第八話 衝突
異界荘から車で飛ばすこと一時間、カーナビの案内音声が目的地を告げた。
フロントガラスに射しこむ夕日に竜はうっすらと目を開けた。寂れたシャッター街から活気に満ちた繁華街へ変わった景色に、竜は「もう着いたのか……」とうわ言のように呟いていた。
隣に目をやると、目を細めてハンドルを握るななみの姿があった。
竜はちらりとカーナビに映る時刻を眺めた。異界荘から蒲田駅まで一時間ほど時間が経っていた。ここから応援を連れて戻るのにさらに一時間かかる計算だ。
その間、スーラは刃渡と言う男に怯えながらたった一人で部屋に閉じこもっている。
エンジン音がさらに大きくなり、通勤帰りの車の間を縫うように走りだした。
「間に合ったみたいね」
ななみがそう小さく呟くと、ハンドルを右に切ってブレーキを踏み込んだ。けたたましいブレーキ音を上げながら停まる一台の外車に駅前に集合していた警察と異世界課は一瞬、言葉を失っていた。
冷静に口火を切ったのは伊勢刑事だ。
「お二人さんが最後ですよ」
「最後で悪かったな」
「下岩君!」
いつものようにいがみ合う竜と伊勢を無視して、ななみは部下の名を呼んだ。警官の人だかりの中から、桐沢と共に角刈り頭の男が唖然とした様子で歩み出た。
「室長?どうしてここに?」
「下岩君はアメフトしてたわよね?体力には自信がある?」
「クォーターバックでしたけど、人並み以上に体力には自信ありますよ」
ななみがスーラの家で起きた脅迫事件を説明した。周りで聞き耳を立てていた警察は皆、渋い顔を浮かべながら視線を落としていた。ヤクザまがいの嫌がらせ行為をする刃渡という男を目撃する、下手すれば、ヤクザとの喧嘩にもなりかねない仕事内容を聞かされた下岩は驚愕と困惑が混じった悲鳴を上げた。
「自分、クォーターバックですよ!室長、アメフトの選手って筋肉ムキムキばかりと思ってるでしょ!ディフェンスラインの選手と違いますから!ほらっ!この華奢な身体を見れば分かるでしょ?」
「あなたしか適任がいないのよ!さっさと来る!」
「勘弁してくださいよぉ!室長!」
ななみに無理矢理引きずられながら悲鳴を上げる下岩を誰もが唖然として見送っていた。下岩を助手席に押し込んだななみはそのまま運転席に乗り込むと、エンジンを吹かせて駅前の広場から走り去った。
砂煙が晴れても尚、呆然と立ち尽くしている全員に向かって伊勢がわざとらしく咳をついた。
「これから異世界人の保護に向けたパトロールを行う!」
伊勢の言葉にその場にいる全員が「よろしくお願いします!」と掛け声を上げた。
それを聞いた伊勢が改めて全員に状況を報告した。
「本日午後二時、蒲田上空に大規模な転移ゲートが観測されたと気象庁から情報があった。」
伊勢の言葉に職員が互いに顔を見合わせ頷き合った。伊勢は更に言葉を続ける。
「異世界人に身分証を掲示するよう積極的に声掛けをお願いします!身分証を持っていない異世界人は速やかに駅前の交番に保護するように!それでは、解散!」
「はいっ!」
掛け声と共に警視庁生活課と入国管理局異世界課の職員は散会した。職員たちが地図と訳語表を照らし合わせながら、雑居ビル群に向かう背中を二人の男が見つめていた。
「何でお前と組まなきゃいけないんだよ?」
「何を言ってる?メンバー編成を決めるのはそっちの仕事じゃないのか?」
「あいにく俺が決めている訳じゃないんでね」
残された竜と伊勢は不服そうに腕組みして駅前の広場に立っていたが、駄々をこねていても日が暮れるばかりだと気づいた二人は睨み合いながら繁華街へと繰り出した。
