第四話 面談前の打ち合わせ
「あなたにこの仕事は向いていないわ」
「もう決まったことだ。諦めろ」
ななみのしつこい愚痴に竜は思わず目を細めると、アイスコーヒーを手に取った。昼下がりの六本木のオフィス街にある小さなカフェにコーヒーをすする音が鳴り響いた。
不快感を訴える視線がななみと竜が座るテーブルに一斉に向けられる。ななみの頬が仄かに赤くなるが、向かい側に座る竜はどこ吹く風と言った様子で窓の向こうに映るビルを眺めていた。
「あそこに見えるのが異邦禄の本社ビルだな」
竜が見つめる視線の先―――揺れる陽炎の中に一際目立つオフィスビルがそびえ立つ。異邦禄と書かれた大きな看板を掲げたビルこそが二人の訪問先だ。
「竜。あなたの今日の仕事はあくまで通訳よ」
野心に燃える竜の瞳に気づき、ななみが警告する。
「分かったよ」
「本当に分かってるの?」
ななみからの再三に渡る忠告に竜はうんざりした様子でぼやき返し、盛大な音を立ててコーヒーをすすり始めた。
「ななみさんに、竜さんですか?」
不意に声をかけられる。
二人が思わず顔を上げた先には黒のハンチング帽を被った細身の男が温和な笑みを浮かべて会釈していた。ソファーの奥に移動するななみを見て男はハンチング帽を脱いでななみの隣に腰かけた。細身の男はななみと竜の姿をあらかた見渡すと、竜に握手の手を差し伸べた。
「初めまして。東京労働基準監督署の稲妻と申します。今日はよろしくお願いいたします」
「ああ、よろしく頼む」
差し伸べた手を竜が握り返すと、稲妻は感嘆の声を上げた。思わず首を傾げた竜だったが、稲妻の視線を辿って行くと、そこには自分の袖から竜の鱗が飛び出していた。
「異世界人は初めてか?」
竜の顔は人間のそれと変わりないが、服の下には竜の鱗がタイルの様に敷き詰められている。初対面の人間と握手する時に袖から飛び出す鱗を見て気味悪がられるリアクションを何度も目にしてきた。
皮肉めいた笑みを浮かべる竜に稲妻は苦笑する。
「息子がはまっているオンラインゲームで見たことはあります」
「そうかい」と呟き、二人が握手を終えた頃、ウェイターの女がおしぼりを持って来た。
丸い大きな耳に鼻下から伸びた四本の髭が特異的な鼠人族と呼ばれる異世界人の女がお盆を片手に立っていた。おしぼりの封を破きながら稲妻は「シナモンティー、砂糖を多めで」と注文を告げると、鼠人族の女は律儀に一礼してそのまま厨房へ向かった。
「先日は案内していただきありがとうございます。まさか、偶々声をかけたあなたとこうして仕事ができるとは思いもしませんでしたなぁ」
温厚そうな笑みを浮かべる稲妻にななみは「は、はぁ……」と気の抜けたような返事を返した。「改めまして……」と軽く咳を払うと、稲妻は軽く頭を下げた。
「通訳を請負っていただきありがとうございます」
「上司命令だ……」とぼやいた竜が言葉を続ける。
「しかし、どうして異邦禄の社長がお前と直々に話したいと言ってきたんだ?」
「こら!竜!」
口の悪い竜を嗜めるななみに稲妻はクスクスと笑いながら事情を説明する。
「異邦禄で在留資格がない契約社員が働いている話はご存じですか?」
先日の鳥人族の件を思いだし、即座に頷く二人に稲妻が言葉を続ける。
「本来、それは違法行為です。労基署として違法行為を黙って見過ごすわけにはいきません。私たちはこれまで異邦禄に是正勧告を進めてきましたが、突然、社長自らが直接話をしたいと言う申し出がありました」
「それはどうして?」
