本能と意志のジレンマ
犬人たちは、かつて多次元帝国を建設した超技術を再獲得しないように、地球でいうなら産業革命初期の文明時代を、100年ごとにリセットしながら22回、2200年間も繰り返している……。
地球だったら、鉄器時代から宇宙進出するまでに文明が発展する時間だ。
……そろそろ、ペナルティは解除してもいいころあいなんじゃなかろうか。
かつて犬人の多次元帝国に支配されていた世界も、いまごろは高度な文明を築いているだろうし、仮にまた侵攻があっても防衛できるはずだ。
そもそも、欲深い犬の神は拘束されているわけで、いまの犬人たちを解き放っても問題は起こさないと思うけど。
竜の巫女アルシャエディリスが、大きな目をちらりと光らせた。
「その顔……おそらくチサトはわらわと同じ考えじゃな。だが、実際のところ、繰り返しを望んでいるのは犬人自身なのじゃ」
「どういうこと?」
「諸種族の神々も、われら竜種も、犬人側の提案にしたがって文明抑制をしているだけで、強制はしておらぬ。もちろん、いまの犬人に宇宙技術はないから、惑星間移動をさせているのはわれわれじゃし、資源消費量があまり多くない段階の文明時代とはいえ、繰り返しを重ねすぎてきておるから、いくらかの物資の搬入なども行っているがの」
「うーんと……意味がよくわからない。犬人の文明発達を抑え込む必要はもうないと、あなたたちは考えているのに、犬人自身は19世紀から20世紀初頭を――地球でいえばだけど――ずっと繰り返したがっているっていうの?」
「そういうことじゃな」
犬人、反省の態度にしては卑屈すぎない? 3000年間の戦役と、その前の帝国主義時代に比べたら、2200年のペナルティじゃまだ短いって?
……ていうかさ。
「ちょっとまってアル。そもそも、文明をリセットして繰り返しを望んでる犬人の意思って、だれの?」
犬人たちひとりひとりに、アンケートを取って回ったわけではあるまい。
リュントくんはこの話になってからほとんど口を開いていないが、突拍子がなさすぎるあまり、理解しようと必死になって、聞いているだけでいっぱいいっぱいだからだ。
日本の歴史でいえば大正時代に暮らしている13、4歳の子が、多次元帝国と銀河竜文明の戦争だの、神々の介入だの、終戦協定の結果永遠の19世紀を繰り返すことになった世界だの、そんなハリウッド映画だって1本に全部は詰め込まないぞってレベルの超大作SFな話をされたって、理解が追いつくわけもないのだ。
そしてリュントくんの反応を見る限り、確実に初耳だろう。学校の授業にそんなカリキュラムはないに違いない。
この世界のふつうのひとたちにとって、古代文明やら、じつは自分たちの本来の神さまは不在となっている(しかも戦争捕虜だ)ことやら、それでも神々は実在していることやらは、あずかり知りえぬ与太話――せいぜい神話も同然なのだ。
それなのに、文明リセットを望んでいる犬人の意思って、なんなのよ?
わたしが首をひねったところで、アルがなにかを答えようとする前に、リュントくんが口を開いた。
「ぼくには……わかる気がします。神さまが怖いんです」
「神さまって、あなたたち犬人の、ってこと?」
「ぼくらの神は、捕らえられているだけで、まだ生きているんですよね?」
リュントくんはアルヘ訊ねていた。竜人の巫女はうなずく。
「伊達に神ではないからのう。2000年やそこらでは衰えぬ。そして、犬の神は1対1でなら、現在確認されているほかのどの神よりも強い。野心を抱くに相応な実力は備えておったといえるの」
「神がぼくたちに命令を出すこともできなくなるには、あとどのくらいかかるんでしょうか?」
「それはなんともいえんの。われわれの知る限り、神が死んだ記録はない。われらの世界のように、神が不在の場合はあるが、それは、神が死んだのか、寝ておるだけなのか、はたまた自らの世界を留守にしているのか、それはわからんのじゃ。すくなくとも、われら竜種は、自らの神を殺したり、追放したりはしておらん。寿命が短くて、超古代からの伝承が途切れている種族の世界に関しては、たしかなことはいえぬがな。たとえば地球とか」
……おおっと、ここでしれっと重大事実!
