第七話 異世界人の叫び
「先日、三橋銀行六本木支店にて、同店に勤務するシステムエンジニア、絹塚糀谷さんが飛び降りで亡くなった事件でSNS上ではある動画が話題になっています」
若いアナウンサーが背後のモニターに視線を送ると、すでに鳴りを潜めたバズ動画が流れた。その動画にアナウンサーがワイプ画面から解説を付け加えた。
「こちらの影が飛び降りた絹塚糀谷さんの物と思われます。そして、画面中央部にですね……事件現場となったビルの反対側に飛び去る影が映っているのが分かりますでしょうか?この映像について、異世界専門家の好喰宇和佐先生、いかがでしょうか?」
「いやぁ~、異世界人の仕業ですよ!間違いないです!五年前に起きたあの凄惨な事件の再来―――」
突然、テレビの画面が真っ黒になった。
リモコンを投げ捨て、竜はソファーに大の字にもたれかかった。
「折角、良いところだったのに」
テレビを消されて残念そうにする桐沢はコーヒーをすすると、ドーナツを頬張った。中から溢れるシューを軽く舐めると、頬を緩ませながら竜に声をかけた。
「労基署の稲妻さんからの差し入れのドーナツ、竜は食べないのか?」
「もう食べた」
自動販売機とソファーとテレビが乱雑に置かれただけの休憩室に竜の憂鬱なため息が立ち込めた。
ななみと口論になってから騒ぐセミはすっかり変わっていた。次の手も打てず指を噛む竜に桐沢はドーナツを口にしながら声をかけた。
「どうした?竜。元気がないぞ?それに室長も何か元気がなさそうだし」
ブツブツと桐沢が呟き続ける間、竜はずっと上の空で天井を見上げていた。その様子に桐沢は笑みをこぼすと、竜の真横に腰かけた。
「元気出せよ!竜!」
「鬱陶しいなぁ」と呟き、竜は肩を寄せてくる桐沢を振り解いた。
竜の態度に桐沢は含み笑いを浮かべながら絡み続けた。
「室長の怒りが俺たちに向かってるんだ。室長と仲良くしてくれよ」
「そんなのじゃねぇよ」
「そこを何とか頼むよぉ!このままだと安心して仕事をサボれやしないんだ」
「仕事をサボるとは良い度胸ですね」
鬱陶しく竜に絡む桐沢の耳に冷徹な言葉が飛び込んできた。慌てて休憩室の入り口に目を向けると、仏頂面をした西街が扉から顔を覗かせていた。
「何やら騒がしい声がすると思えば」とぼやいて休憩室に入ると、西街は苦笑いのまま固まった桐沢に突き刺すような視線を向けた。
「そんなに暇なら私の仕事をあげましょうか?」
「冗談じゃないですかぁ……嫌だな、ハハハ……」
苦笑いを浮かべながら、桐沢はゆっくりと竜から離れた。
西街が慌てふためき様にため息をついていると、竜が尋ねてきた。
「今日は何の用だ?」
「用があるのは青島課長です。あなた達に関係はないですが」
西街はしばらく顎をさすって考え込んだ仕草を見せた後、竜に目を配って、伝言を伝えた。
「鬼俵さんに三橋銀行の役員からクレームが入ったそうです。警察と異世界課に捜査を依頼していた仮面人族が銀行関係者を殺してしまいましたからね。未然に防げたのではないかと」
「ケッ」と吐き捨てると、竜は徐に立ち上がり西街を見下ろして、言葉を続けた。
「どれだけ文句を言われても、捜査権限がない俺たちにできることは何もない。それはお前も知っているだろう?」
「僕の仕事は鬼俵さんのクレームをあなたたちに伝えることです。あなた方の事情は知りません」
竜の愚痴を切り捨てると、そのまま背中を向けて休憩室を出て行った。
「パシリをやらされる若者は大変だねぇ……」
ティッシュで手を拭うと、桐沢は立ち尽くす竜に声をかけた。
「警察が本腰を上げて仮面人族を調べているんだ。異世界課に声がかかるまで調査はしばらくお預けだ」
桐沢は竜の肩に手を置くと、「さて、室長に怒られる前に仕事だ、仕事」と肩を回しながら呟くとそのまま休憩室を後にした。一人残された竜はそのぼさぼさに伸びた髪を掻きむしると、休憩室の扉に手をかけた。
休憩室を出て右に折れ、表通りに面した廊下を歩くと、異世界課取締室と書かれたプレートが目に飛び込んでくる。職場から漏れる喧騒に竜は首を傾げながら部屋を覗き込んだ。
