?それは分からない!だが!地の果てまで突き進めば必ず見つけ出せるはずだ!敵を殺すんだ!皆殺しだ!」兵士達は己の武器を掲げ指揮官の雄叫びに呼応した。
「よろしい!よろしい!大変素晴らしいぞ貴様ら!最高の軍人達だ!」
ペネロペは白髪をたなびかせながら、遠くの地平線を指差した。兵士達は彼女の一声を待ちわびている。
ペネロペはは息を目一杯吸って、もう一度指の先を見据えた。そして、溢れんばかりに叫んだ…
「前進!!