第三話 異世界人の入国
「おぉ、ここにいたか!」
吹き抜けになったホールに竜の野太い声が響く。
エントランスロビーの中央で男と話し込んでいた少女の兎の耳が真直ぐに伸びると、少女は辺り一面を見渡した。竜の姿がいないことに気づいたスーラはふと顔を上げた。
「竜さん!」
片言な日本語がホールに響いた。
スーラは階段をかけ降りる竜の元へ駆け出した。その背中を桐沢が穏やかな笑みを浮かべて付いて行く。
「ありがとうございました!」と興奮気味に話すスーラの頭をなでると、竜はにやりと笑って問いかけた。
「ちゃんとDVD研修を受けたか?」
「うぅ……受けましたよぉ……」
竜の質問にスーラは目を泳がせながら答えていた。その様子を背後で見ていた桐沢がスーラに諭すように声をかけた。
「日本で住むための最低限のルールを詰め込んだ内容だから、しっかり覚えておいてほしいな」
異世界人は日本のことはおろか、地球のことを何一つ分かっていない。郷に入りては郷に従えとはよく言われるが、異文化をすんなり覚えられたら誰も苦労しない。
「つまらないだろ」
転移したばかりの異世界人向けに制作した日本の慣習をまとめた映像を竜はこき下ろした。
「主演男優の君がそんなことを言うんじゃないよ」
ほくそ笑み合う二人の異世界人を見て、桐沢が頬を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「だけど、酒を注ぐ向きがあるとか引っ越し祝いに蕎麦を持っていくとか本当にやってるのか?俺は見たことないぞ」
日本の慣習に苦言を呈する竜を苦笑いでやり過ごし、「そ……そうだ!」と露骨に話題を変えて桐沢は茶封筒をスーラに手渡した。
「スーラさん。ここに君のビザと在留カードが入っている。後は日本語レッスンの案内も入ってる。中身を確認してくれないかな?」
「ビザ?在留……カード?」
「そうだね……いわゆる日本にいても良いと言う許可証のことだよ」
桐沢の説明にスーラは首を傾げると、茶封筒の中に入っているカードにまじまじと目を通し始めた。スーラが夢中になっている隙に竜は桐沢の側に近づくと、その腹を軽く小突いた。
「おい!お前のせいで朝からひどい目にあったぞ!」
「事実を書いただけだよ?文句があるなら、最後まで報告書を読まなかった室長に言ってくれよ」
嬉々として含み笑いを浮かべてからかう桐沢に竜は小さく舌打ちをする。
「室長の怒りを一身に浴びてくれるおかげで僕たちが助かっているんだよ。本当に君には感謝してるよ」
「その無性に腹立つ笑顔で言われてもな」
竜が鼻息を鳴らしたと同時に、スーラから「確認しました!」と返答があった。目を輝かせながらビルの入り口の方を見つめるスーラに竜が声をかけた。
「ところで、住む所は決まったのか?」
「えっと……桐沢さんから鍵を貰ったけど」
スーラはポケットから小さなカギを取り出した。カギに取り付けられたリングに「602」と数字が書かれた札が括りつけられていた。
「それは国営団地『異界荘』の部屋の鍵だよ。ここから電車を乗り継いで二十分ほどかかるけど、都内の喧騒を忘れられるのどかな場所さ」
「あの……電車って蒸気機関車みたいなものですよね?お金が要るんですか?その……私、お金になるものを持っていなくて……」
異世界人は地球の貨幣を何一つ持ち合わせていない。当然のことを訴えるスーラに桐沢は首を横に振って答えた。
「転移してから三か月以内に申請すれば、一時金と一か月のJR線無料パスを受け取れるんだ。君は転移してから二日目だから、その封筒にちゃんとお金が入っているはずだよ」
桐沢の指摘にスーラは慌てて茶封筒を覗き込んだ。茶封筒の底から十枚の紙幣を手に取ると、そこに印刷された男の姿をまじまじと見つめた。
「この人がこの国の偉い人ですか?」
「ははっ……昔の偉い人に違いないけど、政治家ではないよ」
肖像画の人物の正体に疑問を抱くスーラと談笑する桐沢の姿に竜は大きく咳をつくと、スーラの手に無防備に握られた紙幣を力強く指さした。
「お前の生活費だ。誰にも盗られないように閉まっておけよ」
竜の助言にスーラは我に返って、茶封筒の中にしまい込んだ。そこに桐沢が忠告を付け足した。
「一時金は返済する義務があるから、早く仕事を探して収入を得てね」