「竜、遅いわよ」
ななみと一瞬だけ目が合う。
ななみはすぐさま集まる部下たちに視線を戻し、手に抱えた紙を読み合わせた。「何事だ?」と駆け寄る竜に桐沢が紙一枚を手渡し、竜はそれに目を通し始めた。
「蒲田の上空で転移ゲートが確認されたと気象庁から報せがあったわ」
ななみの言葉に頷き、竜はすぐに紙に目を通した。紙には蒲田の雑居ビルの上空に浮かぶ黒い門―――転移ゲートの写真がそこに掲載されていた。
異世界から異世界人が転移される時、その上空に転移ゲートが現れる。
異世界人の聞き取りから得た情報はこれだけだ。
異世界人の話によると、転移ゲートは異世界にある大国の研究所で管理されており、その職員ですら全貌を把握していないらしい。
「夕方には警視庁保安課との合同巡回が行われるわ。現場パトロールは竜と下岩君と桐沢君にお願いします。今の内に仮眠を取っておいて」
「うっす!」
「またかよ……!」
張り切る同期の横で桐沢は大袈裟に顔を手で押さえて空を仰いだ。露骨に嫌がってみたが、無情にも「解散!仕事に戻って!」と檄を飛ばすななみを見て、桐沢は肩を落として仮眠室へ向かった。
室長の鶴の一声で各々がぞろぞろと自分の席につき、パソコンの冷却ファンが回る音だけが静かに響く職場にレトロな着信音が鳴り響いた。
竜は自分の胸ポケットをまさぐり、スマフォを取り出して「もしもし」と電話に出た。
「竜さん!助けて!」
「どうした!何があった?」
切羽詰まった竜の声を聞いてななみが駆け寄った。一言二言短めの返事を繰り返す竜は「今すぐ向かうから待っていろ!」と声をかけて電話を切り、ななみの方を向いた。
「兎人族のスーラからだ。ちょっと行ってくる!」
「竜!待ちなさい!」
部屋を飛び出した竜の後をななみが追いかけた。早足で追いついたななみは竜に並走すると、財布から車のカギを取り出した。
「今から異界荘に行くんでしょ?私が送るからあなたは車で仮眠してて」
「助かる、ななみ」
竜がポツリと呟いた後、エレベーターの到着を待つ二人の間に静寂が訪れた。やがてエレベーターの扉が開き、中へ入って行く二人の背中を覗いていた桐沢は安堵のため息をついて仮眠室へ向かった。
東京郊外にある団地―――丘の上に立つその建屋を人は『異界荘』と呼ぶ。
かつての高度経済成長期、地方から出てきた若者たち向けに都が建設した公営団地も、若者の減少と不景気に伴い一度は完全に取り壊された。かつては賑わっていた商店街もすっかりシャッター街に変わり果て、跡地の活用方法を都議会で議論していた頃、新たな労働力がやって来た。それを機に急ピッチで建設が進み、かつての公営団地だけが蘇った。
その公営団地に向かって寂れたシャッター街を一台の車が駆け抜ける。その外車を軒下で暑さをしのいでいた老夫婦が物珍しげに見送っていた。
「竜、起きなさい」
丘の上に佇む異界荘へ車を飛ばすななみがいびきを立てながら眠る竜に声をかけた。竜が目をこすりながら起き上がると同時に、ななみの車が駐車場に停まった。シートベルトを外した勢いそのままに飛び出ると、竜は公営団地の階段を駆け上がった。
「何だよ……これは!」
桐沢が漏らしていたスーラの部屋、602号室の扉に無数の張り紙が貼られていた。乱雑な字で違約金を払えと誹謗中傷が書かれた張り紙が覗き穴すらも塞いでいた。
竜は力任せに張り紙を剥がすと、「スーラ!いるか?」と扉を激しく叩いた。
「竜さん!」
部屋から飛び出てきたとスーラが竜のみぞおちに飛び込んだ。
強烈な頭突きを喰らった竜は一人腹を押さえてうずくまっていた。
「スーラさん。この張り紙は一体何です?」
後から遅れてやって来たななみの言葉に、スーラは「中に入ってください」と片言な日本語で二人を招き入れた。
公営団地の1DKの小さな部屋だ。新しい世界に心躍らせるスーラにはその狭さは気にならないだろう。
部屋を見渡す竜とななみの前に氷の入った麦茶が置かれる。DVD研修で習った客人のもてなし方を実践するスーラの姿に思わず感心して頷く竜の隣で、ななみが話を切り出した。
