『ペルソナ5』ラストへのモヤモヤ感を記しておく(ネタバレあり)
※ 以下ではペルソナ5のネタバレを含みますので、これからプレイするつもりの人、プレイ中の人は読まない事をお勧めします
ペルソナ5をクリアした。途中までは作品の心地よいリズムに乗せられ、非常に楽しい時間を過ごさせてもらった。とにかく楽しい良いゲームだった。
…しかし、作品が最後の最後、シドウ攻略に入る辺りか「ムムッ」という感じになって、次に「うーん…」という感じになり、最後には「あー、そっちに行くか…」となってしまった。しかし、全体を取れば間違いなく楽しめる良作であるから、これからプレイする人には普通におすすめできる作品ではある。
自分が「うーん」と考え込んでしまったのは、ラストのシナリオの構成の仕方だ。ペルソナのシナリオを少し紹介すると、日常生活の裏側に、人間の心理世界が広がっていて、その心理世界では人間の醜い欲望や悪意が具現化している。そしてこの、悪意や欲望を裏の世界で打ちのめすと、現実ではその人間は「改心」して、自分の罪を悔い改める、というものである。
そして、人々を改心させて「世直し」するのは主人公含む高校生集団である。高校生集団である主人公達は「怪盗団」を名乗り、人の心を「頂戴」する。それによって世直しをしていくわけである。
まず、ペルソナ5のシナリオの作り方の長所を上げておきたい。ペルソナ3の時点から言える事だが、ペルソナのシナリオでは、まず普通の日常生活がある。これは僕達にもおなじみの普通の現実である。しかし、その「裏」の世界では、人間は悪意や欲望を持っていて、それが現実に露出させると、本物の事件になったり、現実的に害をもたらしたりする。例えば、これを、平和な日常生活と、ネット上での無数の悪意ある書き込み、というように比喩的に考えてみると、ペルソナのシナリオの作り方が現実を写し取ったものだとわかるだろう。
さて、ここで主人公達は裏の世界で暗躍することになる。裏の世界で、悪意ある人格を「改心」させる事により、次々に問題を解決していく。しかし、ペルソナ5では、それにプラスの点が加わる。これが物語に複雑さを増す事になる。
まず、裏の世界でそのように暗躍しているのは主人公達だけではなく、同じ力を使って裏の世界での行動権利を用いて悪い事をしている真犯人がいる事が時間の経過と共に指し示されるという事である。(言い忘れたが、裏の世界で行動して相手を改心させられるのは主人公達の一派と、真犯人だけである。これらの人は「ペルソナ」という特殊な能力を用いている。これは彼らの内心にあるものが具現化したものと見る事ができる。ここでも現実と裏の世界の二面性は守られている)
それともう一つは主人公達「怪盗団」が活躍するにつれて、ネットを中心として大衆の人気が上がっていく事である。この辺りの描写は非常に興味深い。怪盗団は人気が上がっていくように描かれてもいるが、同時に、単に大衆の「おもちゃ」になっているだけ、という現実の病根も的確に描いている。この辺りの描写は優れている。
…と、ここまで書くと、僕としては非常に満足なシナリオの作り方であるように思われる。もちろん、ケチをつけようと思えばできる。例えば、主人公達は相手を改心させるわけだが、それは相手が自発的に、改心するわけではない。相手は、自分の影が裏の世界で断罪されると、否応なく、自分の罪を告白しなければならない、というようになる。しかし、人間の意志というものを考えると、果たして裏の世界で改心させられた人物は本当に改心したのか、という事が謎である。根底的に言えば、ここにペルソナ5の物語の弱さがある。もっと言えば、現実における「世直し」「正義」の欠点がある。ここにおいては、主人公達は相手を改心させているわけだが、それは敵方にしては強制的に改心させられるわけで、作品中でも指摘されているように、人の心を無理矢理改変させているわけである。もちろん、主人公達は「善」だから、主人公達のしている事は結果的に正しい。しかし、それは果たして本当に改心と呼べるのだろうか。
