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シュールレアリスティック・ガール/二

 BGMはオアシスのロール・ウィズ・イット。

 枕木ユウという謎の人は深緑色のミニクーパの助手席に私を乗せて、そういう90年代のロック・ミュージックが流れる喫茶店に連れて来た。そして私にバニラアイスを食べさせ、枕木ユウは珈琲を飲んでいた。私たちは店の奥の方の窓際のテーブル席に向かい合って座っていた。天井のオレンジ色の照明の明度は優しく、空気はぼんやりと滲んでいる。土曜日の昼間で席のほとんどが埋まっていて話し声は四方から聞こえるのだが、不思議と騒がしいとは思わなかった。それは私が枕木ユウに対して意識を集中させていたせいでもあるだろうし、あるいはこの喫茶店のバニラアイスの味が気に入ったからかもしれなかった。

「僕はこんなスーツ姿だけど旅人のようなことをしている、浮浪者じゃないよ、仕事の関係で旅人のようなことをしているんだ、」と、枕木ユウという名前を持つ私が知らない人は簡単に自分のことを紹介した。「出身はG県の錦景市、大学もそっちの方で専門は中世史だった、趣味で君のように絵を描くのが好きで中学高校と僕は絵を描き続けていたよ、好きな画家は、一番はフェルメールで次点がパウル・クレー、結婚はしていない、離婚もしていない、子供もいない単純な単身者で、兄が一人、姉が一人、僕は末っ子で、でも周りからは兄妹の中で一番しっかりしているって言われることが多い、煙草も吸わないしお酒も飲まないけど珈琲だけは中毒みたいに飲む、そして犬より猫が好きで、傍にはいつも恋人のようなキティがいる」

「キティちゃん?」枕木ユウの口から急にそんなファンシィな言葉が出てきて私は思わず笑ってしまう。「キティちゃんが好きなんですか?」

 枕木ユウは私に合わせて微笑み珈琲に口を付ける。「まあ、それはともかくとして、とにかく僕は旅人、のようなことをしている人間で、ふと立ち寄ったこの街の文化会館で君が描いたユートピアを偶然にも見つけた、偶然にもね、遭遇と言えばそれらしいかな、そして僕はどうしてもこの絵を描いた稲荷ハルナという高校生に出会わなくちゃいけないと思った、啓示を受けたように僕の体は少し震えたんだ、びりりっと、上手く伝えられないけれどとにかくね、雅に痺れたね」

「雅に痺れた?」私は首を斜めに傾けて眉を潜める。「私が描いた青い天使と真紅色の薔薇と公園の絵に?」

「そう、君が描いた青い天使と真紅色の薔薇の公園の絵にね、」枕木ユウは窓に視線を移す。窓の外は休むことなく相変わらずに見事な梅雨の雨が降り続けている。「ああいうものはなかなか書けるものじゃない」

「そんな、」と、私は首を横に振る。「凡庸ですよ」

「褒めているんだから素直にありがとうと言えばいいのに、」枕木ユウは窓の方を見ながら頬杖付き、片目を閉じて言う。ウインクのつもりかもしれない。「まあ、いいんだけれど」

「あ、ありがとうございます」

 私は慌てて頭を軽く下げてお礼を言った。しかし私は自分の絵が大人に褒められているというのに全く喜びや嬉しさを感じなかった。どうしたって私にはあの絵が、自分が描いた絵とは思えなかったし、客観的に見てあの絵が高く評価される理由を見つけることが出来なかったからだ。私にとってあの絵は私以外の誰かが私の知らない内に私の体を使って描き上げた、どこまでも凡庸な一枚に過ぎない。そのくせ、あの絵は文化会館の白い壁に飾られることによって、私のことを酷く惑わせる特殊なものになった。私を困惑させ、ある場合には苦悩させるものに。あの絵は枕木ユウという人を私に引き合わた。枕木ユウは私にアイスクリームを食べさせた。そして枕木ユウは私の青い天使と真紅色の薔薇の絵と公園の絵を褒めて私のことを困らせる。口の中に漂うバニラの甘みがそれらを多少なりとも和らげてはくれるが、完全には消してくれない。

