四. 警告
1
「熊?」
あきよしの店をあとにした一行は、屋敷に戻るなり居間に集まり騒動を振り返っていた。
藤ノ目が聞いたという家守の目撃証言を知った小雪は、用意した人数分の煎茶をちゃぶ台の上に置きつつ目をぱちくりとさせる。それはまるで「信じられない」と言っているようなものだった。
だが、向かいであぐらをかく用心棒に視線を移したところで、彼は間違いない、と力強く頷く。
「林檎についてた匂いとおんなじもんが店でもぷんぷんしてやがった。多分そいつぁ、これまでも何度か人里におりて来てやがるはずだぜ」
「でも、人にばれずによくここまで……」
「元々、熊は臆病な性格だからね。それにしても……扉をまるごと外して侵入、だなんて」
いやはや恐れ入ったもんだ、感心した様子で茶をすする家主に小雪はため息をこぼす。
藤ノ目という男はいつでもこうだ。自身の小説の締め切りにせよ、今回の事件にせよ、事の大きさは違えど焦る顔を見せたかと思えば、突然くるりと表情を変え落ち着いた様子を見せたり……一体どちらが本当の顔なんだか。物心ついた頃から彼とは顔を合わせてきたが、未だ全てを理解し切れていない。それがどこか悔しいと、小雪は常々思っていた。
「それで、これからどうするんです?」
小さな町を脅かす正体を突き止めた。これが人間ならば集めた証拠を警察に提供し、犯人逮捕を一任するところだが、相手は常人には見えぬ妖怪と呼ばれる存在。中途半端に首を突っ込んだのだ、ここまで来たらその熊とやらをとっつかまえて説教のひとつでもしてやらないと。
両の手を拳として握り意気込む小雪に藤ノ目は「は?」と首を傾げる。
「小雪、まさか自分たちで熊を捕まえようってつもりじゃあないよね?」
「え? そのつもり、ですけど」
「……旦那、まさか野郎をこのまま野放しにしとくつもりで?」
(おいおい、冗談じゃないぞ)
雷蔵の言葉に藤ノ目の顔が曇り始める、さっきまでの感心していた顔が嘘のようだ(これが噂の”くるり”だろう)。
だがここまできてあとは知らんぷり、そうなってしまっては困る。小雪は握った拳をそのままにずいっと身を乗り出すと、「先生!」と藤ノ目の方へ詰め寄った。彼はその気迫に一瞬負けそうになるも、眉を顰め言葉を返す。
「……今朝も言ったじゃないか、何か起きてからじゃ遅い。それは君自身について言ったんだよ小雪」
「そんなの分かってます。でも私、許せないんです」
犯人は分かっているのに何もせずに終わるなんて。被害はこれからどんどん広がっていくかもしれない、このままでは住民が誰一人出歩くのを拒み、町は静まり返るだろう。そうすれば人の目を恐れる熊も町中を歩きやすくなる、無人だと思って侵入した家屋に人がいて鉢合わせなどしたら……考えただけで鳥肌ものだ。
そんな状況を避けるためにも、私たちがやらねば。胸の内の思いをさらけ出せば、藤ノ目はようやく湯のみを置く。そして空いた両手でぼさぼさの髪をさらにわしゃわしゃと掻き乱し、深いため息をこぼすと、
「まったく……どうしてそう頑固なんだか」
折れた様にそう呟く。
するとそこへ、にゅうっとちゃぶ台の中心から黒坊主の頭が現れた。
「なにやらおもしろい話をしているじゃあないか、わしも混ぜてはくれんかのう」
不意をつかれた三人はというと、それぞれ「ひゃっ」だの「ぎゃあ」だの悲鳴を上げてその身をのけぞらせる。
「てっ、てめぇ! もっとましな現れかた出来ねぇのかよ!」
「きゃんきゃん吠えるな、やかましい」
「黒坊主……私の年も考えてくれ。腰に響いたらどうしてくれるんだよ」
四十を超えた身に今の”いたずら”は少々刺激が強かったらしい。驚き跳ね上がったことで腰に軽い痛みが走り冷や汗を浮かべずにいはいられぬ藤ノ目、加えて右腕には小雪がすがるようにしがみついている。だが黒坊主はというと、「元はといえば御前らがわしを仲間はずれにするのが悪いんだろう」……と、反省の色はうかがえない。
雷蔵は今にも飛びかからんとする勢いだったが、それを察したらしい黒坊主はやられるまいとその身をちゃぶ台から小雪の傍へそそくさと逃げるように移す。彼女の傍ならば山犬に噛みつかれる事もないと、よく理解しているのだ。
「して、小雪。その化け熊とやら、御前はどのようにして捕らえるつもりなんだい?」
「あ……ええと」
突然話を振られた小雪は我に返ったように顔を上げる。
視界に入る黒坊主の顔は心底この状況を楽しんでいるようで、切れ長の瞳は細まり、口角も吊り上がっている。ある意味「妖怪」らしい顔つきだろう。一方で、ちゃぶ台を挟んだその奥に身を置く雷蔵に目をやれば、こちらはこちらで怒りに満ちた鬼の形相だ。見慣れた光景ではあるものの、
(このままじゃ、また喧嘩する……!)
