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シュールレアリスティック・ガール/一

 東京の季節は梅雨。

 私が母と文化会館を訪れた次の日は、見事に梅雨の雨が降っていた。それは朝方から降り始めて正午を回っても降り止む気配はなかった。空の色はどこまでも濃い灰色でどんよいとしていて雲の重さが直接体に圧し掛かっているようだった。天気が悪いせいで気分がいいとは言えない。頭痛はないのに、頭が痛いような気がする。そして私のスケッチブックはちっとも変化の兆しを見せなかった。

 美術部に所属する私は土曜日、都嶋高校の美術室でスケッチブックを前にクレバスを指先で回していた。特に何を描こうとか、直近に大きなコンクールが控えているというわけではなかったけれど、土曜日に美術室にいるというのは高校生の私にとっての日課だった。美術部に所属しているのは私を含めて五人ぽっちで、全員が女子だった。顧問も女の先生で、そういうこともあってか、放課後や土曜日の美術室は学校にあって静謐で、どこか異界のような雰囲気が漂っていた。美術室は私の家みたいに居心地がいい場所だった。だから雨が降っていて気分がいいわけでもないのに、私は東京の朝の七時に起きてパジャマから制服に着替えてレインブーツを履き、傘を差して美術室に来る。そしてスケッチブックを開く。

 この日の土曜日は、雨のせいか、美術部には私一人しか来なかった。都嶋高校美術部の会同率はそこまで高くなかったが、全員集まるのは非常に稀なことだったが、一人だけしかここに来ないというのはなかなかないことだった。だから私はどうしようかと少し迷ったが、結局は日課通りに美術室の窓際の机に座りスケッチブックを開いた。そしてクレバスを片手に変化の兆しを待つ。しかし変化の兆しは来ないまま時計は回り土曜日の東京はいつの間にか正午を迎えている。

 私は小さく息を吐く。

 そして自分の黒髪に指を入れる。

 変化の兆しがなくとも焦りはしない。

 絵を描くことよりもどちらかと言えば、私は日課をこなしているということに満足を感じているからだ。土曜日に美術室にいることに意味を感じている。その際、スケッチブックにちょっとした綺麗な変化があればそれなりに嬉しいとは思う。青い天使と真紅色の薔薇と公園の絵のようなものは私を戸惑わせるだけだ。

 私は空腹を感じてクレバスを指から離して鞄からお弁当箱を取り出して机の上で開ける。唐揚げを食べながら水筒のお茶を飲む。窓際の棚の上に部長が家から持って来た古いCDラジカセがある。私は唐揚げを咀嚼しながらCDラジカセの電源を入れ、音楽を再生させる。

 BGMはバースデイのカレンダー・ガール。

 私はお弁当を食べながらカレンダー・ガールを小さく口ずさむ。そしてなんだか無性に楽しくなってきて、美術室に私以外の誰もいないことをいいことにおむすびを片手に私は軽くステップを踏みながら踊り出す。「カレンダーになって飛んでいったよ♪♪」

 そしてすっかり一曲踊り上げて、気分がすっかり晴れ渡ったところで私は気付いた。

 瞬間的に私の顔は赤くなる。体も凄く熱くなる。血が燃えてしまったみたい。全身が炎症している風だった。

 私はコミカルな動きで後ずさり、叩くようにしてCDラジカセの電源を切り、雨に濡れる窓を背中にして、両手で赤い顔を隠した。

 そのはずみで私はおむすびを床に落としてしまう。

 最悪だ。

「ああ、ごめんね、驚かせてしまって、凄く楽しそうだったから、声を掛けそびれてしまて」

 私がカレンダー・ガールのリズムに踊っているのを目撃していた私の知らない人は、当惑する声で言って美術室に入り私の方に近づいてくる。「これ、バースデイでしょ? 僕も好きだよ」

「わ、私は嫌いです!」と、私はチグハグなことを叫んだ。すっかりカレンダー・ガールを踊り上げたくせに、嫌いです、と叫ぶのはないだろう。けれど叫ばずにはいられなかった。「バースデイなんて大嫌い!」