「ビザの提示、ありがとうございます」
熊人族の大柄な男から向けられる気だるげな視線から逃げるように伊勢はへこへこと頭を下げると、近場をうろついていた竜の元へ駆け寄った。
「大きい異世界人を見ると妙に警戒してしまうな」
「それはおれのせいか?」
「……だろうな」とぼやいて伊勢は辺りを見渡した。
パトロールを始めてから二時間は経ち、夕焼けの空色はすっかり薄まり、東の空にうっすらと月が出ていた。酒を求めるサラリーマンが放浪する中に、異世界人が数人紛れていると言った程度の人通りができる時間だ。
だが、人ごみに紛れているような堂々とした異世界人は転移したばかりの異世界人ではない。
長年パトロールを続けた伊勢の勘だが、堂々と振る舞う異世界人もいるかもしれないと伊勢は手あたり次第に声をかけ続けた。
それでも、転移したばかりの異世界人は未だ見つからず、部下からの連絡もない。
「いつものこととは言え……参るな」
伊勢は思わず夜空に向かって息を吐きかけた。感傷に浸る伊勢の肩に突然、竜の固い手が乗せられる。
「あそこの路地裏に入って行く異世界人がいた。後を追いかけるぞ」
「お前に言われなくても追いかけるよ」
愚痴をこぼしながら伊勢は竜の後について行った。
竜が進む先は繁華街らしい薄暗い路地裏だった。生ゴミと野良猫と室外機から漏れる焼き肉の臭いにまみれた路地裏に用がある異世界人などそうはいないだろう。
あるとすれば、それは職質の対象になる異世界人に違いない。
狭い路地裏を進んだ先から声が聞こえた。異世界の言語で二人が会話しているらしい。
先頭を走っていた竜は足を止めてビルの物陰に身をひそめ様子を窺った。その頭上から伊勢が顔を覗かせていた。
「オタクはこっちに来たばかり?」
「はい……そうですが……」
くぐもった男の声と野太い男の声だ。
会話の内容からして転移したばかりの異世界人がいるに違いないと竜は路地裏の奥を覗いた。路地裏の行き止まりになった先に犬耳が生えた男が立っていた。
犬人族―――異世界人に間違いないと確信するが、もう一人の姿は犬人族の大きな背中に隠されていた。
「なら、僕がこの国を案内してあげるよ」
「案内してくれるんですか?あなたは一体……」
二人の会話に「案内?」と竜が思わずつぶやいた。
「おい!アイツら、なんて言っているんだ?」
異世界の言語での会話についていけない伊勢が覗き込もうと竜の頭上から身を乗り出した。竜は思わず体勢を崩し、物陰から飛び出るように倒れ込んだ。
「誰だ!」
「えっ……誰かいるの?」
騒ぎ出した二人を見て、異世界の言語に疎い伊勢でもさすがに気づいたようだ。伊勢は顔に手を当てながら首を振って竜の方を見ると、竜は力強く頷き返していた。
「少し話を聞かせてもらいたいのだが……」
竜はむくりと立ち上がると、異世界の言語で二人に声をかけた。
突然現れた大男と強面の男に犬人族の男は小さな悲鳴を上げてビルの壁に飛び退いた。
「あっ、やべぇ……」
もう一人の異世界人から焦るような言葉がこぼれたが、その男の感情を読み解くことは叶わなかった。
だが、その男の姿は竜と伊勢が思わず息を飲んでしまうには十分だった。
その男はぼろ布を羽織り、顔には縁日で売られているような猫のお面が付けられていた。
「仮面人族!」
伊勢が声を上げると同時に竜はコンクリートの大地を蹴り上げていた。
走りながら腰を落とすと、そのまま一気に仮面人族へ飛びかかった。
竜の巨体はコンクリートの地面をこするように滑り、山積みになったゴミ袋へぶつかった。飛来するゴミ袋に犬人族の男は悲鳴を上げながら飛び退いた。