「あ……ありがとうございます」
二人のアドバイスに感極まった声でスーラは礼を述べると、そのまま朝日に眩く照らされた玄関へと一歩踏み出した。
突然、彼女の腕を竜が掴んだ。
スーラの身体が跳ねる。
「何ですか?」
恐る恐る尋ねるスーラに、竜は険しい表情のまま玄関の方を指さした。
「異世界人受け入れ、反対!」
「異世界人の受け入れは憲法違反!」
スーラの目に真っ赤な横断幕の文字が映った。
玄関を出た先の広場にはメガフォンをもって抗議の声を上げる集団の姿があった。通勤中の人が行き交う朝のオフィス街で、通行人に不審な目を向けられても尚、抗議の声を上げ続ける集団の姿に竜は渋い顔を浮かべ嘆いた。
「異世界人反対を訴えるデモ活動の集団だ」
竜の言葉にスーラが振り返った。竜は声を抑えて、スーラに警告する。
「あいつらがいなくなるまでここに留まった方が良い」
「私たち……受け入れてもらえないの?」
スーラは悲しげな表情を浮かべた。彼女の視線に竜は顔を伏せ、人知れず奥歯を噛みしめた。黙り込む竜に代わって答えたのは桐沢だった。
「人間には変化を受け入れるのに時間が必要なんだ。実際、今の法案が可決された時は国会で乱闘騒ぎもあったんだよ。法律が一か月で決まるのは早すぎるよね」
当時の混乱を思い出した桐沢は重苦しいため息を吐いた。
当時の日本政府は焦っていた。先進国が異世界人の受け入れ政策を進める中、日本だけが遅れていた。世界各国の団体から日本だけが名指しで批判される日々が続いていた。
専門家や野党と深い議論もされず、国民への情報発信もまともにされないまま決定した異世界人の受け入れに関する法律は与党によるゴリ押し採決だと世論から批判の声を浴びる結果となった。
「一番の問題は……それなんだ……」
「えっ……」
強ばった表情のまま、スーラは桐沢が指さす先を見つめた。
それは十枚の紙幣だった。
異世界人は地球で使える金を持ち合わせていない。
異世界でしか使えない通貨に地球での価値は全くないし、鋳造技術が地球より劣る異世界の銅貨には不純物が多く、銅としての価値すらない。
まともな金品を持たずに転移してきた異世界人たちは仕事を探すために電車やバスに乗ることすらままならない。職に就けない彼らが浮浪者となり、治安が悪化するのを危惧した政府は、異世界人に一時金を貸し与えることを決めた。
お金が貰えるという構図―――それが世論の反感を買った。
「一時金はあくまで貸付金で、いつかは返済しなくてはいけないんだけどね……それでも納得しない人はいるよね」
桐沢はため息をつき、玄関前の広場でメガフォンを片手に声を荒げる男の姿をちらりと見つめた。その男の声に続いて外国人と思しき人たちが揃って反対の声を上げていた。
「異世界人の居場所はない」
あたかもそう叫ぶ姿を眺めていたスーラは息を荒くして、胸を抑えた。
「お前が気にすることじゃない」
竜はスーラの肩を力強く叩いた。
見上げるスーラの自信を無くしたような瞳に竜は首を振って答えた。
「全員が納得できる完璧な決まり事なんかありはしない。時間をかけて良くしていくものだし、それにはどうしても時間がかかる」
だから―――お前が気にすることじゃない
竜は何度もその言葉を力強く繰り返した。
法律を作る力もない異世界人にできることは明日がより良い世界になることを祈ることだけだ。
竜はスーラにそう言い聞かせると、懐から携帯電話を取り出した。
「これは俺からの餞別だ。困ったことがあったらそれで俺を呼べ」
折り畳み式の型落ちした携帯電話を竜はスーラに手渡した。見たこともない白く小さな箱のような機械をスーラは舐め回すように見つめた。
「ただし、信頼できる仲間が見つかるまでは携帯電話のことは誰にも教えるなよ」
竜の声にスーラの肩がかすかに震えた。
困惑と恐怖に彩られたスーラの赤い瞳をじっと見つめながら竜は警告を続けた。
「確かに俺たちにとって生きにくい世の中だ。だが、諦めるな。友を探せ。仲間を募れ。あらゆるものを利用しろ。生き伸びることだけを第一に考えろ。良いな?」
竜の気迫に圧されたのか、スーラは口を開けたまま黙って首を縦に振った。彼女の様子に安堵した竜はスーラに穏やかな笑みを向けて深く頷いた。