ななみの疑問に「分かりません」と首を横に振ると、稲妻は頬に手を当ててゆっくりと話した。
「恐らく勧告を何度も繰り返す私たちを鬱陶しく思っているのではないでしょうか?文書を一々送るコストを考えたら、口頭で伝えて早期決着に持ち込んだ方が早くて安上がりですしね」
稲妻の推測にななみが頷き返した時、注文したシナモンティーを置いて鼠人族のウェイターがその場を立ち去った。シナモンティーにミルクをかけながら稲妻は言葉を続けた。
「ですが、問題は異邦禄の社長は異世界人だと言うことです。私たちの言葉が通じるか定かではない。もし通じない場合、相手が通訳を用意するでしょう。その場合、向こうが用意した通訳の言葉をそのまま鵜吞みにしなくてはいけません」
「それで、俺がその通訳の代わりか?」
竜はカップを置いて、大きく首筋を掻いた。
「俺は異邦禄の社長のことは反吐が出るほど大嫌いだ。中立な通訳を遂行できる自信はない」
中立でないと宣言する竜にななみは頭を抱えたが、稲妻は余裕に満ちた笑みを浮かべていた。状況を楽しむかのような稲妻の笑みに竜は思わず目を細めた。
「中立になるよう努めてください。できる限りで結構です。相手は労働市場の女帝と呼ばれる曲者です。本音を引き出すにはあなたくらいの多少の粗さが必要になるでしょうしね」
「随分と楽しそうじゃないか?」
シナモンティーの風味を堪能するほどの余裕を見せる稲妻に竜が尋ねる。一口すすったところで稲妻は一息吐くと、竜の方を見つめ直した。
「異邦禄の社長が持つスキルはご存じでしょう?」
「予知能力……だろ?青島から聞いたことがある」
竜の歯切れの悪い言葉に稲妻は首をかしげた。「青島から聞いた?」とブツブツ呟くと、ハッとした顔を浮かべて竜に尋ねた。
「竜さんは異世界から来られたのですよね?私よりよほど彼女のことに詳しいかと思いましたが?」
竜はうんざりと言った様子で首を横に振りながら答えた。
「予知能力なんてスキル、俺は向こうで聞いたことがない」
「大国が国賓として丁重に扱う程のスキルが向こうの世界では無名だったのですか……異世界とは気に恐ろしい所ですなぁ」
何度も頷く稲妻に隣に座っていたななみも「私も初めて聞いた時は驚きました」と共感の意を示すと、推測を付け加えた。
「異世界にも中世程度の文明の国家はあると聞きます。予知能力はほんの一握りの貴族や王族しか知り得なかったのではないでしょうか?」
「そういうことだ。悪いが、俺は険しい山岳地帯の谷間の集落で生まれた田舎者でね。ほんの一握りには該当しないただの貧乏人だ」
竜は皮肉を吐きながら、コーヒーを一気に呷るとソーサーの上に叩きつけるようにカップを置いた。カチャンと鋭い音に周囲から糾弾の視線が向けられるが、男二人は意に介さず話を進める。
「一か月先の個人の未来を見ることができる。あくまで視覚情報だけだそうですが、世界の情勢を狂わせるほどの力です。先日もアメリカの国防省のお偉いさんと直接対談したとか……」
鼻息を荒げ稲妻は言葉を畳みかける。
「それほどの人物がなぜ派遣業の社長に身を置いているのか、地球に何をしに来たのか……お話を聞けるかもしれない絶好の機会です!労基署に勤めて世界を揺るがす有名人と直接話をできるなんて夢にも思っていませんでした!」
「良かったな。あいつが違法労働を推進してくれたおかげだ」
竜の皮肉に稲妻は口をつぐみ、そのまま座り直した。気づかぬうちに立ち上がるほど熱弁を振るっていた自身を誤魔化すように咳を払い、飲みかけのシナモンティーに手を伸ばした。
「おい!そこのネズミ!お前の髭じゃないのか?」