「とうとう見つかったか」
くぐもった仮面人族の声に竜は頭上を見上げた。
雑居ビルに垂直に走る雨樋に捕まる仮面人族の姿を見るや否や、竜はその雨樋に手を伸ばし、力を込めて揺らした。
襲いかかる揺れに仮面人族は慌てて手を放した。
その身体が宙に落ちていく。
そして、何もない空中を蹴り上げた。
「逃がすか!」
空中でジャンプして雑居ビルの屋上へ逃げた仮面人族を恨めし気に睨むと、竜は雨樋にしがみつき登り始めた。
一瞬の出来事に呆然と立ちすくんでいた伊勢は我に返ると、同じく唖然としている異世界人に片ことな言葉で声をかけた。
「ここにいろ!いいな!」
「は、はぁ……」
間の抜けた表情で頷く異世界人に背を向けて伊勢はすぐに無線を飛ばした。
「仮面人族と転移したばかりの異世界人を発見!至急、応援をよこしてくれ!」
「えっ?先輩?どういうことっすか……」
無線からの返事を聞き終える間もなく伊勢は雨樋を登り終えた竜を見上げた。そのまま屋上に跳び移って竜が視界から姿を消したのを見届けると、立ちすくむ異世界人の腕を掴んで表通りへ連れて走った。
居酒屋の提灯明かりが見えた所で、スキンヘッドの男が伊勢の目の前を通り去った。かつて世話になった先輩の姿に伊勢は思わず声を上げた。
「日笠さん!」
しかし、日笠刑事は伊勢の声に振り向くことはなかった。
日笠刑事はただ一点、雑居ビルの屋上を跳ぶ仮面人族を見上げながら走っていた。
表通りへ飛び出した伊勢も空を見上げると、仮面人族の背中を追う竜の姿があった。
親指を噛みながら二人の追跡を見送っていると、「伊勢さん!どうしたんすか!」と広大が呑気に手を振りながら走って来た。
「広大!どこに行ってたんだ!」
「ひぇぇ、駅の南側に……」
「そんなことはどうでも良い。異世界人を見つけたから後は頼んだぞ!」
犬人族を広大に任せると伊勢は仮面人族の後を追いかけた。
仮面人族は立ち並ぶ雑居ビルの屋上を軽々と飛んでいく。
その背後を竜が柵を力任せに乗り越えながら追いかけていた。仮面人族は背後をちらりと見て、自分を追う竜の姿に小さく舌打ちをした。
そして、仮面人族は屋上に放置されていた物干し竿を蹴り上げた。
物干し竿にかけられた中華店の制服が竜にめがけて倒れこむ。だが、竜はそれをものともせず、スピードを緩めた仮面人族の元へ駆け寄った。
「待て待て!降参だ!」
流暢な日本語で仮面人族が声を上げた。
両手を上げながら竜の方を振り向いた仮面人族の背後には巨大な道路が広がっていた。
「仮面人族。お前に聞きたいことがある」
竜は額に垂れる汗を拭うと、ゆっくりと仮面人族へ距離を詰めて行った。仮面人族は両手を上げながら歩み寄る竜から少しずつ距離を取っていた。無機質な猫のお面から表情を読み解くことはできず、竜は警戒を強めながら間合いをとった。
「オタク!ひょっとして、竜人族のアルーグか!」
仮面人族のお面の中から驚愕に満ちた声が上がった。見知らぬ相手の口から出た自分の本名に竜は顔をしかめた。
エポイラック・ロケップ・アンジーク・アルーグーーーそれが竜の本名だ。
あまりにも長い名前に辟易した青島課長の命令で今は竜と名乗っている。竜の本名を知っているのは青島課長とななみくらいだ。恐らく同僚の桐沢ですら忘れてしまっているだろう。
さらに竜の出身は人も寄り付かない谷間にある竜人族の村―――いわゆる、交流の少ない田舎だ。異世界人ですらも自分の名前どころか、その村の存在でさえ知る者はほとんどいないだろう。
「お前、どうして俺の名前を知っている?」
「おっと、イケね……」