次の瞬間、「あっ!」と思い出したかのように声を上げるた竜は桐沢を呼び止めた。
「ところで、昨日保護した鳥人族の方はどうした?姿が見えないが?」
「あー……」
竜の問いに桐沢が頬を掻きながら言葉を濁した。
明らかな動揺を見せる桐沢に「何があった?」とドスの効いた声で問い詰めると、桐沢はため息をついて白状した。
「不法滞在だよ」
「何だと?」
竜の太い眉がピクリと上がる。
桐沢は竜の鬼気迫る顔を見上げながら言葉を続けた。
「在留資格が切れてから二年経っているらしい」
「働いていると聞いたぞ。雇い主から何も言われていないのか?」
「何も言われていないみたいですわ、竜の旦那」
エレベーターの発着音と共に現れたふくよかな体格の角刈りの男が竜たちの元へ駆け寄った。突然の登場に戸惑うスーラの横で竜が「小堀……」と呟いた。男は戸惑いを見せるスーラの姿に気づくと、姿勢を落として流暢なギリシャ語で話しかけた。
「兎人族のスーラさん……やね?異世界課生活室の小堀って言います」
そう言って小堀はずんぐりとした左手をスーラの前に差し出した。だが、その巨躯と得体の知れない恵比須顔を目の前にしてスーラは手を握り返そうとはしなかった。
「驚かせたかな?」
「い……いえ、そんなことはないです!」
申し訳なさそうに尋ねる小堀にスーラは首を振って、言葉を続けた。
「私たち兎人族は生まれつき小柄なので大きい人には慣れていないんです。ごめんなさい」
「えっ!奇遇やなぁ!僕も小学生まではチビって馬鹿にされたけど、柔道やってたらこんなに大きくなってしまったんですわ」
「柔道……?」
「そっか!アルマには柔道はないんやったね!これは失礼、失礼!」
おおらかに笑う小堀を見て、スーラの肩くなった表情が自然と緩んでいた。口元を手で押さえてクスクスと微笑むとスーラは小堀に右手を伸ばした。小堀はその小さな手を包み込むように握り返した。
桐沢が頭を掻きながら微笑み合う二人の間に割って入った。
「小堀さん。さっき雇い主から何も言われていないと聞きましたけどどういうことですか?」
桐沢の言葉に小堀はスーラから手を放し、徐に立ち上がると首を横に振って答えた。
「異邦禄です」
その場にいた三人が思い思いにため息をつく。
「異邦禄って?」と突然失意の底に陥った三人にスーラは慌てふためきながら声をかけた。
先に答えたのは小堀だった。
「異世界人専用の人材派遣会社です」
「人材派遣?」
スーラが向ける好奇心に満ちた視線に小堀は思わず声を詰まらせた。そして、ちらりと視線を送り竜に助けを求めると、異世界の言語に堪能な竜が小堀に代わって答えた。
「必要とされている働き手を他の会社に送り込んで、その働き手に支払う契約料で稼いでいる会社だ。異邦禄はその中でも異世界人を働き手として送り込んでいる」
自分で呟いた異邦禄の言葉に竜は忌々し気に舌打ちして、言葉を続けた。
「俺から言わせれば……黒い噂しかないし、俺たちを人間より安く働かせる嫌な会社だ」
「おいっ!竜!」
暴言を吐く竜を桐沢が慌てて嗜める。
竜は不機嫌な顔をして腕組みをして、桐沢から向けられる批難の視線から顔を反らした。
異邦禄株式会社―――ここ十年で増えた異世界人専用の派遣会社だ。
人間より安い契約料を売りに、業界に価格破壊を起こした。人間の派遣社員はより安い異世界人の派遣社員に居場所を追い出され、従来の派遣会社は経営に苦しみ、関係者は恨み節をこぼしていた。
安値の契約料の裏には何か秘密があるに違いない―――派遣法をまともに順守していないのではないかと世間からは白い目を向けられている。だが、異邦禄は今や労働市場に君臨する上場企業へ成長し、日本になくてはならない企業になっていた。
「あのぉ。お仕事って……その会社からしか受けられないんですか?」
地球での仕事の探し方すら分からないスーラはおずおずと尋ねた。桐沢と小堀は我に返った様子で慌てて首を振った。
「ハローワークと言う仕事を探す場がありますから、そこで探してみてください!」
「ハローワーク……」
二人の声色が上ずっていることに気づくことなく、オウム返しするスーラに竜が尋ねた。
「お前、何かスキルはあるのか?」
竜の言葉にスーラが小さな胸を張って答えた。
