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裏小道  作者: miya
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五. 鬼熊

※この回には若干の戦闘、及び流血描写が御座います。苦手な方は御注意下さい。





             1



 夕日が沈み鳥も静まり始めるよいの口。黒坊主の策を実行に移すべく昼から忙しく動き回っていた小雪は、ようやく自らの担当作業を終え庭にて一息ついていた。用意した米一升いっしょう分の握り飯は二つの大皿に盛りつけ、その内の半分を屋敷の門の前へ、そしてもう半分は奥へ進んだ庭、今己が立っている場所へと置いた。これで化け熊を誘導するのだ。

 だが米だけでは途中で熊の意識が逸れてしまうかもしれない、そう考えた彼女は台所にある食材という食材をかき集め、香ばしく焼き上げた鮭の切り身に漬け物にするつもりだった大根や人参、そして林檎などの果物を別皿に乗せ握り飯の横に用意していた。……いざ並べると流石の迫力だ。だがこれだけ揃えれば熊もさぞ食事に夢中になることであろう。

 胸を張る小雪の背後で、藤ノ目は手桶に汲んだ水を屋敷の周りにいていた。これも黒坊主から任せられた彼の仕事で、熊が家の中に入ってこられないようにするためのいわゆる「結界」だ。使われている水はただの水ではなく、天華てんげ町の外れにある神社から頂戴してきたもので、清めの効果があるとされている。


「小雪、そろそろ囲い終えるから中に入りなさい」

「はい。……なんだか、緊張してきましたね」

「あはは、どうせなら怖がってほしいよ。……でも、やめるなら今の内だよ」


 緊張、そうこぼす小雪の顔をのぞきこむ。強張ってはいるものの、たしかな笑顔がそこにあった。最早もはや説得など無意味、そう頭では理解しているが念のために問いかけると、案の定、彼女は首を横に振る。「だよね」藤ノ目は困ったように眉を落とし小さく笑むと、不意に感じる夜風の冷たさに身震いし、小雪を屋敷の中へと促した。


「結界はとじたか」

「ああ。そうしたところで不安しかないけどね」

「なに、今夜は冷える。土もそうすぐには乾くまいて、それに……何かあれば屋根の上で見張り番をしている用心棒が伝えに来るだろう」


 屋敷を囲う結界は邪から身を守ってくれるが、結局は水だ。時間が経つにつれ地面に撒いたそれが乾いてしまえば、効果は幾分か弱まってしまうだろう。(くるなら早く来い)藤ノ目の心は不安定極まりなかった。それを見かねた黒坊主はいつもの笑みを浮かべながらさとすように告げるも、主の胸に渦巻く不安が拭われることは無い。

 しかしそれも仕方のない事、小雪と同じようにこの世のものではないものをその目にとらえる事が出来る藤ノ目だが、彼女との大きな違いは、それに「干渉しない」ことだった。その教えを説いたのは、同じように作家であった彼の祖父・成吉せいきちだ。


「……まだ私の祖父が生きていれば、こんな事はやめろ、と言うだろうな」

「先生のおじい様も見えたんですか? あやかしが」


 日頃聞くことのない藤ノ目の身内話に、小雪は興味を示す。


「そうだよ、藤ノ目の家系では"変わり者"と呼ばれていたらしくてね。この屋敷は、そんな祖父が一人で時間を過ごすために建てた隠れ家なんだ」

「ああ、成吉か。確かに奴は変わっておった、何処ぞで知り合った様々な妖怪を招いて日々宴を催し、博打ばくちをして遊んだりしたもんだ」

「へぇ……先生とは大違い」


 さらり、と呟く家政婦に藤ノ目も「私もその話は初耳だ」と呆れたように笑む。何気なく始まった思い出話に先ず、彼が思い出すのは祖父の穏やかな表情と、あたたかな手の感触。


「変わり者、でも私は祖父が大好きだった。彼の綴る物語も……そのほとんどが、妖の恐ろしさを語るものだったけれど、ね」

「くく、奴が丸くなったのは御前が生まれたからだ。源十郎」


 妖怪にまで変人呼ばわりされる祖父だ。黒坊主の記憶にある彼の行動の中にはきっと、若気の至りと言われる無茶なこともあったのだろう。それ故に、一部の妖から恨みを買うこともあったかもしれない。変わり者、厄介者……身内からどんなに言葉で罵られ邪険にされようと構わない。しかし、自分を好いてくれている者がいるとなると、話は別だ。


