正月企画「ネトゲの相方がリアルに家出しました」
思うに、冬の寒さとは布団の中の暖かさを改めてかみ締めるためにあるのだと思う。
――寒い。
目が覚めると、部屋の中の空気は凍り付いていた。
そしてなぜかいつもの布団の中ではなくて窓際のソファーの上で目を覚ましたことに気づく。
あー まずいな。
俺は暖かい毛布の中から右手を引っこ抜き、寒さのあまり曇った窓を指でこすった。
やっぱり雪が積もったか。
水滴の滲むガラス窓の向こうにある隣家の屋根は、たった一晩で真っ白に染まっていた。
初雪か。
こうしてはいられない。
俺は布団の外の寒さに顔を顰めながら、部屋の明かりを点け、手早くパジャマの上に上着を羽織った。
雪国の雪の降った朝の過酷さは、そこに住む人間にしかわからない。
初雪の降った日はバスも電車も半端なく遅れるし、すさまじい渋滞が発生する。
下手をすれば玄関のドアが雪に埋まって閉じ込められてしまうことさえ珍しくは無い。
いつもより1時間や2時間前に行動するのはあたりまえ。
さっさと出勤の準備をしないと、会社に遅刻してしまう。
いくら自然災害のせいとはいえ、それが会社の取引相手にまで通じるとは限らないのだ。
――気象庁によりますと、シベリアから発達した低気圧が乗り出し、日本海側を中心に大雪のおそれがあると……
朝の静かさに耐えかねてテレビをつけると、見慣れたニュースキャスターが昨日のニュースを繰り返していた。
「あー 毎年ながら面倒くせぇなぁ」
ニュースの内容が、昨日発生した大手企業のリコール騒ぎに切り替わったあたりで興味を失い、キッチンに足を伸ばして蛇口をひねる。
うん、どうやらまだ水道管は凍っていなかったらしい。
そしてコップに注いだ水を一杯飲み、シャワーを浴びるために小さな箪笥から替えの下着を取り出した頃になって、ようやく俺はあることに気づく。
俺の布団に誰かが寝てる?
「……タイチ。 おなかすいた……」
まだ微妙に寝ぼけた耳に入ってきたのは、俺の名を呼ぶかすれた女性の寝言だった。
リビングを占拠する使い慣れた布団に目をやると、その形がほんのりと皿に盛られたオムライスのように盛り上がっている。
そして、その先端の掛け布団の切れ目からは、見慣れない長い髪がはみ出していた。
「……誰?」
焦る心を宥め、昨夜の記憶をひねり出す。
あぁ、そうだった。 ようやく全てを思い出した。
なぜ俺がソファーで寝ていたのか、なぜ俺の布団に見慣れない少女がいるのかを。
「ん……おはよ、タイチ」
俺の声で目が覚めたのか、冬の夜空を思わせる長い黒髪を揺らすと、その少女は天使も恥らうような愛らしい顔で俺に微笑みかけた。
顔を見るのも声を聞くのも初めてだが、俺は彼女を知っている。
そう、彼女は以前からの知己なのだ。
――ただ、彼女との間には今までネット回線が横たわっていたというだけで。
「いいか、俺は仕事で夜まで帰ってこないから、絶対に外に出るなよ?」
「うん。 ――わかった」
俺が少女にそう言い渡すと、彼女は意外なほど素直に頷く。
いつもこんなふうに素直に受け入れてくれたらいいのに。
俺の知るこの少女は、一言で言うとわがままで暴君だ。
しかもかなりの寂しがり屋で、一日顔を合わせないだけで翌日はむくれてしばらく会話をしてくれない。
ほっとくと、さらにキレてわめきだすのだから実に始末が悪い。
あくび混じりの眠そうな声と、ドアの閉まる音を背中で聞きながら、俺はやわらかい新雪を踏みしめながら愛車の上につもった雪を下ろす作業を続けた。
時計をみれば、朝の5時半。
これならば遅刻はせずにすみそうだ。
まだ空に星が見えるほど暗い空の下、白い息を吐きながら俺は昨日のことを思い返す。
そもそも彼女――マドカとは、ネットゲームで知り合った仲だ。
当時流行っていたネットゲームで同じギルドに所属していた俺と彼女は、キャラの組み合わせがよかったこともあって頻繁に狩をするようになり、いつの間にか相方の様な存在になっていた。
そして、そのゲームに飽きて他のゲームに一緒に鞍替えをした後も、お互い気心の知れたプレイヤー同士として清い関係を続けていたものだ。
ただ、周囲の人間がどんなに誘ったとしても、彼女は絶対にオフ会にだけは顔を出さなかった。
というか、その時までネットの向こうの相方が女だとは誰も知らなかったのだ。
なにせ、マドカのキャラは男性で、しかも筋肉隆々の大剣使い。 確かに潔癖な感じはしたものの、言動が特に女っぽいところは見受けられなかったため、同じギルドの誰もが中身が男であることを疑わなかった。
そう、相方である自分でさえだ。
そして自分のキャラはといえば……皮肉なことに華奢なエルフの女魔導師だったのだから現実とはまるっきり逆の姿だ。
――ネカマ? 好きに言うがいい。 つるぺたエルフは男のロマンだ。