誰かの手によって強制的に自分の意志を操られ、罪を告白した人間は、本当に自分の罪を否定したと言えるのだろうか。ここで、人間の意志と正義の問題が出てくる。つまり、正義は、それが仮に正義だとしても、相手に強制した途端に、何か嫌なものに変わってしまう。本当の正しさは相手を強制するのではなく、相手を導くもの、相手に自らをして悟らせるものでなくてはならない。これは非常に厄介な問題である。二十世紀にアメリカが世界に、自らの正義を持って介入していった時にも同様の問題が起こったと、僕は考えている。人はやはり、意識があり理性があるから、自ら成長し過ちを正さなくてはならない。そこでは自発性が重要である。とはいえ、もちろん、現実には悪党は存在するから、そんな悠長な事は言ってられない。しかしながら、悠長な事を言ってられず、相手を捻じ曲げる事は「改心」というよりはもっと別の何かなのではないか。それは果たして本当に良い事なのか。もっと言えば、そのように強制的に改心させられ、自らの意志と創意で行っていない罪の否定はいつか、揺り返しがくるのではないか。
しかし、まあ、それに関してはそれほど問題とはしない。それはペルソナ5のシナリオの弱点ではあるが、これはまだそこまで気にならない。気になったのはラストである。
ラストは結構込み入った話なので説明しにくいが、自分が違和感をもったのは「神様」が出て来るという事だ。これはペルソナ4の真エンドでも感じたが、それはあまりに大雑把すぎるのではないかと思う。また、「神様との闘い」というように話を広げすぎるのはシナリオの作りとしてはおすすめできない。何故かと言えば、主人公達が世界を改変する神を倒しさえすれば、物語の全ての問題は解決される、という風に全てが単純化されてしまうからだ。シナリオ構築としてはこれは楽な仕掛けだが、現実にはそんな神はいない。そんな風に妄想する個人がいるばかりである。
現実を見渡して見よう。ネット上でよくいる人物のように「俺以外は全員馬鹿」みたいな顔をした人間は現実には存在する。こうした人物はそれこそまるで神のように世界を見渡すが、実際、こうした人物は世の中に沢山いる。こうした人物と同程度の知識、知性の持ち主はたくさんいるが、この人物は正にその事に我慢できない。この人物は自分の特別さを認証して欲しいのだが、それに見合うだけの努力もしていないから、必然的に自分を後ろの方に引っ込ませて、世界を軽蔑するという態度を取るに至る。しかしこんな個人は無数にいるわけだから、この態度の背後の苛立たしい感情は消えない。
アメリカでトランプという大統領が生まれた。トランプの主張は単純、明快で、力強いアメリカを取り戻す、という感じだが、世界はそんなに単純にできていない。ここで重要な事は、トランプの言っている事、やろうとしている事は間違っていたとしても、トランプ一人を倒せば(物理的にだけではなく、選挙含め)問題は解決するというわけではないという事だ。トランプを選んだのはアメリカ国民である。そしてトランプを選んだアメリカ国民の中にある精神的病理は、現代人である僕達も共有している「何か」である。…もちろん、トランプが善だという人間もいるだろうし、それはそれでいい。どちらにせよ、重要なのは、世界はボタンを一つ押したり、たったひとりの敵を倒す事によって救われたり、破滅したりするものではないという事だ。人間は様々な多様性の元に生きていて、間違っていたり、正しかったりする。しかしその多様性から目を瞑れば、世界を救うのも滅ぼすのも、ほんのボタン一つという問題に還元されてしまう。
ペルソナ5の主人公達はラストで、世界を破滅に導く神と戦いに行く。しかし、本質的に行って、アニメ・ゲームなどの優れた作品に見られるシナリオ設定に対する自分の根源的不満は、解消されていないままにそこにあった。(だからこそ自分はゲームクリエイターを目指さないのかもしれない) こうした作品では大抵、主人公達は急に特別な能力に開花するのだが、その理由はほとんど説明されない。大抵、それは偶然である。そして偶然発現した、一部能力の持ち主達が何をするかによって世界は救われたり、救われなかったりする。
長々と書いてきたが、結局、主人公達の偶然的な特殊能力いかんによって世界が救われたり救われなかったりする、というよくあるシナリオの構造そのものに欠陥があるように思う。最も、それもペルソナ5の場合、途中までは合理的に進んできた。なぜなら、主人公達が改心させる人物は現実にいそうな悪人であり、また、裏の世界を使う自分たち以外の人間がいる事も示唆されていたからである。