「耳と目が良いんだよ!なぜか視力は四メートル先しか見えなくなっちゃったけど、アルマにいた頃はもっと先まで見えてたんだよ!魔物が襲来するのを一早く察知して村の皆に伝えるのがアタシの役割だったんだ!」
誇らしげな彼女を余所に桐沢が竜に耳打ちする。
「彼女のスキルは確認済だ。特に使用制限をかける必要はない」
「ああ、そのようだな」と竜は淡白に返事を返した。
異世界人にはスキルと呼ばれる地球にはない力が備わっている。
その異質な力こそが異世界人が恐れられている所以でもあるが、力の種類によっては世の役に立つこともある。体内に潜む腫瘍を見抜くスキルを持つ異世界人は世界中の医療機関から引っ張りだこだし、岩よりも頑強な肌と言うスキルを持つ異世界人は救助活動や災害の復興支援に勤しんでいる。
スキルは地球の教養を持たない異世界人にとって、死活問題に関わる。
強力なスキルを持つ異世界人に仕事は無限に与えられるが、そうでないものに仕事はない。
竜はそっと目を閉じた。
スーラが得意げに語るスキルが役に立つかどうかは分からない。
ただ、同郷の身として彼女の安寧を祈るしか今の竜にできることはなかった。
そっと目を開いて竜は玄関の方へと視線を送った。玄関前の広場にいたデモ集団はいつの間にか姿を消し、静かなオフィス街が広がっていた。
「どうやらあのデモ集団は立ち去ったらしい」
そう言って竜はスーラの両肩に手を置いた。そして、激励の言葉をかける。
「スーラ!がんばれよ!」
スーラは大きく頷くと、「ありがとうございました!」と三人に頭を下げた。しばらく頭を下げ続けた彼女は徐に姿勢を戻すと、屈託のない笑みを向けて玄関の方へ走り出した。
三人は彼女の小さな背中が見えなくなるまで、見送り続けた。やがて、彼女の姿が見えなくなった頃、竜が小堀の方を向いて呟いた。
「小堀。鳥人族の方は……」
「追徴金を払って在留資格を取得させて終わりになると思います」
「前科一犯だよな?前科持ちの異世界人に次の仕事はあるのか?」
憤る竜の指摘に小堀は思わず顔を反らした。疑問に答えないままの小堀に竜はさらなる不満をぶつけ続けた。
「そもそも、どうして異邦禄には何のお咎めもないんだ!おかしいだろ!」
「それは正しいんだけど……」
詰め寄られた小堀は頭を掻きながら唸り声を上げた。「どうなんだ!」と声を荒げる竜にたじろぎながら二人が互いに顔を見合わせていると、エレベーターの発着音が鳴った。
「何をしているの?」
「ななみ……」
エレベーターの中から現れたななみの姿に桐沢と小堀がその場に固まった。ヒールの音を鳴らしながら歩むななみを竜は不満げに見つめていた。
「あなたの声が上まで響いていたわよ」
「聞いてくれよ!ななみ……」
ななみは詰め寄る竜の前に一枚の紙を突き出した。竜は首を傾げながらその紙を受け取ると、まじまじと眺めた。その背後から桐沢と小堀が顔を覗かせていた。
添削で真っ赤に染まった報告書を片手に竜は頬を引きつらせながらななみの方を見た。
「竜、私たちにその不満をぶつけても仕方がないでしょう?」
ななみは微笑んだ。だが、目は笑っていない。声は怒りに満ちていた。
ななみの機嫌の悪さを察した竜は思わず後退りしていた。
「だけどだなぁ……」
「あなたの机に書類が山積みになっているわよ」
ななみは竜の耳元で囁いた。その呪詛のような響きに竜のぼさぼさな髪が一斉に逆立った。ななみは竜に一睨みすると、呆然と立ちすくむ桐沢と小堀に視線を向けた。そして、ななみは手を叩くと怒鳴り散らした。
「まだ休憩時間じゃないでしょ!三人ともさっさと仕事に戻りなさい!」
ななみの鶴の一声で三人は慌ててエレベーターへ駆け込んだ。エレベーターの扉が閉まり、階数を表示する明かりが動くのをななみはじっと眺めていた。
「あのぉ……すみません」
一階のロビーに一人取り残されたななみに声がかけられる。ななみの背後に立っていた細身の男は目深にかぶった黒のハンチング帽を脱ぎ捨てると、申し訳なさそうな顔をしながら尋ねた。
「異世界課の青島課長はどちらにいらっしゃいますでしょうか?」
「青島ですか?失礼ですが、あなたは?」
「ああ、失礼。私、こういうものです」
「労働基準監督署……?」
受け取った名刺に書かれた肩書きにななみは思わず首を傾げていた。