異世界に行っても腹は減る
わたしの鼻腔をくすぐったのは、ダシと味噌と醤油と……ようするにおいしそうな和食の香りだ。
ぐぅ、とお腹が鳴る。そういえば、この世界にやってきてからたぶん2時間かそこらはたったな。神さまから夜中の何時に声をかけられたのかはわかんないけど、昨日の晩ごはんからの経過時間を考えれば、お腹が減ってもおかしくはない。
三角巾に割烹着姿のロクランさんが、廊下にのれんのかかっている奥から顔を出した。そっちは台所なのだろう。
「チサトさま、よろしければ粗飯をさしあげたく存じますが」
「お心遣い、ありがとうございます……」
ですけど、急いでますので、と言いかけて、わたしは口の動きをとどめた。
わたしが予測している最悪のパターンの場合、リュントくんにとって、これがご両親と囲む最後の食卓になるのだ。それを振り払っていくのはいかがなものか。
食事によからぬものが盛られる可能性に関しては、ここはゴッドを信用しよう。わたしが腹を下したり毒膳で倒れた場合、意識を取り戻すのは水曜日の朝、自宅の布団の中のはずだ。
ロクランさんのあとについていったさきは、畳に座卓の、日曜の某国民的アニメに出てきそうな和室だった。ないのはテレビくらい。でもラジオはあった。時代ドラマでしか見たことのない、でっかいやつ。
グトウザさんが、さっきまでの羽織袴よりずいぶん楽そうな丹前姿でもう座っていた。ふだんはグトウザさんの指定席であろう、床の間の前が空いている。
「ラジオ放送はじまってるんですね」
「地球ではもはや絶滅危惧種の電波放送だそうですな。こちらでは、まだ試験段階です。それよりどうぞ、お座りになってくだされ」
「あ、はい。失礼します」
おずおず上座に収まると、グトウザさんはこの世界でのラジオ放送についての話をつづけてくれた。
「1日に1時間か2時間、新聞記事の読み上げと、その日に都合がついた歌手に持ち曲を唄わせて流しております。台本劇をやってみようという話が出ていて、手前が役者を集めているところです」
「ラジオドラマですか。収録した音声を流すんじゃなくて、生放送になるんですかね」
「記録管はありますが、マイクの前で再生するという方法ではあまりうまくいきませんでな」
なるほど。音声を電気信号に変換して保存しておく技術がまだないわけだ。
わたしじゃお役に立てないけど、技術的なこと知ってる人が召喚されてきたときに指導してもらったりすればいいのに。それとも、色んな人から断片的に話を聞いた結果がいまの状況なのかな、などと考えているところに、お盆を持ったロクランさんがやってきた。リュントくんはお櫃を持っている。
「どうぞ」
「ありがとう」
リュントくんがご飯をよそってくれた。お茶碗を受け取る。ふっくら炊きたてのおいしそうな白飯だ。電子炊飯器はないだろうから、釜炊きに違いない。
ロクランさんがお膳を並べてくれる。おみ御つけと、おひたしと、冷ややっこと、メインは肉じゃが。すごく家庭的なメニューだ。
あきらかそのスジで、表の実業家としても成功しているっぽいグトウザさんの奥さんなわけだから、ロクランさんはひかえめにいって社長夫人だろう。
それなのに手ずからお料理しているっていうのは、本人の志望なのか、グトウザさんの方針なのか、それともこれが犬人社会のあたり前なのだろうか。
……ここに永住するわけでもないし、気にしすぎてもしょうがないか。住み心地悪くなさそうだけど。
配膳を終えて、ロクランさんも食卓についた。いちおう主賓であるという自覚を持って、手を合わせる。
「いただきます」
「粗膳でございますが、どうぞお召し上がりになってください」
とんでもない。こんなまともなもの食べるのなんて久しぶりですよ。
――あー、思ったとおり、おいしい。
ご飯は、たしかにお米は品種改良が進む前なんだろうけど、直火の釜炊きがその差を埋めている。これは、ふだん自分が文明の恩恵に浴しているって思ったほうがいいんだろうな。
肉じゃがは本当に肉じゃが。「ジャガ」イモではないかもしれないけど。でもホクホクでおいしいおイモだ。タマネギが入ってないのは、犬人もやっぱりネギ類厳禁ってことかしら。