「遠ざけようとしていたんですね、先生から……妖を」

「きっとね。でも私は結局、祖父と同じ道を進むことを選んでしまった。……今なら、祖父の気持ちが痛い程に分かる気がするよ」


 流れてくる視線に気付き、小雪はゆるりと首を傾げる。


(君をこんなにじゃじゃ馬にしてしまったのは、紛れもない私か……)


 そんな思いを馳せつつ、おもむろに手を伸ばすと彼女の艶々とした指通りの良い髪を撫でる。その傍らで、二人の様子を眺める黒坊主ははて、と首を傾げる。(何処ぞで見たような光景だ)……記憶を辿ればすぐにそれは思い出された、今の彼らはまさに、かつての成吉と源十郎だ。こんなにもぴたり、と重なり合っては黒坊主も懐かしさに心が満たされたのだろう、顔をよけると着物の袖で口元を隠し一層笑みを深める。

 と、その時。和やかな雰囲気を断ち切るかの如く天井がぎしぎしと音を立てる。

 三人が一斉に視線を上げると、その音は右から左へと移動し、やがて庭先の方へと向かっていく。そしてぴたり、音が止んだかと思えばひさしの上から雷蔵が逆さの顔を出す。


「旦那! お嬢! あの匂いがする、きっと奴に違いねぇよ」

「えっ」


(本当に来たんだ……)


 どくん、と小雪の心臓が強く跳ね上がる。


「よし、灯りを消せ、源十郎。……よいか、化け熊が現れたら一切、物音を立ててはならぬぞ」

「ああ、分かった」黒坊主の指示に藤ノ目は立ち上がると屋敷の灯りを消しに一度居間を後にする。

「……小雪も、よいな?」

「は、はい……!」


 声が震えているのが自分でわかった。どんなに正義感があり強気であっても、根は成人を迎えたばかりのか弱い女の子だ。普段ならそんな弱味に漬け込み黒煙の妖がいたずらを仕掛けるところだが、今はその時じゃない。黒坊主は先ほど藤ノ目がしたように小雪の髪をひと撫ですると「ちゃんと隠れておるのだぞ」と柔らかい声色で告げ、その場から身を消した。

 それと同時に、部屋がふっと暗くなる。藤ノ目が灯りを消したのだろう。


(か、隠れなきゃ!)


 はやる気持ちを抑え、ゆっくりと腰を上げるも何処に隠れるべきか、と暗闇に慣れない目で居間の中をうろつく。すると突然、背後から肩を掴まれ、小さな身体がびくり、と跳ねる。そのまま後ろに引かれ勢いのままに振り向くと、暗がりの中に家主の顔が見えた。ほっと息を吐いたのも束の間、驚かすな、と言わんばかりのしかめっ面を浮かべれば、彼は(ごめん)と苦笑いを返し、小雪を連れ奥の台所へと向かう。

 雷蔵の鼻はよく利く。遠くにいる熊がこちらへやってくるのには少しの時間が掛かる事だろう。だがこの緊張感の中に身を潜めていると、小さな音ひとつに過敏になってしまう。どくん、どくん、と鼓膜に響く己の心音ですら、今は不安を煽る材料となっていて、自然と藤ノ目の羽織をぎゅっと強く握ってしまう。


(……小雪、君は二階にいた方がいい)


 極力抑えた声が、小雪を気遣う。だが彼女は強情だった。強く首を振り嫌だ、と行動で示すと(ここにいます)そう、消え入りそうな声で返す。


 ──刹那。遠くの方で、がしゃん、と何かが割れる音がした。


「っ!」


 二人の身体が強張る。「やつ」が来た。




             2




 声を殺し、食器棚の死角から藤ノ目が恐る恐る顔を覗かせると、その視界に庭が映る。小雪が用意した"餌"はまだそのままだ。


「う゛ぅ……」


(? 何か音が……)


 かすかに聞こえた音に、眉を顰める。それは藤ノ目の後ろに身を置く小雪にも聞こえたらしく、羽織を握る手に力が籠る。


「……ら、が、……腹が、減った……」


 今度はしっかりと言葉が聞こえる。

 同時に、ずり、ずり……と引きずるような音が続き目を凝らしていると、庭に用意した握り飯の盛られた皿を大きな影が覆い、次の瞬間、人の手の倍以上はある黒い毛に覆われた「獣」の手が、乱暴に皿をかっさらっていく。


(で、でかい!)