しかし、それはシナリオの最後まで来てインフレを起こした。急に大衆全体の望み(破滅したいというような)を叶えるという神が現れ、主人公達がそれを倒すか否かという大きな問題にすり替えられてしまう。もともと、シナリオの構造的に、シドウにあらゆる悪が都合よく集中する際にも、自分は密かに問題を感じていたが、その問題が更に多く膨れ上がり「神」の問題にまで昇華されてしまった。ここまで来ると、あまりに漠然としており大雑把な作品であるように思う。そこでは、全ての問題を断ち切る為に都合よく「悪ー神」のラインが作られたと考えざるを得ない。
ペルソナ4でも、真エンドは必要ないのではないかと考えていたが、同じ事が5でも起こったと自分は見る。そういう意味では本当の、人間らしい敵は主人公達を裏切ったとある人物(一応ふせておこう)だったのではないかと思う。この人Xは、人間味のある理由によって主人公達に牙をむいており、実は主人公と似た存在だという事が記されている。したがって本当に魅力ある敵キャラはこの人物Xであり、シドウや悪神ではなかった、と僕は考える。
ただ、ゲームをプレイした人なら気付くだろうが、人物Xを主人公が打倒する相手だとすると、Xは世界を救うには不足な相手である。Xが敵であって、Xを改心させれば終わりだとすると、ペルソナ5は元の作品に比べて壮大さには欠ける事になる。これは難しい問題だが、僕は壮大さが欠けても作品全体の構成の秩序を取るべきではないかと思う。RPGは主人公達が奮闘して世界を救うという伝統があるから、それに則ってペルソナも作られているが、その伝統には必ずしも従わなくては良いのではないか。あるいはXの意図が彼の憎悪を表現する為に世界を破壊する事であり、それを主人公達が食い止める、という物語でも良かった。急に抽象的な神が出てきて、それが実は全てを裏から操っていたとプレイヤーにいきなり宣告されても、そこには物語としての必然性が欠けているし、神の悪意の根っこにあるのもあまりに漠然としすぎている。僕としては神よりも人物Xを強調すべきだったと思う。
しかし更に考えていくと、もっと根底的な問題はプロデューサーの橋野氏と僕の思想の違いではないかと思う。僕は仮に人類が真から滅亡を願えば、勝手に滅亡させるより他ないという気がしている。それは僕のニヒリズムではなく、結局、他人によって強引に改変させられたものは後に禍根を残してしまうからだ。人間は自分たちの意志によって滅亡しようとする。その過程で、自分達で滅亡が間違っいてる事に気付く、とならなければ本当に「改心」とはならない。一部の少数の者が裏で動いて、世界が変わるほど人間というのはやわではないし、仮にそうだとしたら、そんなコロコロ変わる世界にはあまり意味がないのではないか。だから、僕の人間に対する信頼は、悪を含んだ、自由と責任にある。自由と責任を失った自動機械がいつか完全なる善に変わっても、それは悪よりなお悪い。人間は自発的に生きるべきであると僕は考える。
さて、ここまでざっくりとペルソナ5へのモヤモヤ感を書いたが、やはり、現代で物語を作る事の難しさを改めて考えさせられた。人間はどうしても善ー悪、正ー邪、の観念に捉えられてしまうからで、主人公を善の側におくと必然的に相手は悪である事が確認される。これはもちろん、安心して見られる作品としては必須な形式だが、現実を見渡すと誰しもが自分を善と感じ、自分の敵を悪と考える。だからこそ、人はこうした形式をエンターテイメントとして楽しむのだが、どうしてそれにメスを入れてはならないのか。もちろん、僕自身のこの二項対立にとらわれている。だから、この意味を自分なりに掘り下げなければならない。ペルソナ5は全体としては非常によくできた素晴らしい作品だが、ラストをやってモヤモヤしたので、この文章でこうして発散する事にした。ただこれからやる人には、非常な良作なので安心してお勧めできる。しかしやはりーー最終的には色々な問題は自分ひとりで徹底的の思考し、詰めていく必要性を感じさせた。