……おみ御つけにも麩だけでワケギ浮いてないから、そういうことだな。実はカブだった。おダシがよく染みてておいしいです。
おひたしは小松菜だった。冷ややっこはいわずもがな。どちらもなじみのあるおいしさ。強いていえば、お豆腐はわたしがふだん食べてるのより濃くて、上にかかってる削り節はどうやらカツオではなさそうだというくらいか。
いずれにしても、食文化はほぼ日本だ。
……定住できるわこれ。このさき、オオカミ神宮で不測の事態が起こったとしても、帰れなくなったらどうしよう、っていう心配はさほどしなくてよさそう。
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オオカミ――漢字だと「大嘉彌」と書くのか――神宮の杜は、聖域というよりは市民の憩いの場みたいだった。
保育園児か幼稚園児に相当するのだろうちびっこたちが、引率の先生に見守られてきゃいきゃいと走り回っている。
お散歩中なのだろう年配のひとや、客先廻りの途中でひと息入れているらしい背広姿、放課後の学生たちもいる。
参道をわが物顔で走るジョガーが群れなしていないところ以外は、日本の大きな寺社の杜で見られる光景と変わらない。
参道の石畳の上をハトやスズメのような鳥がちょこちょこ歩いていて、周りの杜からも、姿は見えないけどさえずりが聞こえてくる。このへんも、わたしにとっておなじみな雰囲気だ。
地球のとは形が違うけど、鳥居であろう参道をまたいでいるアーチをくぐるたびに、人影がじょじょに減っていった。
「初詣とかってあるのかな」
とつぶやいてみたら、リュントくんがすぐ答えてくれた。
「年初祈念にはたくさんのひとたちがお詣りにきますよ」
「そのへんはうちの世界と同じなんだね」
社殿が見えてきた。ここまでは一般参賀者も入ってこられて、お詣りするのだろう。おみくじやお守りの授与所があって、わりと地球人であるわたしにとってもイメージどおりの巫女服を着た、シーズーとダックスフントっぽい女の子がいた。
何人か、お詣りをすませたのだろうひとたちともすれ違う。
おみくじの売り子してるあのふたりは、わたしが会わなきゃいけない巫女さんとは違うだろうな、と思っていると、平たいツルツル顔族がやってきたのに気がついて、作務を着た黒毛の犬人が閉まっていた木戸口を開けた。
……甲斐犬かな? 役職としては、禰宜か権禰宜だろう。
「ようこそお越しくださいました、御使いさま。こちらへ」
よく見ると、甲斐禰宜の腰には刀が差してあった。作務担当ではなく警備員みたいだ。
拝殿の50メートルほど外側を取り囲んでいる屋根つきの廊下を通って、さらに奥へ。
「この門からお進みください」
外郭廊の門のひとつまでやってきたところで、甲斐禰宜さんの案内はおしまい。
本殿は、拝殿より面積は狭そうだけど、上方向にはより高かった。屋根のはしっこにVの字に突き出た部分(あとで調べたら千木というらしい。なお横棒にあたる鰹木は見あたらなかった)がある様式は、わたしにとっても社殿感をかもし出す造りだ。
本殿前に、烏帽子をかぶって白い装束の、宮司さんであろう姿があった。
年配の柴犬なのか、秋田犬か北海道犬なのか、わたしの目には定かでない。とりあえず、毛が長めだけどちょっとくたびれた感じの、和犬だ。
「ようこそ御使いどの。この大嘉彌神宮を預かっております、狗伊と申します」
「どうも、犬飼ちさとです。詳しいことはここの巫女さんから説明を受けるようにってだけしか聞いてなくて、なにも知りませんけど」
「問題ありません。巫女どのより納得いくまで事情をおうかがいになり、チサトどのご自身が最善と判断なされたようにしていただきたい。われわれは、その結果にしたがいまする」
狗伊宮司のいうことはグトウザさんと完全に同じだった。これが犬人たちの原則的考えと思っていいのだろうか。
……平たいツルツル顔族のことを、みんなが神さまの使いだと認識しているなら、赤レンガ街で追いかけてきた蒸気自動車の一団は、いったいなんだったの? あの5人と、シカゴマフィア風ピットブルと浪人風ドーベルマンはどうなってしまったのか。
そのあたりもふくめて、巫女さんに訊かなきゃな。
狗伊さんが本殿の扉を開け、わたしとリュントくんは靴を脱いで中へ。