突然、店の奥から聞こえてきた怒声にシナモンティーを取る手が止まった。竜が振り返った視線の先には鼠人族のウェイターに言い寄る金髪の若い男女のカップルの姿があった。周りの白けた視線に気づく様子もなく男は声を荒げて、ウェイターに罵声を浴びせた。
「ほら!この長い毛だよ!」
男がコーヒーソーサーから一本の長い毛を見せつけていた。吊るされた長い毛が夏の日差しに照りつけられ金色に輝いていた。
「毛むくじゃらの獣ごときができるほど接客業は甘くねぇんだよ!なめんなよ!」
「そんなはずは……」と困惑しながら鼠人族のウェイターはその灰色の髭を掻いた。
「ハタネさん!どうされたんですか?」
「店長……」
「おい!アンタが店長か?」
騒ぎを聞いて駆けつけてきた店長は真っ先に鼠人族のウェイターの頭を鷲掴みにすると、「すみませんでした!」と頭を下げさせた。
「竜!」
力強く拳を握り立ち上がった竜の袖をななみは反射的に掴まえていた。
「だけど、あの金色の髪はどう見てもあいつの……」
口を尖らせる竜にななみは首を横に振り、竜の袖を強く引っ張った。
「ああいう手合いは異世界人だろうと地球人だろうと関係ないわよ。店だって悪質クレーマーだってことくらい重々承知よ」
「本当に……そうなんだな?」
「ええ、そうよ!」
語気を強めるななみに竜はムスッとした表情のまま力を抜くと、ななみに引張られるがままにソファーに座り直した。
「いささか血の気が多いようですな」
竜のこめかみに浮かぶ青筋を横目に稲妻はシナモンティーを一気に飲み干しすと、「では、行きましょうか」と領収書を握りしめながら立ち上がった。稲妻の後に続いてハンドバッグを持って立ち上がるななみの姿を見て、竜は渋々と立ち上がった。
竜はちらりと頭を下げ続ける鼠人族の女の方を振り返った。
頭を下げる鼠人族の女と不意に目が合った。救いを求めるかのような悲し気な視線に竜は奥歯を噛み締めながら、竜はカフェを後にした。
扉に取り付けられた鈴の音が店内に虚しく鳴り響いていた。
真夏の太陽が空高く上る頃、オフィス街の中で一際目立つ異邦禄の本社ビルに三人は足を踏み入れた。横一列に並ぶ金属探知ゲートを潜り抜けた先は検問所のような広場になっていた。そこで屈強な警備員による執拗なボディチェックを受けた。
重厚な鉄の扉が開かれる。その先には高級ホテルのような装いのエントランスホールが三人を出迎えた。
「私は受付を済ませてきます」
稲妻はそう言い残して、受付の方へ走り出した。竜は稲妻の背中を見つめて、オフィスビルであることを忘れてしまいそうな豪華絢爛な装いのフロントに愚痴をこぼした。
「どこぞの王様でも住んでいるのかよ?」
竜の愚痴を聞いて、徘徊していた警備員の鋭い眼光が一斉に竜に向けられた。社長へのいかなる暴言も許さない鬼気迫る視線に竜は口を尖らせ、黙り込んだ。
ななみはいい気味と言わんばかりにほくそ笑んだが、次の瞬間にはその端正な顔を歪ませ、そそくさと竜の背中に隠れた。
「おい?ななみ。どうした?」
「良いから!そのままじっとしていて!」
突然隠れ始めたななみに首を傾げる竜だったが、程なくしてその答えを理解した。
「やぁやぁ、ななみちゃんじゃないか!」
エントランスホール中央のエスカレーターから降りてくる男に声をかけられる。剃り込みを入れた七三分けの髪をかき上げながら灰色のチョッキを羽織った男が手を振りながら受付の方へ向かってきた。
「隠れるほど面倒くさい奴か?」