「スーラさん、一体何があったのか、初めから教えていただけませんか?」
「実は……ハローワークに初めて行った日の話なんですが……」
スーラは視線を落とし、初めてハローワークを訪れた日の出来事を語り始めた。
「簿記の資格なし……フォークリフトの資格もなし……パソコンの経験もない……」
「だけど、前の世界では料理屋をやってました!いろんなお客さんと接してきましたし、街一番の看板娘と言われたくらいで……」
「ふーん……ああ、そう」
バーコード頭の中年男がボールペンのキャップで頭を掻きながら、スーラの熱弁を聞き流していた。ハローワークの担当者の男の態度にスーラは内心腹を立てつつも顔には決して出さず、自分を売り込んでいた。
「あなたにご紹介できる仕事です。好きな求人があれば面接日を決めますので申してください」
担当の男は背後のプリンターへ手を伸ばして求人票をスーラに手渡すと、スーラは求人に目を通した。一通り見終えたスーラは思わず感想を漏らした。
「工事現場とかが……多いですね」
「嫌ですか?」
「いえ、ただ……」
憐れみの視線を飛ばす担当者に困惑しながら、スーラは自分の体質を伝えた。
「私、生まれながら耳と目が良すぎるので、大きな音とか眩い光にはあまり慣れていないんです……この前も工事現場の側を通ったのですが、その騒音がどうも苦手で」
「では、面接は受けないと言うことでよろしいですか?」
「それは困ります!」
スーラには一時給付金と言う名の借金がある。働かなければ金を返せないし、諦めて借金が帳消しになるわけではない。食い気味に詰め寄るスーラに担当者はおどけて見せた。
「何かおかしいですか?」
やる気のない担当者の態度にスーラは思わず声を荒げた。ベンチに腰かけた求職者から怪訝な視線を向けられたが、スーラの兎耳を見るや否や、その視線は一瞬にして消え失せた。担当者の男は宥めるような声でスーラに尋ねた。
「スーラさん。あなた、どうしてハローワークに求人を探しに来たのですか?」
「それは……異世界課の方たちが……」
「異世界課……なるほど、なるほど。現実をきちんと教わらなかったのですね。仕事とはいえなんとも罪深い方達ですね」
投げやりに頷く担当者の姿にスーラは頬を膨らませて抗議した。その様子を片目を開きながら見ていた担当者は言葉を続けた。
「異世界人向けの求人なら異邦禄に登録してください」
担当者の男は声を落として淡々と告げる。
「ハローワークの求人の給料は異邦禄の求人よりも高いですから。異世界人を雇いたい人は皆、異邦禄を使っていますよ。あそこはどう考えても最低賃金を下回るので、公務員としてあまりお薦めはしませんが、時代の流れには逆らえません……」
ハローワークの担当者は呆然とするスーラに向かって淡々と異世界人の現実を告げた。
「異世界人は何かとトラブルになりやすいのです」
「トラブルですか……?私はまだ何もしていないと思うのですが……」
スーラの純粋な疑問に担当者の男は首を振りながら答えた。
「飲食店やレジ打ち、介護職ではあなた方の獣のような見た目にクレームをつけられる」
思わずスーラは頭から伸びた兎の耳を手で覆い隠した。そこから二人の眼前に漂ってきた毛玉を見つめながら、担当者の男は言葉を続けた。
「クレームはリスクですから、すぐに解雇できる異邦禄の派遣社員が求められています。ですから、ハローワークにあなた方向けの求人はほとんど来ないのです……お役に立てず、すみません……」
担当者の男は最後に謝罪の言葉を口にした。
担当者に気づいたスーラは慌てて顔を横に振り、「気にしないでください!」と励ました。机を挟んだ二人の間に流れる気まずい静寂の中、「そ、そうだ……」とスーラが最初に声を上げた。
「この求人票を一度家に持ち帰っても良いですか?落ち着いて見たいと思いますので……」
「ええ、かまいませんよ」
スーラは慌てながら書類を鞄の中にしまい込むと、そのままぎこちない笑顔を担当者に向けて別れを告げた。ベンチでスマフォをいじる男たちに目をくれることなく早足で通り過ぎ、ハローワークの外へ飛び出した瞬間、スーラは深いため息をついた。
