1(霊応盤のお告げ)
LIQUORS! (pilot)_16±1
指輪をなくしたことに気が付き、アケビは慌てた。
精霊使い、すなわちリカーズとしてはもとより、免許に響く。下手すりゃ免停だってありうる。そうなると、彼女にできることと云えば……まあ、色々ある。と、思う。あるだろう。きっとある。あるに違いない。
落ち着け、あたし。アケビは自らに云い聞かせる。ほら、外は夏の訪れを、青葉が悦びキラキラと、光をはじき、輝いている。
半分残ったペットボトルの緑茶を一気に飲み干す。げふっ。おくびが出た。お腹がたぽたぽになった。でも、大丈夫。あたしなら。
そう。あたしは。でも、妖霊は?
考えただけで胃のあたりが、剣山で刺されたようにキリキリと痛む。
アケビの相棒のジン、コールことコーネリアスは、二本のツノをはやした猿の石像めいた姿を好む。たまにそれにコウモリの翼そしてヘビの尾を足した姿に変化する。これが存外悪趣味で、アケビは叱るが、当のジンは、おちょくっているのである。あいつめ。
それが野放しなのを考えただけで、胃が脱水槽のシーツみたいにギリギリと捩じれる。
いかん。吐き気がしてきた。げぇしても何の解決にならないことは分かっているけど、げぇしたい。代わりに酸っぱいおくびが出た。
女子大生の口が臭いとか、せつねェ。
おい、あの子、口がゲロ臭いぜ。
げー。
ヒトとしてのデリカシーを学ぶ機会を逸したような教授だっている。
おい、君。口がゲロ臭いぜ。
げー。
云う。絶対に云う。制御工学の加藤先生はそう云うタイプだ。
それからマサ叔父さん。つまりアケビの母の弟で、アケビの雇用主である。
この失態の累は、叔父さんにも及ぶんでないか。たしか教本にそんな事例があったような、なかったような。まあ、叔父さんのことはどうでもいい。でも、叔父さんの会社から出るバイト代はどうでも良くない。叔父さんの保釈保証会社が営業停止となれば、アケビの学費と家賃はどうなる。
おい。あたし。口がゲロ臭いぜ。
げー。
指輪ひとつ、されども指輪。紛失がアケビの口内事情を悪化させる。
ああ、どうしよう。
口内炎、できたらどうしよう。
落ち着け、あたし。とにかく、あの性悪な相棒、コールに知られる前に。妖霊に知られる前に。指輪を見つけろ。
アケビは大学の三号館、3201号の講義室に座っている現状から、記憶を順に過去に遡ることにする。今日のお昼の学食、A定食は豚の生姜焼きで美味しかった。違う。いや、美味しかったけれども、違う。バックパックを背負い、講義室に入った。座った。その前にトイレで歯磨きした。歯磨きの前に、荷物を担いで学食を出た。いつも通りのひとりご飯。せつねぇ。違う。横道に逸れすぎだ、アケビ。お母さんにいつも云われてた通りじゃん。だから違うってば。えっと、なんだ。荷物を背負い、食器をトレーに乗せて返却口に置いて、廊下に出て、いつもの道順で三号館へ向かう途中で歯磨きをして……いや、その前だ。お昼の生姜焼き定食……の前、学食へ向かう前に、購買でコピー機を使った。過去レポだ。それを片手にバッグから財布を出し、硬貨を握って、投入して、コピーを取って……そこか!
過去レポートは通称・学部生共有ロッカーから借り出し、コピーの後、戻してある。ロッカーは金属製のありふれた事務ロッカーで、ネズミ色で、つまり指輪が落ちたのなら、カツンとか、カコンとか、音が鳴るはず。それは聞き落し難い。故に、制振性を備えたコピー機周りがアヤシイ。さすがよ、アケビ。自分の推理に自画自賛。
壁の時計に目を遣る。三時限が始まるまで、まだ十分ちょいある。席を立ってバックパックを肩にかけたところで、ポケットに入れた遮断パウチの中のスマホが震えた。うっわ。叔父さんからだ。無視。購買へ、急げ、急げ。
指輪は──予想通りと云えばその通り──見当たらない。床に這いつくばってコピー機の(ほこりっぽい)下をさらってみたのに。
おい、あの子、尻を突き出して小銭を浚ってるぜ。
ワーオ。
くしゃみが出た。ついでに小さなぷうが出た。おっきくなくてよかった、と、自分を慰める。いや、ちっとも慰めにならないのだけれども。ああ、三限、始まっちゃう。
コピー機のそばにしゃがんで、鼻を啜った。やだ、この機械。ほんのり温かくて、すてき。低い待機音も、鼓動みたい。
アケビは逃避しかけた意識を掴んで引き戻した。遮断パウチを取り出し、スマホの短縮からルーシィを呼び出した。
「アケビちゃん?」相手は直ぐに出た。「さっきからボス、おかんむりだよ?」
「知ってる」叔父さん級のリカーズなら、遮断シールドなど意味がない。「何の件でおかんむり?」
「近くに逃亡者がいるって」
「霊応盤のお告げ?」
「そそ。いま裏取り中」軽やかなタイピングとマウスのクリック音。「来た来た」
ルーシィは事務所の情報分析担当で、相棒の妖霊・ラプラスは、ジンの誇りもなく低級魔もどきの姿を好むが、どこから見てもハダカネズミのまさにそれ。彼女のデスクのコンピュータまわりをうろちょろする姿もまさにそれ。ちょっとキモイ。