竜の背中でななみはしきりに頷いた。だが、彼女の望みとは裏腹に近づいて来る男に観念したのか、恐る恐るななみは竜の背中から顔を覗かせた。
「お久しぶりです……王鹿議員」
「嫌だなぁ!家族でしょ!昔の呼び方で良いのよ!」
「王鹿さん……」
「お兄ちゃんじゃないのは少し悲しいねぇ……」とため息をつく男に竜が尋ねる。
「あんた、いったい何者だ?」
竜の言葉に「俺?」と首を傾げながら、王鹿は襟を広げると、金色に輝く菊の紋章が入ったバッチを見せびらかした。
「王鹿譲治。民宰党所属の国会議員をしています。ななみ君の叔父の息子……つまり、ななみ君の従兄です」
「何だ、家族じゃないか?」と拍子の抜けた声を上げた竜は思わずななみの方を見つめる。
だが、彼女の顔は変わらず険しいままだ。
警戒心をむき出しにする彼女の姿に首を傾げていると、王鹿が声をかけた。
「君が竜君だね?日本で唯一の異世界出身の公務員………だろう?」
「ああ、そうだ。よく知っているな」
竜が握手をしようと手を伸ばす。
袖の下から伸びる鱗をじっと睨むと、王鹿は胸元からスプレーを取り出した。スプレーの中に入っている液体を自分の手に練り込むように吹きかける。ツンと漂うアルコール臭を気に留める様子もなく、王鹿は手袋を二重にはめると、ようやく竜と握手を交わした。
「何だ?そんなに俺と握手するのが嫌か?」
「嫌ですとも。むしろ、社会人としての最低限のマナーとして握手しているだけでも感謝していただきたい」
言い切る前に手を放し、再びアルコール消毒をする王鹿を竜は静かに睨みつける。だが、王鹿は竜に淡々と説明をする。
「俺は日本人の生活を滅茶苦茶にした異世界人とやらが大嫌いなだけだから」
ぶっきらぼうに暴言を吐くと、王鹿は軽く手を上げてその場を去った。
「ななみ、あいつは一体何なんだ?」
嵐のように立ち去った王鹿の背中を睨みながら、竜はななみに愚痴をこぼした。隣に佇むななみは依然険しい表情を浮かべたまま言葉を口にした。
「民宰党の中でも異世界人排斥を唱える派閥のリーダー格で………私のいとこ」
「なるほど、俺たちが取りつく島もない奴だってことだな」
二人は異邦禄の扉を潜り抜ける王鹿の背中を黙って見つめていた。王鹿の姿が見えなくなった時、ななみはポツリと呟いた。
「ごめんなさい」
「どうして謝る?」
竜がななみの横顔を見つめる。ななみは乾いたため息をつくと、竜の視線から顔をそらした。竜は陰りを落とすななみの横顔に語りかけた。
「お前はお前だ」
ななみは顔をそらしたまま竜の言葉を聞いていた。
「家族に異世界人嫌いがいたとしても、俺に日本での生き方を教えてくれたのは他ならぬお前だ。あー……だから、その………」
竜はそのボサボサ頭をかきむしった。
「感謝することも吝かじゃない」
竜の言葉にななみが振り返った。向けられたななみの呆れ顔に竜は小さく鼻を鳴らして腕組みした。
「どうしてそこで素直に感謝してると言えないのかしら?」
「ふん………日頃から口うるさいからな。これくらいの感謝で充分だ」
「私より年上なのが信じられないわね」
「おい、それはどういう意味だ?」
痴話喧嘩が始めかける二人に不意に声がかけられる。今度は誰だと二人は思わず身構えたが、受付から戻ってくる稲妻の姿に二人揃って胸を撫で下ろした。稲妻の隣にはアゲハ蝶の翼を生やした複眼の女性が佇んでいた。
「キタテと申します。社長の所へご案内いたします」
虫人族の女が深くお辞儀をすると、「私の後に付いてきてください」とだけ言い残しエスカレーターに向かって歩き出した。三人はキタテの背中を追いかけた。