 まだ全体は見えぬものの、手だけであの大きさだ。思わず身を引き、食器棚の陰に隠れると小雪と目が合った。家主の顔を見て動揺したのか、暗闇に浮かぶその顔はいつにも増して白く見える。


(それで……これから、これからどうする?)


 捕獲作戦、一概にそう名付けたがおびき寄せたあとは? 自分の役割は果たしたものの、あの後に黒坊主と雷蔵はしっかりと話し合ったのだろうか。まるで肩に重い石が降ってきたような重圧が藤ノ目を襲う。


(考えろ、考えるんだ……)

(っ先生、あれ……!)


 一度眼鏡を外し、小さく息を吐き出すと、小雪が羽織を強く引き、隻手せきてで庭の方を指差した。すぐさま意識を戻し再び棚から顔を覗かせると、そこには山犬の姿の雷蔵がいた。威嚇するように毛を逆立て、尖った牙を剥き出しにしている、唸り声を上げ見据える先には、あの熊がいるのだろうが、ここからではよく見えない。


(あっ!)


 一瞬の内に、雷蔵が視界から消えた。恐らく化け熊に飛びかかったのだろう、間もなくして「がぅっ!」と短い悲鳴に似た声がその場に響き、思わず小雪は台所から飛び出していく。


「雷蔵!」

「っ小雪、駄目だ!」


 出遅れながらも彼女に続いて居間の方へと走っていく。が、見えなかった庭の全体を視界に捉えたところで、藤ノ目は思わずたじろぐ。ニメートルを優に超える大きな大きな熊が前足をばたばたと揺らしながら暴れていた。よく見ると、熊の肩口には雷蔵がいる、鋭い牙で噛み付いているが、今にも振り落とされてしまいそうだ。

 先に飛び出していった小雪はというと、やはり熊の大きさに圧倒されたのだろう、縁側で立ちすくんでいる。このままあそこにいると熊の餌食えじきだ、藤ノ目は動かない足を必死に前に出し、彼女の元へ急ぐ。


「小雪、危ないから戻りなさい!」

「でもっ! 雷蔵が怪我したら……!」

「彼は用心棒だ、君を守るのが役目なんだぞ。それに、ここで君が出しゃばって熊に見つかってみろ」


 藤ノ目の思い浮かべた地獄絵図が現実になってしまう。それどころか、雷蔵も雷蔵で自分の主が怪我を負ったと知れば、怒りの念が沸き上がりいつも以上に制止が効かなくなるかもしれない。


「雷蔵は強い、大丈夫だ」


 宥めるような言葉に、小雪はぐっと唇を噛む。返す言葉がないのだ。

 それを合図に、藤ノ目は彼女の肩を掴むと、後ずさるように二歩、三歩と畳の上を滑りながら移動する。その間、二人の視線は庭の二匹に集中している。

 上体を揺らす化け熊の動きは、次第に激しさを増していく。だが山犬は、それでも必死に食らいついていた、このまま痛みを与え続ければいつしか相手の体力が無くなっていくだろう。

 逃すわけにはいかない、彼にも、用心棒としての意地があった。

 だがその時。雷蔵の片方の視界がふっと暗くなる。同時に痺れるような痛みが襲い、暗かった視界が赤く染まった。


「っ!」


 居間にいる二人は、化け熊の長い爪が雷蔵の目を引っ掻くのを確かに見た。皮膚へ深く入ったのか、傷痕からは勢いよく鮮血が吹き出し、小雪は息を詰まらせる。(雷蔵が死んじゃう……っ!)そう思うと、居ても立っても居られなかった。再び走り出した小雪は、境界線である縁側から庭へと飛び出す。


(またか!)


 藤ノ目はその背中をすぐさま追おうとするが、背後から流れたきた黒煙に視界を覆われ「うわっ!」と声を上げると共に足を滑らせ、その場に尻餅をつく。


「やれやれ……じゃじゃ馬な娘よ」

「黒坊主! どうして止めるんだよ!」

「これ以上計画が乱れると困る。そこにいろ」


 黒坊主の声がこだまする。


(じっとしていられるか……!)