 私の心は混迷している。

「あの、」私は両膝の上に手を置き枕木ユウに質問する。「あの絵のどこに、枕木さんを痺れさせるようなものがあったっていうんですか?」

「ユウさん、と呼んでほしいな、」枕木ユウはこちらに顔を向け直してニコリと微笑む。「苗字で呼ばれることになれていなくって、上手く反応が出来ないんだ」

「あの絵のどこに、ユウさんを、」と、私は言い直す。下の名前を呼ぶのは少し恥ずかしかった。「痺れさせるようなものがあったっていうんですか?」

「全てだよ、」枕木ユウは即答する。「あの絵の全てが僕のことを雅に痺れさせた」

 枕木ユウの即答を受けて、私の心臓は一度大きくドキリと脈打った。ピストルで体の真ん中をバキュンと撃ち抜かれたように、私に体はビクッと弾むように震えた。「……全て?」

「僕は分析家じゃない、絵を解体して、あるいは解釈して、その絵を手に入れたような気分になる連中とは違う、僕は絵をあるがままに受け止めて絵の中を通過して感じるタイプの人間なんだよ、だから分析家のようにあれが何を表現していてこれがそれを風刺しているという風なことは言わないよ、まして心理学者のようにこの絵は君の中に隠されているある部分の投影だなんて莫迦げたことも言わない、君のある部分の投影であるのかもしれないけれどそれが君の全てだなんてことも言いはしないよ、人とは移ろいゆくものだからね、まして十七歳の少女の疾風怒濤の変化は画用紙に一枚に収まりが着くものじゃないでしょうから、とにかくいずれにせよ、僕はあの絵に瞬間的に焼き付けられたようにして込められた、今こそにまさにという風に、膨張の臨界に達する直前のような、大きなものに痺れたんだ、上手く説明出来ないけれど、君の絵を見たときに僕は痺れてしまったんだから、それはとびきりのロックンロールに出遭った時に感じがよく似ていた、思考回路が軽くショートして正常に物事について考えられなくなるあの感じにね、興奮状態で椅子に座ったって落ち着かないものさ、僕は君に逢いたいと思った、逢わなくちゃいけないと思った、今日が土曜日で、どんなに雨が降っていようともね、急いで君に逢わなくちゃいけないと思ったんだよ、まともに我慢することなんて出来なかったんだ、そして君に遭える可能性はほとんどないだろうと思いながらも、絵の下の名札に描かれた『都嶋高校二年E組稲荷ハルカ』というささやかなヒントだけを頼りにして動いた、すると遭えるものだった、そして君は素敵なダンスを踊っていたね、バースデイのカレンダー・ガールに合わせて」

「……忘れて下さい、カレンダー・ガールのことは」

 私の顔が赤くなっているというのは鏡を見なくても分かっていた。私はアイスクリームをスプーンで掬って舌の上で溶かす。その作業を黙々と繰り返し、アイスクリームが綺麗になくなっても私の熱は引いてくれない。それはすなわち、私が枕木ユウのことをはっきりと意識していて、そちらに集中していて、そのせいで過度に緊張してしまっているということに他ならない。何の前触れもなく枕木ユウが放つ弾丸を無防備に喰らってしまわないように、私は入れなくてもいい力を入れて構えている。それは私のことを酷く疲れさせる。

「君とカレンダー・ガールのことを忘れるためには、そうだね、そのための機械のようなものが必要だと思うけどね、まあ、努力はしてみるよ、一応はね、機械に頼らずに努力を、」枕木ユウは微笑みながら珈琲のカップを揺らす。そして枕木ユウは上着の胸ポケットから名刺を取り出しテーブルの上で滑らせて私に渡す。「何かあればここに電話して来て、しばらくは、そうだね、夏までは東京にいる予定だから」

 私は視線をテーブルに落とし枕木ユウの名刺をマジマジと見つめた。

 ザ・シークレット・アフェア。

 それがどうやら枕木ユウが所属する会社の名前のようだ。

「ザ・シークレット・アフェア?」私には意味が分からなかった。

「秘密の職業、」と、枕木ユウは人差し指を唇の前に立てて、片目を瞑った。「これがそれ」


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