「ねぇーちゃん、良かったらいい仕事、紹介しよか?」
オールバックの髪をした胡散臭そうな風貌の男が声をかけて来た。
さすがの怪しさにスーラは「この後、日本語のレッスンがあるので」とやんわりと断りながら後ずさった。だが、男は「これ、名刺」と言って笑顔を向けながら差し出し、スーラはこれを断れず受け取ってしまった。
「刃渡泰三って言います。僕が経営している異世界人専用の飲み屋で働き手を探してるんやけど、どうかな?」
「飲み屋?いや、でも……」
「ああ、もちろん副業もオッケーやし、なんやったらウチで働きながら仕事を探しても良いよ。そこはウチ、割と緩いから」
男の口から出た飲み屋と言う言葉に一瞬声が明るくなったが、男の顔つきに似合わない温厚な笑みにスーラはたじろいでいた。そんなスーラに男は優し気な声をかけた。
「受けた恩義は返さないけないのと違う?」
改まった男の口調にスーラは思わず顔を上げていた。男は張り付いたような笑みを浮かべたままスーラに説いた。
「君が受け取った一時給付金……それは日本人が命を削って血反吐を吐きながら稼いだ税金や。例え獣でも恩義だけは忘れへん。恩義を仇で返すようなことをしたら人間、いや、獣以下やで?」
「恩義……獣以下……」
「そう。獣以下になったらいかん」
ゆっくりと頷く男の言葉に、気づけばスーラは頷き返していた。
その後、男の事務所に向かったスーラはそこで契約書を交わし、男の言う飲み屋で働くこととなった。
「スーラちゃん。初めてにしては中々うまいね」
「前の世界で料理屋の接客をしていたので……」
刃渡から接客の腕を褒められた。
刃渡の言っていた店はいわゆる夜の店だった。異世界人の娘を売りにしているらしく、同郷の者も何人かそこで働いていた。
異世界にも娼婦館の一つや二つはある。スーラも、そこにも働く異世界人にとっても夜の店が特段珍しいことではなかった。
「金を稼ぐにはやりたくない仕事でもやらなければならない時があるのよ」
姉御と親しまれていた蛇人族の女に励まされ、スーラもそこで精力的に働いていた。
だが、それも一週間しか持たなかった。
それは男の店で働き始めて初めての金曜日のことだ。
いつもより大勢の男で薄暗い店内は埋まり、スーラもすっかり慣れた手つきでシャンパンを注いでいた。スーラの身体を邪な目で見つめる客と談笑していると、「スーラちゃん」と刃渡に呼び止められた。
スーラは「ごめんなさい」と客に声をかけ、その場を中座した。
すっかり不貞腐れた客の前に現れた艶美な風情の猫人族の女が酌すると、その客は顔を真っ赤にして頬を緩ませた。その様子を見届けたスーラは、男に店のカウンターへと連れて行かれた。
男はスーラのうなじから肩にかけて手を回すと、にやりと笑って盛り上がる宴席を指さした。
「次、あれやってみない?」
男の言葉と共にショーが始まった。
激しく明滅するライトと鳴り響く爆音にスーラは思わず目と耳をふさいだ。
うっすらと目を開けた先にはカーテンの奥から出てくる扇動的な衣装を身にまとった女たちの姿が揺らめいていた。盛り上がる観客の声に迎えられるように女たちは艶やかな素振りで観客に近寄り、その肢体を客に密着させる。
やがて、スーラの視界がぐわんぐわんと歪み始めた―――
「兎人族は普通の人間よりはるかに耳が敏感だ。それに加えて、お前は視力が優れるスキルを持っている。店内の激しい光と音に耐えられなかったんだな?」
「はい……」とスーラは小さく頷いた。
彼女は生まれながらの体質で音や光に人一倍敏感だった。
あの日―――激しい音と光が彼女の耳と目を刺激し、強烈な吐き気と眩暈を引き起こした。
深夜の洗面台に浮かぶ吐瀉物を見て、彼女は仕事を辞めようと決意した。
「仕事は断るんだな?」
「契約不履行だと……」
竜の確認の言葉にスーラは俯き、ポツリと呟いた。
「違約金の百万を払えと言われました」
スーラは俯いたままその小さな肩を震わせていた。
「スーラさん。仕事を辞めるのに違約金を払う必要はないのよ」