 早く小雪を連れ戻さねば、そう頭では考えるものの転び方が悪かった。ずきり、と痛む腰に「うぐっ」と情けない声を上げれば、四つん這いの体勢でじりじりと縁側の方へと向かっていく。

 小雪の小さな体は、この暗がりでは分かり辛いのだろう。化け熊の意識は、未だだ懸命にしがみつく雷蔵へ一心に向けられている。だが、負った傷は明らかに深い、視界が悪くなれば動きも鈍くなるもので、後ろ足を滑らせた山犬の体は宙を舞い、どさりと熊の正面へと崩れ落ちる。

 これを好機と見た相手は、前足で山犬の腹を踏みつける。「ぎゃんっ」と甲高い鳴き声がその場に響いた。


「だめっ!」


 その光景を目の当たりにした小雪は、悲鳴にも似た声を上げると共に、足元に転がっていた喰いかけの林檎を拾い上げ、化け熊の方へと投げつける。こつん、熊の眉間に、それは命中した。


「おお、命中だ」


 黒坊主の言葉に、藤ノ目はぎょっと目を見開く。

 化け熊の目が、ぎろりと小雪に向けられた。するとようやく、彼女は自分の身の危険を感じたのだろう、蛇に睨まれた蛙の如くその場に立ちすくむ。

 雷蔵を踏みつけていた重たい足がゆっくりと持ち上がる、……と同時に、咆哮を上げた化け熊は一層鼻息を荒くし、次の瞬間、走り出した。巨体が小雪目掛けて突進してくる。


(もう、駄目だ)


「小雪!」


 今さら逃げることは出来ない。小雪はぐっと目を瞑り、傍から聞こえてくる藤ノ目の声に(ごめんなさい、先生)一言そう呟き落とし、ずしんずしん、と近づいて来る足音に己が命が尽きるのを覚悟した。……が、


(……あれ……?)


 足音がすぐ直前まで迫ったところで、止んだ。

 一体何が起きたというのか、恐る恐る片目を開けてみると、すぐ直前にあの熊はいた。しかし何やら様子がおかしく、先ほど雷蔵を振り払おうとしていたのと同じように、ばたばたと両足を振り回しもがいている。

 目を凝らしてみると、熊の顔周辺を黒いものが漂っている。


(黒坊主さん!)


 思わぬ救世主だった。黒煙の妖は化け熊の視界を覆い、そのまま小雪から遠ざけようとしている。熊は鬱陶しい煙をどうにかして払いたいが、山犬のように傷を負わせることが出来ずに心底もどかしそうだ。

 と、その時、暴れる獣の足元に握り飯を盛っていた皿がある事に、小雪は気付いた。「あっ」と声を上げた時には遅く、熊の足がそこに乗る。つるり、大きく太い足が滑り、熊の身体が大きく傾くと、間もなくしてずしん、と巨体が沈んだ。

 ……動かない。よく見ると、熊の頭の下に大きな岩があった。どうやら気絶しているようだ。


「た、助かった……」


 縁側の藤ノ目は、四つん這いの身体をその場に崩すと深い安堵の息を漏らす。

 小雪も、体から力が抜けるのを感じつつ、覚束無い足取りで傷だらけの用心棒の元へ向かうと、その身に血が付くのもお構いなしに山犬を抱き締めた。


「雷蔵……ごめんね、ごめんね……!」


 もっと早く助けにいけたら、こんな深手を負うこともなかったのに。後悔の涙を流す小雪の腕の中で、雷蔵は意識を取り戻すと、「お嬢……」と主を見上げる。


「飛び出してくるなんて……阿呆、だぜ……」


 力ないものの、いつもの用心棒の姿がそこにあった。




             3




 あれから三十分が経ったが、化け熊はまだ目を覚まさない。

 呼吸をしているのを見ると、死んではいないようだが……顔と同じくらいの大きさの岩に頭をぶつけたのだ、受けた衝撃はさぞ大きかっただろう。

 黒坊主が熊の周りをうろうろと何か探るように観察する中、小雪は雷蔵の手当てをしていた。はじめはあんなにも血が出ていたのに、今はぴたりと止まっている。これも彼が妖であるゆえ、なのだろうか。しかし油断は出来ない、と右目周辺をぐるぐると覆う包帯に小雪の性格が見え、藤ノ目は苦笑を零す。こちらはこちらで先ほど腰に湿布を張ったところだ。


