男女間の海に落ちた車
「事故るとしたら、行きと帰りどっちがイヤ?」
「は?」
週末、1泊2日の温泉旅行のつもりで、彼女を乗せてふらりとドライブに出たところだった。
いい気分でいたいのに、女ってのはどうしてこんな、なぞなぞみたいな質問が好きなんだろう?
「どっちがいいか」でもなく、「どっちが嫌か」ってそりゃ、どっちも嫌に決まってるだろうが。
ベッドの中じゃ可愛いのに、どうせ夜になったらこんな謎かけする余裕なんてなくなるくせに。
前方に海岸線が見え始めても、隣の女は、自分の窓側の山の緑を眺めて顔を背けている。
どうでもよさそうだから投げやりに答えることにした。
「行きだろ。帰りなら事故っても楽しんだ後じゃないか」
「そのまま、死んでしまうとしても?」
「へ? 事故死なのか? 縁起でもない」
「事故死するとしたらどっちがイヤ?」
「おまえなあ、こんな景色の良いところ走ってるのに、そんな話題しかないのか?」
「今聞いておきたいの」
その声音に、夏だというのにオレはひやっと背筋に冷たいものを感じた。
前々から、どこか得体が知れないと思ってはいたが、オレの返答次第でこの愛車に細工して事故らせる予定でもあるかのようだ。
「死ぬんだったら目的地でさんざん楽しんだ後がいい。だから、今事故るのがイヤだ」
こう言っておけば温泉宿に着くまでは、自分の命は安全な気がする。
「私は帰りに死ぬほうがイヤよ。家に帰りたいのに帰れないって、地縛霊案件だわ。そこらへんの電信柱の横にぼやっと立って、次の犠牲者を探すの」
こういう執念深さがある女なんだよなと、青白く薄幸そうな横顔を目の端で眺める。
「一緒に死んだらどうだ?」
口にした瞬間に後悔した。
これでは心中に同意したようなものだ。
隣からぬっと腕が伸びてきてハンドルを外に切られ、車ごとガードレールから海へとダイブさせられても、文句が言えないじゃないか。
心の中ではかなり慌て、でも平静を装って次の言葉を付け足す。
「家に帰りたいんだったら、Uターンしても構わないぜ? オレといるより家に居たいって思うんだったらさ」
「そんなこと、言ってない……」
じゃあ、どういうことなんだよと聞きたい気もしたが、ここは詰め寄らないほうがいいんだろう。
「じゃ、変なこと考えてないで楽しそうにしてろ」
オレにはこう言うのが精一杯だった。
宿に着いてからは、温泉と海の幸と彼女をがっつりと愉しんだ。
そのまま眠りについた彼女を布団に残して、オレは地下駐車場の愛車を一通り点検した。
タイヤも摩耗してないし、オイルは充分、電気系統にも問題なく、爆弾が仕掛けられたようでもない。
ただの会話を自分が深読みしただけ、気にかかっただけだと自分に言い聞かせ、部屋に戻った。
彼女の寝顔は可愛い。
「あまり脅かすなよ」
髪を撫でながらつぶやき、オレも眠ることにした。
チェックアウトぎりぎりの時間まで、「オレたちは両想いじゃないか」と彼女の身体に教え込んだ。
帰り道、車は海側車線、波頭が白く跳ねる青黒い海をなぞるようにして走る。
日曜日の昼下がり、気分は爽快で愛車は水を得た魚のように速度を上げた。
県道がワインディングしながら崖を登り、広く海が見渡せるところに差し掛かると、助手席の女がふとガードレールを指さした。
「ほら、あそこに地縛霊」
「なに!?」
驚いた瞬間にハンドルが海側にぶれた。
目を向けた方向に、車は進んでいくものだ。
目の前に白いガードレールが迫る。
急ハンドル、急ブレーキの音の中で、女の声が妙にはっきりと聞こえた。
「帰巣本能が足らない。結婚しても、あなたは私の元に帰ってこない。私と子どものもとには」
「どういう意味だ?!」
「私を妊娠させたことにも気付かない人に呪いをかけただけよ。楽しければいいと思っているあなたにね」
5メートルの高さを落ちていく車がなぜかスローモーションに感じた。
「言えばいいだろ!」
「帰りに事故るなら本望でしょ?」
女の声は冷たく、車に入ってきた海水のほうが温かい気がした。
その夜のネットニュースには、「大人になれない若者たち。妊娠を苦に心中か?」とのタイトルが流れたが、クリックして中身をチェックした読者は数えるほどだった。
ー了ー
読んでくださりありがとうございました。