竜の問いに答えることなく仮面人族はお面の上から口元を手で押さえて黙り込んだ。竜が微かににじり寄ると、それに合わせるかのように仮面人族は後ろへ半歩下がった。
「答えないのならそれは別にいい。だが、この質問には答えてもらうぞ」
先に口を開いたのは竜の方だ。竜はさらに言葉を続けた。
「この前の三橋銀行の事件、あれはお前の仕業なのか?」
竜の言葉に仮面人族は依然として沈黙を貫く続けた。
「その無言は肯定と受け取るぞ?」
そう言って竜は仮面人族へまた一歩にじり寄った。仮面人族は顔を伏せたかと思うと、次の瞬間には顔を上げてじっと竜の顔を見つめた。
そして、仮面人族は首を振った。
「いや、違う」
仮面人族の言葉に竜の口元が微かに緩んだ。
「おい!そこの仮面をかぶった男!」
竜の背後から怒声が轟いた。
慌てて振り返るとそこには肩で息をする日笠刑事の姿があった。ビルの建屋の中から日笠刑事の部下と思しき警官がなだれ込み、退路を断つように二人を取り囲んだ。
「さぁ!観念しろ!異世界人共!不法侵入で現行犯逮捕だ!」
日笠刑事から指さされて戸惑う竜の背後で仮面人族は肩を揺らしながら笑っていた。表情は読み取れないが、余裕の笑みを浮かべているのだろう。そう察した警官たちは、生唾を飲み、仮面人族へ一歩ずつにじり寄った。
「犯人は僕じゃない!頼んだぞ、アルーグ兵長!」
仮面人族が異世界の言語で叫ぶと同時に「捕まえろ!」と日笠刑事が怒号を飛ばした。
取り囲んでいた警官が一斉に仮面人族へ飛びかかった。
仮面人族は垂直に飛び上がり、そのまま柵の上へ跳び乗った。
警官が頭をぶつけあう様を柵の上から見届けると、そのまま六車線の大通りの方へ跳び出した。日笠刑事は慌てて柵へ身を乗り出したが、空を蹴り上げて反対側のビルへ逃げる仮面人族の背中を見届けるしかなかった。
日笠刑事は歯軋りを立てながら柵を叩くと、そのまま振り返り竜を睨んだ。
「おい、言え!アイツはお前に何を言ったんだ!」
日笠刑事は竜の胸ぐらをつかんだ。「日笠さん!」と周りの警官が動揺する中、竜は日笠刑事を睨み返して、事実を告げた。
「犯人は僕じゃない……そう言っていた」
「嘘をつけ!どうせお前ら異世界人共が結託して何かを企んでいるんだろう!今度は一体どんな魔法を使ったんだ!ええ?答えろ!」
日笠刑事は歯軋りを立てながら竜に詰め寄った。溢れんばかりの妄執に竜は思わずため息をついた。
「何がおかしい!この野蛮人!」
それは一瞬の出来事だった。
日笠刑事の拳が竜の頬を捉えた。突然殴られた竜はその場に尻もちをついた。
その場に居合わせた警官達も唖然として止めに入ることはなかった。
思わず顔を上げた視線の先には鼻息を荒くして仁王立ちする日笠刑事の姿があった。拳をわなわなと震わせながら、日笠刑事は竜に怒声を浴びせた
「お前ら、異世界人に……よそ者の言葉に価値があると思うな!」
「これは正当防衛だよな……」
竜の呟きが警官たちのどよめきにかき消された。
次の瞬間、竜は日笠刑事に飛びかかっていた。
「日笠さん!」
警官のどよめきが一層大きくなる。
水平に飛んで行った日笠刑事の姿を拳を握りしめながら竜は睨みつけていた。日笠刑事は身体を起こして、唇から滴る血を乱暴に拭った。
日笠刑事が口を開く前に警官が一斉に竜に飛びかかっていた。
いかに怪力と言えど、数の暴力には勝てず竜はあっという間に床に組み伏せられた。
「公務執行妨害で逮捕だ!」
「先に殴ったのはそっちだろうが!」
ざわめく警官たちに抗議の声を上げる竜を日笠刑事は息を荒くして睨み返していた。