「お嬢、もう大丈夫だって……明日になりゃあ傷もふさがるから」

「そうだとしても、今はまだボロボロなんだから。治らなかったら病院につれてくからね」

「病院? 勘弁してくれよ、かえって気分が悪くなっちまう……」


 薬品の匂いで充満する病院は山犬にとって辛い場所なのだろう、行きたくないと首を振る姿は用心棒どころか幼い子供のようで、小雪はくすりと笑む。するとそこへ、化け熊の観察を終えた黒坊主がやってくる。


「おい、面白いものを見つけたぞ」


 そう告げる彼の顔は、どこか得意げだった。一同は首を捻った後、ゆっくりと視線を下ろす。そこには、肉がなく、握れば折れてしまいそうなほど痩せ細った手足と、ぽっこりと膨らんだ腹をもつ、生れたての赤子ほどの大きさの奇妙な生き物がいた。

 藤ノ目は眼鏡の奥の瞳を細めると、黒坊主に首根っこを掴まれている「それ」をじぃっと見据え「なるほど……」と呟く。


餓鬼がき、か」

「ああ、化け熊のふところに隠れておった。恐らくこいつのせいで奴は暴走していたんだろう」


 餓鬼、飢えと渇きに苦しみ、何を口にしようにも決して満たされぬことがないと言われている存在だ。この餓鬼に憑りつかれたものは、同じような苦しみを味わうとされており、恐らくあの化け熊もこの餓鬼に憑りつかれていたのだろう、と黒坊主は言う。

 捕らえられたそれはというと、話す口を持たないのか一斉に注がれる視線から逃れるように、ぎょろりと顔の半分を占める大きな目をあちらこちらへ泳がせている。


「くく……こやつ、どうする? 源十郎。山犬にでも喰わせるか?」


 その言葉に雷蔵は「冗談じゃねぇ!」としかめっ面をさらす。

 一方で、藤ノ目もどう対処したものかと無意味に髭をなぞり唸り声を上げるばかりだ。


「うーん……。このままにしておけばまた誰かに憑りつくかもしれないし……明日の朝、寺にでも連れていこうか」

「まぁ、それが一番だろうな」


 短い縁だったな、餓鬼を持ち上げにたり、と意地の悪い笑みを向ける黒坊主に飢えの塊は冷や汗を浮かべじたばたと反撃にならない抵抗を始める。

 すると、背後で「う゛ぅ……」と低い声が上がり、気絶していた熊の体がゆっくりと起き上がった。それに気付いた小雪と藤ノ目はぎょっとし、縁側から居間の方へと身を引く。


「んんぅ、此処は……どこだぁ……?」

 

なんとも間抜けな声だった。尻を地面につけたまま、辺りを見渡すその目は暴れていた時とは対照的に重たそうで、動きも鈍い。が、居間の灯りに気付きその中にいる四人と一匹を視界に捉えると、徐々に記憶が戻ってきたのか、びくりと巨体を揺らし、勢いよく立ち上がる。


「おっ、おめさんら!」

「ひっ!」


 小雪が短く悲鳴を上げると同時に、傷だらけの雷蔵が前に出る。


「動くんじゃねぇ! 今度はその喉に噛み付いてやんぞ!」

「ち、違ぇんだ! おいらの話を聞いでぐれねぇか」


 山犬の力の強さは覚えている。熊は再び腰を低くすると、深々と頭を下げ皆に向かって土下座を始めた。これには雷蔵も少し気が緩んだか、意見を求めるべく小雪たちを振り返る。もちろん彼女の答えは「聞いてあげよう」だった。


「今までの事は、全部覚えでるんだ! だけど……おいらの体が、言う事を聞がねで……仕方ねぇ、そんな言葉で済まされる訳がねぇって、わがってるけんど……!」


 必死に言葉を並べるその姿は、嘘をついているようには見えなかった。確かに、今回の騒動は一概に彼が悪いとは言いにくいもので、小雪にいたっては(なんだか、かわいそう……)と、既に情がわいてしまっている。


