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シュールレアリスティック・ガール/プロローグ

 稲荷ハルナという名札の上にある一枚の絵を見ながら果たしてこの絵に一体どれほどの価値と意味があるのか、と私は自問した。その絵の真ん中には青い羽根の天使がいる。天使は真紅色の薔薇が降り注いだ、どこまでも幻想的だと思える公園の真ん中に立ち真っ直ぐにこちらを見つめている。天使は青い羽根で細くて華奢な体を包み真紅色の薔薇の海から飛び立つ様子はない。天使の足は薔薇の海に膝まで隠れてしまっている。地面に足が付いているのか、あるいは足そのものが存在しないのか、それはこちらからは分からない。天使は表情と呼べるような表情を、その端正な顔に浮かべてはいなかった。無表情に、ただその純粋に青い瞳でストレートに私のことを見つめているのだ。そして天使の髪は真紅色の薔薇の海の影響を、ほんの少しだけ受けたように、淡いピンクだった。

 その稲荷ハルナの絵の題名はユートピア。

 私はそこに描かれたユートピアに価値やら意味やら、それ以外の何もかもを感じられないでいたのだ。少なくとも春のコンクールの優秀作品として都立の文化会館のフロアの真っ白な壁に飾られるに相応しいものではないような気がしていた。同じように額に入れられ壁に飾られた作品の中にあって特に煌めいているわけでもなければ目も当てられないほどに酷いというものでもなかった。ただただ凡庸。

 私のユートピアはどこまでも凡庸。

 その凡庸さ加減について私は、特に意見を持たなかった。私は、私が一枚の絵に描き上げたユートピアの前に立ち、両手を制服のブレザのポケットに突っ込み、春から伸ばしっぱなしの黒髪に時折指を入れながら、ほとんど睨むように天使と視線を交錯させていた。

 春のコンクールのテーマはユートピアだった。美術の授業の四月の一か月分を費やして、都嶋高校の二年E組の生徒たちはそれぞれが思うユートピアを水彩で画用紙の上に描き、それぞれに個性的な、ある場合にはばかばかしい題名を付けた。一方で私は自分が描き上げた作品に題名を付けることが、凄く億劫で、そのままユートピアと題を付けた。というのは、私は自分が描き上げた青い天使と真紅色の薔薇の海と公園の絵に、自分が描いたという確信であったり、手応えのようなものを感じることが出来なかったのだ。まるで青い天使が私に乗り移り、私の意識を眠らせて、私の右手を道具にして描いたように。それほどまでに青い天使と真紅色の薔薇の海と公園の絵は私とは関わりのない場所で描き上げられてしまったのだという感じが強かったのだ。このユートピアに私は、確信もなければ手応えもなく、そして私がいくら青い天使に「これは私のユートピアなの?」と問いかけてみても応答もなければ反応もなかった。青い天使はいつまでも可愛げもない表情で私のことを見つめている。

「可愛げのない天使ね、」と、私は小さく独り言。周囲には人はいない。遠くにも疎らに数人が歩いているだけ。私は肩を動かすくらいに大きく息を吐く。「はあ……」

 どうしてこんな絵がここに飾られていたりするんだろう。

 どうして私はこんな絵を描き上げたのだろう。

 不思議だった。

 凄く不思議。

 そして私は青い天使から目を背ける。

 私はローファの踵を鳴らして青い天使から離脱する。

 可愛げのない天使のことを私は好きになれそうにない。

 そして天使はいつか、私のことを驚かせるような予感がある。

 迫りくる、どこまでも取り留めのない不安と混ざっての予感があるんだ。気がいいものじゃない。

「やっぱりハルちゃんの絵が一番素敵だったわ」

 他の高校生が描き上げた様々なユートピアを熱心に見て回っていた母と合流すると、そんな風に私のことを誉めた。母はいつもよりもかしこまった服を着て、そしていつもよりも上機嫌に笑っていた。私は金曜日の放課後に、母と連れ添って文化会館に来ていた。もちろん、選出され文化会館の展示フロアの真っ白な壁に飾られているという私のユートピアを見るために。「やっぱりハルちゃんには才能があるのよ、他の子にはない創造力みたいなものがあるんだわよ、きっと」

 私は母に微笑み返し、自分の爪先を見ながら展示フロアの出口に向かって歩く。「そんなことないよ、買被り過ぎだよ、親の目がそんなことを言わせるんだって、私のなんて全然、」私は大きく首を振る。「普通でしょ?」

「そんなに謙遜することないでしょうに、なぁに、恥ずかしがってるの?」母はやはり上機嫌に笑っている。「んふふっ、ハルちゃんの将来はきっと、芸術家ね」

「……芸術家ねぇ、」と私は冷めた声で言う。首を右に傾けて黒い髪に指を入れる。そして勝手に未来を予告しないでよ、と軽い反発を母に対して思う。「私はそんなのにはなれないよ」

 芸術家なんてそんな現実的でないものになれるなんて私は思わないし、なりたいとも思わなかった。私はきっと普通の大学に進学して、普通の職業に就いて、普通の男性と普通の恋愛をして、普通に結婚して、普通に二人くらい子供を産んで、普通の人生を歩んでいくんだろう。今までがそうだった。普通の小学生時代と普通の中学生時代を滞りなく過ごし普通の都立高校に入学し営為普通の女子高生をしているところなのだ。だからこれからだって、半永久的に、そうなんだと思う。そうでないとしたら、それはちょっとした恐怖ではないかと思う。特殊な喜びや感動といったようなものは普通でないことをしなければ味わうことが出来ないかもしれない。けれど普通でないことに手を出して普通でないことに足を踏み入れて、いつ予測不能の事態に巻き込まれてもおかしくないという風な環境に身を晒すくらいなら私は普通がいいのだ。どうあがいたって、なんだって、私はどこまでも現実的な、地に足の着いた、普通の人間なんだから。

 要するに、リスクは少ない方がいいと思う。

 そんな私は芸術家とはとても縁遠いところにいる人間なのだ。大それた夢は見ないし、この街から遠く離れた場所に旅立とうとも思わない。私は二十歳になってもきっとお酒も飲まないし、煙草だって吸わないだろう。髪を茶色や金色やピンク色に染めることだってしないだろう。派手な化粧をして派手なドレスを身に纏い派手に遊んでケラケラって笑いながら手を叩きたいとも思わない。つまらない人生だって言われるかもしれない。でもそれって悪いことじゃありませんよね?

 母はきっと、私のことを私が描き上げた青い天使か何かと勘違いしているんだと思う。だから私に並はずれた夢を押し付けてくる。正直、ウザい。母の上機嫌が続くなら、私はきっとヒステリックになる。

 私は青い天使じゃないんだから。

 新しい風で私の普通の未来を揺さぶらないで。

 いつまでも。

 しかし。

 けれど。

 そんな十七歳の初夏のことだった。

 私の前に変な奴が現れたのは。


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