そんな不安に駆られる。
「つ、次に狙われそうなお店に忍び込んでおくとか」
「ほう? その店の目星はついておるのか」
「それは……これからみんなで考えて……」
「長い長い戦いになりそうだねぇ」
ぐさり、黒坊主の言葉が矢となり刺さるようだった。
「じゃあおめぇは何か作戦でもあるってぇのか? ん?」
すっかり縮こまってしまう小雪を見かねた用心棒がぐるる、と威嚇するように唸り声を上げる、すると、待ってましたと言わんばかりに黒坊主はくくく、と笑みを深くする。
「ああ、あるとも。そいつをこの屋敷へおびき寄せればいい、ただそれだけの事だ」
2
「な、なんだって?」
腰の痛みが落ち着いてきた藤ノ目を、また違う衝撃が襲う。
同時に脳裏に思い描くのは、腹を空かせた熊が屋敷に乗り込み部屋という部屋を荒らしそこら中に爪あとを残していく図だ。その中で、自分や雷蔵だけならともかく小雪が大けがを負ったら……そこまで考えが行きつくと彼女の祖母、千代の泣き顔まで浮かんでくるようで、気付けば心拍が上がっていた。
しかし、そんな彼の心配をよそに当の家政婦はというと、
「そっか、その手があった……」
(おいおいおい!)
こちらの気なぞ知りもせず、若者は恐れ知らずだ。
……これを許してはならない。相手は熊だ。しかもただの熊じゃない、「妖」だ。生きている野生のそれですら、人間が素手で立ち向かって敵う相手ではないというのに、それをわざわざ屋敷におびき寄せるだと。藤ノ目は屋敷の主らしく首を横に振る。
「いいや、だめだ。危険すぎる」
「まぁ聞け、源十郎。心配せんでも小雪に怪我は負わせん」
なにも熊に真正面から突っ込んでいくわけじゃあない、そう続けると気が気でない藤ノ目の肩を数度叩き落ち着かせる。なら、どんな作戦を思いついたというのか。その場にいる三人の視線を浴びた黒坊主はうんうん、と満足げに頷くと、「御前らにはそれぞれ役割を与える」そう告げ、まず小雪を見た。
「小雪、御前には化け熊をおびき寄せるための餌をこしらえてもらう」
「餌……ですか」
「ああ。相手は相当飢えているとみた、おそらく食いもんなら何でも良いだろう。てっとり早く握り飯なんかどうだろうか」
炊き立ての米の香りを嗅ぎつければ熊の足は此方へ向いて来るに違いない。それと余談だが、小雪の料理の腕は屋敷に住まう者みんなが絶賛するものだ、握り飯なんか誰が作っても同じと思われがちだが、米の炊き具合でその味はかなり変わってくる。
以前、小雪が留守にしている時にたまには自炊をしようと藤ノ目が台所に立ったことがあったが、水の分量が上手くいかなかったらしくべちゃべちゃの粥のようなものをこしらえた事があった(それはそれで粥として食べたらしいが)。それに比べ小雪が炊いた米は水分量も適切、炊く前に米を洗う時にも形が欠けないようにと丁寧に作業をするため、出来上がると艶々と光を放ち粒もしっかり立っているとか。特に雷蔵はそれが大好きらしく、毎度お代わりは欠かさないらしい。
そんな山犬お墨付きの小雪の腕っぷし。まさかそれがこんなところで生きてこようとは、だが藤ノ目からすれば安心の役割といったところだろう。
ほっと胸を撫で下ろしていると、次に黒坊主の視線がそちらへ向く。
「次に源十郎。御前には結界を張ってもらう。……屋敷を壊されたくはないだろう?」
「えっ……あ、ああ」
その言葉に「そりゃあそうだ」としか返す言葉がない。
(……やれやれ、これじゃあ心が休まる暇がありゃしない)
藤ノ目の脳裏に先ほど想像した地獄絵図が甦る。……とはいえ、まだそれが現実になると決まった訳ではないのだ、いつしか大きな問題となってしまった今回の空き巣事件、半ば諦めからのものではあったが作戦に参加することになってしまった以上怠慢では済まされない。
「今夜中に決着をつけるとしようか」
「言われんでも鼻っからそのつもりだ、人様から物を盗もうなどおこがましいにも程があるしねぇ」
「どの口が言ってやがんだよ!」
すかさず雷蔵が突っ込みを入れると、響く怒鳴り声に黒坊主は「おお、そういえば御前を忘れておった」と横目に彼を見る。(恐らくこれもわざとだろう)、小雪らが苦笑いを浮かべる一方で額にぴき、と青筋を立てる雷蔵は地味に自分の役割を聞くのを待っていたらしい、それに気付いている黒坊主は「まぁ落ち着け」と彼の気の短さを咎めた。
「山犬、御前には重大な役目がある。だが……そのように短気であっては安心して任せられたもんじゃあないのう」
以前、藤ノ目にも言われたような台詞だった。もちろん本人もそれを覚えているようで、「うぐっ」とうろたえると共に視線を横へ流す。
(平常心、平常心……)
そう心の奥で幾度か呟くと、一度深呼吸をする。
「……それで、俺の役目ってぇのは」
「ああ、その馬鹿力を存分に使ってもらう。いくら結界を張ったとて、相手は化け熊だからのう。夜更けまで、しっかり力を溜めておけよ」
心なしか、黒坊主の声色が変わったように思えた。遠回しに、「十分に用心しろ」と警告しているのだろう。
ふと、小雪は視線を下ろし自分の手元を見る。かすかだが、手が震えていた。