「お、お願ぇしますだ! おいら、何でもすっから……だがら、こっ……殺さねぇでくんろ!」

「っ! こ、殺すだなんて!」

「そうだよ、私たちは君を殺したりしない」

「ほ、本当だか……?」


 化け熊が顔を上げると、そこは涙と鼻水でひどく濡れていた。汚い、とでも言いたげに顔をしかめる黒坊主と、ぎょっと驚きを隠せない山犬は揃って半歩後ろへ下がる。すると、居間にいた小雪は逆に足を踏み出し化け熊の方へと近づいていく。


「お嬢!」


 すかさず雷蔵が声を上げるが、小雪は振り返らない。

 彼はもう牙は剝かない、確固たる自信が彼女の中にあったのだろう。ゆっくりと手を伸ばすと、熊は怯えた様子で顔を引く。「大丈夫」そう優しく言葉をかけると、涙で濡れた黒い毛を小雪の小さな手がひと撫でする。


「あなたのした事は、確かに許されることじゃありません。町の人も、雷蔵のことも傷付けた」

「も、もちろん分かってますだ……おいらは、悪い熊だぁ。昔っから、山を降りるたんびに、人間がおいらを鬼熊、と呼んで恐れだ。おいらは、元々臆病なんだぁ……! だがら、もう金輪際、人里には近付がねぇって心に決めてだはずなのに……」


 ぐすっ、ぐすっと止めどなく涙を流す熊に、小雪はもちろんのこと、藤ノ目ですら、これ以上彼を咎めることが出来なかった。そうなると、怒りの矛先はそもそもの原因である餓鬼に集中するもので、再び鋭い視線に囲まれたその妖は、危機感を感じざるを得なかったか、精一杯の力を振り絞り、黒坊主の手から逃れてしまう。


「なっ! 待てこの野郎!」

「雷蔵、追わなくていい」


 家主の言葉が山犬を引き留める。なんでだ、そう言わんばかりに鼻息を荒げる彼に藤ノ目は苦笑を零すと、もう一度「いいから」と告げる。


「野蛮な犬がおると分かれば縄張りを変えるだろうに」


 黒坊主が静かに言葉を続ける。恐らく彼もそれを分かった上で手の力を抜いたのだろう。だが、残った「鬼熊」はどうするべきか、藤ノ目は痛む腰に手を添えつつ縁側から庭に出ると、熊の元へと向かう。


「鬼熊、君はこれから……どうしていきたいと思ってるんだい?」

「……どうしようもなにも、おいらはおめさんらの言う事に従うまでだぁよ。山に帰れってんなら、大人しぐ帰っで、巣穴に籠っで過ごすだ……」


 ねぐらから外の世界へ出なければ、餓鬼憑きに合うこともない。だが、一生を一人きりで過ごすことになる、そう考えると、小雪には鬼熊がひどく不憫に思えて仕方がなかった。熊というだけで、理不尽に人から恐れられ、寂しい思いをしてきた彼が。


「わ、私! 鬼熊さんに会いに行きます!」

「小雪」

「だって、こんなの可哀想すぎる。山までは時間が掛かるし、しょっちゅうは無理かもしれないけど……余裕がある時は、お弁当作って会いに行くから。だから、だからもう、泣かないで」

「おっ、おめさん……! うぉぉん!」


 慰めるつもりが、より一層涙を煽ってしまったらしい。しかしそれは、鬼熊にとって初めての「うれし涙」だったかもしれない──。

 気付けば、朝日が昇り始めていた。このまま屋敷に残れば鬼熊の存在が町中に知れてしまう、事が大きくなる前にと彼を山に返すことにした一同は「月に一度、鬼熊に会いに山へ行く」という固い約束を交わした。

 突如起きた空き巣事件。事件を解決したのが町の小説家と若い家政婦だという事実を、他の住民は誰一人として知らない。「真犯人は見つからず、事件はお蔵入り」、表向きがそんな結末を迎え不安を抱えた者もいただろう、しかし一ヶ月もすれば、町の商店街にはいつもの活気が甦っていた。

 いつものように買い出しに出た小雪は、そんな光景を目にし小さく笑みを浮かべる。そして、心優しい山の住民に届ける林檎を買いに、店へと足を進めるのであった。






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