ななみの言葉にスーラはかすかに頷いた。
俯いたスーラの顔から丸い涙がぽたぽたと垂れていた。
「玄関の張り紙はそいつの仕業だな?」
震えるスーラの肩に竜がそっと大きな手を乗せた。
「だが!俺たちが来たからもう大丈夫だ」
竜の声にスーラが顔を上げる。赤く腫れた目でじっと竜を見つめていた。
それを横目で見ていたななみは軽く咳をつくと、話を切り出した。
「スーラさん。まず、刃渡という男の名刺とその外見を教えてくれますか?」
「えっと……」と立ち上がったスーラは引き出しを開けてななみに名刺を手渡すと、刃渡の特徴をポツポツと語り始めた。
「背はななみさんと同じくらいで、オールバックの髪型に銀縁眼鏡に縞の入ったスーツを着ていました。後、右目の下に小さなほくろがあって……」
たどたどしく語られた男の人相をスマフォで打ち込み、名刺の写真を撮り終えたななみはスーラに告げた。
「今、異世界課の生活室の小堀と言う職員から依頼して、警察に似顔絵を作ってもらいます。後は、男とのやり取りを録音した音声データはありますか?」
「録音……いえ」
首を横に振るスーラにななみはこめかみを押さえながら目を伏せた。隣に座る竜が「どうした?」と尋ねると、ななみは「よく聞いてくださいね」とスーラに忠告をした。
「警察から刃渡という男にあなたに近づかないよう警告することができます。そのためには、あなたが刃渡から脅された、あるいは、被害を受けた証拠が必要になります」
「証拠ならこの張り紙じゃダメなのか?」
ポケットの中から丸まった嫌がらせの張り紙を引き延ばした竜にななみは首を横に振った。
「張り紙を張ったのが刃渡という男であることを証明できないわ。この異界荘には防犯カメラもないし、インターホンも簡易的なものだから録画機能もないし……」
「それなら、隣の部屋の住人とかに聞き込みに行こうぜ。目撃者がいるかもしれない」
「竜、今は平日の昼間よ。部屋には誰もいないわよ」
「そうか……」と竜は頭を掻きながら、玄関の木の扉をじっと睨みつけた。
「あの……私はこの後どうなるのでしょうか?」
二人の会話をじっと聞いていたスーラが思わず不安の一言を漏らした。竜とななみは一瞬だけ目を合わせると、竜がスーラに声をかけた。
「なぁ、スーラ。俺が言ったことを覚えているか?」
竜は緑茶を一息に飲み干すと、スーラを睨みつけた。身体をこわばらせるスーラを見て、ななみが嗜めるように竜の横腹を肘で小突いた。
「その刃渡と言う男に、携帯番号を教えていないだろうな?」
スーラは首を何度も横に振った。
「とりあえず最悪の事態は免れたか……」と一人呟いた竜はななみの方を見て、「どうする?ななみ」と声をかけた。
「無断で張り紙を貼ることは軽犯罪法違反に当たります」
ななみの力強い言葉にスーラが顔を上げる。
「張り紙をしている瞬間を押さえさえすれば良いんです。証拠があれば、警察が介入できます」
「俺たちが全て剥がしたから、もう一度貼り直しに来るかもしれないな」
ななみの言葉に竜が会得したかのように頷くと、両手を強く叩いた。
「よし!そうとなれば今晩張り込もう!スーラ、良い隠れ場所を教えてくれ!」
「竜、ちょっと待って」
息巻く竜を制するななみに「何だよ?」と竜は怪訝そうな声を上げた。
「竜は蒲田に行ってちょうだい。ここは私が見張っているから」
「おい、ななみ……」
「転移してきたばかりの異世界人と話せるのはあなたしかいないのよ?」
ななみは竜の顔に指を突きつけた。
思わず面食らう竜が何かを訴えようとする前にななみは言葉を続けた。
「今から私の車で一緒に蒲田まで向かって、異世界課のメンバーを一人増援として連れて戻ります。下岩君がいいかしら?彼、大学時代はアメフト部だったらしいし」
「まぁ、そうするしかないか」とななみの提案を渋々と受け入れると、竜はスーラの方に向き直った。
「しばらくしたらまた戻るから、それまで一歩も部屋から出るんじゃないぞ」
「ありがとうございます……!」
スーラは涙をぽろぽろとこぼしながら、何度も何度も頷いていた。