だから、旅立ちます
ヨリさんが蕎麦をすする。
この蕎麦屋の常連であるヨリさんは、とても暗い人だった。毎日ランチの時間にやってきて、お決まりご膳という千円ぽっきりのお得セットではなく、五五〇円のたぬき蕎麦、もしくは鶏卵蕎麦を注文する人。あんかけのお蕎麦が好きな人だった。
普段からしかめっ面して蕎麦を食べ、口から出るのは愚痴ばかり。ご近所さんの愚痴、親族の愚痴、政治の愚痴。この人は人生が思うようにいかなかったのかな、と私はヨリさんの愚痴にそうですか、と相槌を打ちながらむなしくなった。どことなく、私もこうなるんじゃないか、なりたくないな、という思いがあった。
そのヨリさんだが、ここ二週間くらい、あまり愚痴を言わなくなった。緩やかな変貌。しかめっ面が作っていた皺が減った。下向きだった視線が上がった。お化粧の色が明るくなったのか、それとも血色がよくなったのか。
「何かいいことがあったんですか」
私がそう聞くと、
「そうなのよ、エマちゃんも困ったことがあれば入らない? 私、入信してからすぐに悩みなんか、なくなっちゃった。やっぱり人間、無欲でなくてはいけないのね」
そう言ってヨリさんは綺麗に折り畳まれたチラシを差し出した。『天空の泉』という宗教団体。覚醒する真理、と謳われているが、今どきこんなのにハマるかな。いや、ハマる人がいるからチラシを刷るお金くらい湧いてくるんだろう。
「エマちゃんは、悩み事無いの?」
「ないですね」
「困り事があったら遠慮せずに言ってね。真理は天空にあり、なのよ」
ヨリさんはピッと人差し指を上に向かって立てて、微笑んだ。その指の先には真理があると言わんばかりだった。
バイト上がり、散歩でもして帰ろうとしたら曇ってきていた。朝はあんなに天気が良かったのに。今日の降水確率は七十パーセント。
ヨリさん、これじゃあ真理は見えないね。
しばらく歩き、商店街を抜けて駅前に差し掛かった時、駅前広場の片隅に青いチラシを配る人がいた。私は目線を合わさないように斜めに視線を下げ、足早に通り過ぎようと思った。しかしその人は、私の視界に入るように、ずいと紙を差し出して、
「あなたも悩みの解決を天空に求めませんか」
随分強引な信者だ,と思った。そして、いらないです。そう言おうと声の方に向いてびっくりした。もう半年くらい大学で顔を見ていない鈴木君だった。
「やっぱり長船さんだ。久しぶり!」
「そう、だね」
へにゃっと笑いながら、彼は私に『天空の泉』の勧誘チラシを渡そうとした。
「いいよ私は、そういうの。間に合ってるんだ」
笑って手を横に振ると、鈴木君も「そっか」って笑って、すんなりとチラシを引っ込め私から離れた。
ポツポツと雨が落ちる。傘を持ってきていた私は自分の完璧な準備を信じてきっていた。しかし傘を広げてみると、骨が一本折れていた。ダサいな、けど仕方ない。
さっきの鈴木君と比べたら,どっちがダサいかな。私? それとも鈴木君。
折れた傘をさして歩いていくと、小さな鳥居があった。朱色の鳥居は雨に濡れて、ぬるりと光っていた。私は天空にある真理とやらよりこっちを拝もうと思い、鳥居を潜った。
神様を祀る社も小さくて、私はその控えめな信仰の姿に少し安堵した。
賽銭を入れようとして鞄の中を探った時、社のすぐそばにある紫陽花の向こうでガサガサと音がした。
なんだろう。
そっと覗き見れば小雨の中、紫陽花の葉に囲まれて、カップルがいたしているところだった。
屋外は流石に、ない。
私は思わずお詣りもせず、静かにその場を立ち去った。
バイト先の常連さんと大学の同期は宗教に走り、鳥居の向こうには春が蠢き。
今日という日はなんだか変だ。雨だけが私はマトモ、という顔で、当たり前のように降り続けていた。
駅前に戻ってきたら鈴木君はいなくなっていた。遠くで雷が鳴っている。天空に真理はないと思うけれど、雷は住んでいる。時折ゴロゴロ、不気味に呻く。雲がチカチカと瞬く。
私は折れた傘をたたんで駅の軒下に逃げてみた。鈴木君は、雨、大丈夫だったんだろうか。辺りを見回していると、エマという呼びかけと共に後ろから肩を抱かれる。彼氏だった。
「びっくりした、どしたの」
たまたま会えたことが嬉しくって彼を見上げると、私の大好きな声で、
「チラシ配り,手伝ってんだ」
そういう彼氏の手には『天空の泉』の青いチラシ。眩暈がした。そうだった、彼氏、鈴木君と仲が良かった。
彼氏と会えた、という嬉しさよりも、彼氏が手にしたチラシの威力の方が絶大だった。酷いな。偶然にしては酷すぎる。こういうの、なんていうんだったかな。
「運命だね」
考える前に思わず、口をついて出た。
しかし違和感のない、この場に一番ふさわしい言葉に思えた。もう隠さなくていいんだよって言われてるみたいな、今日のこの巡りあわせ。
彼氏はポカンとして言った。
「何が?」
「あのね。その宗教の教祖、私の母なの」
私は小声で告白した。
これで彼氏はどんな反応をするだろう、忌避か驚愕か。しかしそのどちらでもない、尊敬の眼差しに、私は気分が悪くなった。
「すごい、すごい偶然じゃん! 教祖様の子どもだったら、エマも天空にある真理を見たことがあるんだよな」
興奮気味の彼氏の声は大きい。通り過ぎる人たちは無関心を装いつつ、きっとこの気味の悪い会話を聞いているに違いない。彼氏はいつの間に、他人から与えられる『真理』の沼にどっぷりつかっちゃったんだろうな。君にとって『真の理』はそんなに軽いの。
私のどこかで、何かが冷めた。
「天空に真理なんてないよ。そんなもの、私はないと思ってる」
彼氏は不思議そうに私を見た。
「教祖様の子どもなのに、信じてないのか」
「君、大丈夫? そんな見つけやすいところに真理があるなら、もっといい世の中だと思うよ」
私はずっと隠していたかったし、母親がでっち上げた真理なんてクソだと思ってた。でも意外と引っかかる人はいて、今日はその中でも特に最悪。逃げても逃げても、母親の影はこうやって私に纏わりつく。
「じゃあ、エマは天空に何があると思うんだ?」
私はため息をついて、私に触れたままの彼の手を外して言った。
「スペースデブリじゃない?」
とりあえず、そば屋はやめよう。彼氏とも別れよう。大学も辞めて遠くに行こう。
彼氏だった人を置き去りにして、私は駅舎の軒下に立った。駅から吐き出される人たちは、機械的に傘を広げて雨の中へ出てゆく。
この雨の中、私も折れた傘をさして帰るんだ。きっと、神社で見たカップルは大雨の中、最高潮を迎えていて、愚痴を言うヨリさんはもう、戻ってこないんだろう。鈴木君も、彼氏も。
私は、そこに突っ立っているだろう、彼氏だった人を振り向いたりしなかったし、彼も私を追いかけてこない。
醜いスペースデブリと私の間には春の分厚い雲が広がっていて、しばらく雨は続きそうだった。