「嫌いなの?」私の知らない人は馴れ馴れしい口調でからかうように言う。「それにしては素敵なダンスを踊っていたけど」

「し、知りませんよ、」私は顔を両手で仰ぎながら自分の爪先に視線を落としながらしゃべる。涙が出そうだった。「い、いつ私がダンスを踊っていたというんですか?」

「あれがダンスじゃなかったら、なんだって言うんだろう?」

「さあ、」私は勢いよく首を横に振る。「なんだって言うんでしょうね?」

「まあ、いいや、」その人は口元で軽く微笑み、美術室のちょうど真ん中くらいの机の上にひょいと腰かけた。そして美術室の中を一通り見回しながら言う。「君がそういうんだったらそうなんだろうね」

 そしてその人は形のいい唇を動かすのを止めて、私の顔をまっすぐに見てきた。

 私は恥ずかしくて顔を背けたかったが、どういうわけかそれが出来なかった。首が動かなくて、体も縫い付けられたみたいに動かすことが出来なかったのだ。あたかもその人の視線に不思議な力が宿っているみたいだった。心臓だけがばくばくと大きく脈打ち、耳元で大きく反響していた。破裂してしまうかもしれない、なんて私は本気で思ってしまっている。とにかく私は動けないし何も言えない。

 その人は微笑みを浮かべたまましばらく私の顔を見つめ続けていた。まるで私の体の状態なんてすっかりお見通しという風に、時折目の形をいたずらっぽく変える。その人は細身の三つボタンの細身のスーツを着ていた。色は限りなく黒に近いグレイ、ネクタイは無地のクリムゾン・レッド、黒い先の丸い革靴を履いている。歳は二十代前半くらいだろうか。けれどその人は十代にも見えるし、顔には幼さが残っていた。そして私は本当にその人に見覚えがなかった。ここに新しく赴任になった教師だろうか。それにしては、なんというか、教師然とはしていない。髪型はマッシュルームヘアに近いショートヘア。一番相応しい例えは、ロックンローラ。でもロックンローラがこんなところに登場するわけがない。雨の日の高校の美術室はロックンローラが生きるのにうってつけの場所じゃない。

 その人は足を組み、首を横に傾け、少し色の付いた髪を揺らす。そして視線を私の顔からはずして口元をゆっくりと動かす。「君の名前は稲荷ハルナ、間違いないね?」

 私はぎこちなく頷く。その人の視線が外れて私の体は自由を取り戻したようだ。私は静かに息を吸い呼吸を整える。「……はい、そうです」

 どうしてロックンローラは私の名前を知っている?

「アイスクリームでも食べに行こう」

「は?」

「その、おむすびのお詫びだよ、僕がここにタイミング悪く来たせいで、君のおむすびは最悪なことになってしまった、だからそのお詫びにアイスクリームでも君に食べさせなくっちゃいけないと思う、もちろん、アイスクリーム以外にもケーキでもチョコレートパフェでもあるいはステーキでも、君には用意されているよ、なんでもご馳走しよう、さあ、どうしようか?」

「……お、お詫びなんていいですよ、」私は前髪を整えながら床の上で潰れたおむすびを見る。「私が勝手に落としちゃっただけですし、たかがおむすびですし、ご馳走してもらうなんて悪いですよ」

「それに見ず知らずの大人と食事をするのは気が進まない?」

 まさにその人の言う通りだったが、「えっと、」と私は曖昧に返事をすることしか出来ない。「えっと、あの、その」

「心配はいらない、別に君を誘拐しようとか、そういう風なことを企んでいるわけじゃないよ、」その人は片手を広げ冗談っぽく言って優しげな微笑みを見せる。「僕はどこまでも紳士的に君にお詫びをしたいって思っているだけなんだから、それともアイスクリームは嫌い?」

「……き、嫌いじゃないです」

「好きじゃない?」

「……味によって」

「何味が好き?」

「……バニラとか、……チョコとか」

「バニラとチョコならどっち?」

「バニラ、」私は唾を飲む。考えているとバニラの甘さが口の中に欲しいと思う。「断然、バニラですね」

「なるほど」その人は顎を擦りながら愉快そうに頷いた。


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