地球は神さまいないのか! だれか神さま殺しちゃった? ツァラトゥストラは神弑せり? それとも、かまってもらえなくなって、ウサギみたいにさみしくて死んじゃったのかな?
ていうか、そうなると、わたしの夢枕に立ったあの美形神はどこのだれ?
と……横道に気がそれたわたしだったけど、この世界での自分の役割を思い出した。目下の課題に思考を戻す。
リュントくんの、暴君だが強大な指導者でもあった犬の神を恐れる感覚は、犬人ならではのものだろう。
仮に犬の神が解放されるようなことがあれば、犬人はふたたびボスに服従せざるをえなくなるのではないか。犬の神に犬人を率いる力が残っているうちは、高度な技術段階に達するべきではないのではないか――それが、これまで22回文明リセットを選択してきた、犬人の判断ということらしい。
「リュントくんが100年に一度の祭儀で犬人の代表を務めるっていうのは、リュントくんの判断を犬人全体の判断とみなすっていう意味なの?」
わたしが訊ねると、アルはふわりと立ちあがった。
「必要な話もだいたい終わったことじゃし、見てもらうとするかの」
「なにを?」
「本題に直接関わるものを、な。すぐそこじゃ」
そういって、アルは本殿の一番奥へと向かっていく。リュントくんもすっと立ちあがって。
「……ごめん、足しびれた」
わたしは情けない声でふたりを呼び止めた。
いやあ、話長かったし。座布団あったし床じゃなくて毛氈の上だったけど、ふだん椅子生活ですんでわたし。
「チサトさま、だいじょうぶですか?」
そういいながら、わたしのかたわらにかがみ込んだリュントくんが、ふくらはぎをさすってくれる。
指のもみほぐしと肉球のぽふぽふ感で、すごく心地よい。犬人は、みんなマッサージの達人の素養があるかもしれない。
いやしかし……かわいい中学生にマッサージしてもらえるとか、これはいまの日本だとヤバいかもしれないやつだな! ここ異世界でよかった。
「んー、ありがと、楽になった。リュントくん揉むのうまい」
「えあっ……」
わたしの他意はない発言に、リュントくんがぴくっ!と身を離して、口をあわあわとわななかせる。もふもふな毛で見えないけど、たぶん赤くなっているだろう。
ごめん……揉むのうまい、は語弊あるよね。健全な男子中学生にこれはセクハラ発言一歩手前だわ。いやアウトライン踏んだかも。
「いやいや、変な意味じゃないから、肩や腰も揉んでほしいくらい」
「……オホン。歩けるようになったなら、いくぞよ」
アルが両手を腰にやって、ぬらっとした眼でわたしを見ている。……かわいい男子中学生をはべらせようとかご奉仕してもらおうとか、そういう邪マなたくらみはないってば!
わたしもよっこいせと立ちあがり、リュントくんとともにアルのあとにつづく。
本殿の最奥、神社なら御神体が安置してあるところに、白木でできた、観音開きの扉つきの棚があった。腰の高さくらいの台座に乗せられていて、縦横それぞれ1メートルずつくらい。
アルが戸棚を開けると、中にはひとかかえほどある、青い球体が浮いていた。なにかに支えられているわけでもなく、吊り下げられてもおらず。
ぱっと見……CGモデルの海王星っぽいというか、のっぺりとした青一面ではなく、渦を巻いたり揺らめいている部分もある。地球のような、というたとえにならないのは、青の濃淡やゆらぎであって、雲のような白い部分はないから。
わたしとリュントくんのほうへ振り返り、球体を手で示しながらアルが説明してくれた。
「これは、かつて犬の神が自らの眷属を掌握するために使っていたシステムの中枢じゃ。いまは、多くの犬人たちの魂を結びつけた、犬人全体の集合意識体というべきものになっておる」