そんな彼女から、会いたいとメッセージが来たのは、年の暮れの初め、降りしきる雨に霙が混じり始めたころだった。
「……え? まさか君がマドカさん?」
「もしかして、タイチさん?」
この季節には珍しく、深い青が空から顔を覗かせた日曜日。
待ち合わせの駅は、薄っすらと朝に降り注いだ霙の名残が残っていた。
通勤ラッシュの時間帯でさえ一時間に2~3本も列車が止まれば多いこのさびれた駅にたどり着いた時、そこには場違いなほどキラキラとした美少女が一人たたずんでいた。
当初人違いだろうとはおもったが、殺風景な駅のホームには他に降り立つ人も無く、誰かを迎えに来ているような人も俺以外には存在しない。
頬をつねるか眉に唾をつけたい気分で、あらかじめ聞いていた携帯の番号をプッシュすると、目の前の少女の懐からネズミの国のテーマソングが流れ出した。
――間違いない。 彼女がマドカだ。
およそ高校生ぐらいだろうか? この年頃の少女には珍しく、黒い髪には染めた跡もない。
身に着けているモノは派手さこそないものの、素人でも名前を知っているブランドのロゴがこれみよがしに張り付いている。
いや、実際には豪華な品物なのだろうが、色あせて見えてしまうのだ。
――それらを身に着けている彼女の前では。
「キャーっ! すごい! ほんとにウチのウォルフそっくり!!」
ドカッ
そのまま黄色い声を上げながら、腹の辺りにタックルをかましてくる美少女。
幸い相手の体格が華奢なので体当たりを食らっても痛くもかゆくもないのだが、せっかくの感動は見事に台無しである。
ちなみにウォルフとは彼女がゲームの中で使っているむさ苦しい大剣使いのキャラ(ゴリマッチョ)だ。
悪かったな、ゴリマッチョ系で。 大学時代に先輩から頼み込まれて入ったラグビー部のせいか、社会人になった今でもシルエットが横に広い。
いや、太ってはいないからな? ほんとだぞ?
そしてマドカ、そういうお前はウチのアリシアにそっくりだよ!!
……いうまでもないが、アリシアは俺の使っているエルフの女魔導師キャラだ。
髪の色さえ金髪にしたならば、ほんとにそっくりそのまんまである。
早い話が、見た目がむちゃくちゃ好みなのだ。
うわ、やべぇ。 考えていたらなんか滾ってきた。 円周率の計算って何をどうするんだっけな。
「ねぇ、タイチ。 いきなりだけどお願いがあるの」
そして彼女は、俺の体を抱きしめたまま上目遣いでこういったのだ。
「え? 何」
つーか、いきなり呼び捨てにランクダウンかよ。
「今晩、ううん。 しばらく家に泊めてくれない?」
言われた台詞を理解するのに、2秒ほどかかっただろうか?
「はぁっ? お前、ロクに顔も知らない男の家に泊まりたいって、正気か!?」
まだ高校生の、しかもこんな美少女が家に泊まりたいなんて言ってきたら、同性愛者以外のほぼ全ての男は大小の差こそあれど勘違いをするだろう。
俺だってそうだ。
誘ってるのか? それとも意味を知らないだけなのか?
いや、いくらなんでも後者の理由は無いだろう。
「顔は今見たし、ずっと知ってる相手じゃない?」
その無邪気な笑顔を見る限り、実は理由が後者なんじゃないかと疑いたくなる。
ある意味ショックだ。 ――まさか、俺のアリシアの相方を長年勤めてきたウォルフの中身がこんな天然系だったなんて……
「知っているっていっても、たかがネトゲの遊び相手だろ。 冗談でも男相手にそんな台詞使うもんじゃない」
「……私は本気だけど? だいたい私、タイチより親しい友達いないし」
「お前……どんだけ周りと付き合い浅いんだよ」
まぁ、深い仲になりたい奴はいくらでもいるだろう。 俺だって現在進行形で微妙に発情中だ。
ただ、彼女の言葉が本当ならば、それなりに貞操観念はあるってことか。
少なくともウソをついているようには見えない。
「ったく。 お前みたいなのを一人で街の中に放り出したら、どんな目に遭うやら」
どこかのホテルに宿泊するにしても、ずっと部屋の中に閉じこもるわけではない。
フラフラと外をほっつき歩けば、なにせこの顔だ。
悪い虫の一匹や二匹、確実に食いついてくる。
――暴力に訴えるようなやつも含めて。
「仕方が無いから今晩は泊めてやる。 けど、明日にはちゃんと家に帰れ。 親も心配しているはずだぞ?」
「――それなら心配ないよ。 親なんていないから」
嘘つきめ。
目をそらしたマドカの暗い表情を見つめながら心の中で呟く。
本当に親がいない奴がそんな顔をするものか。
そういう奴はな、相手が気にしないようにわざとなんでもないようなフリをするんだよ。
たとえば、俺がそうであるようにな。
「じゃあ、タイチの家に行こっ! あ、タクシー呼んでくれる?」
「アホか。 ここから俺ん家までだったら歩きだ、歩き。 20分ほどで着く」
「えーーーっ!? そんなに離れているのに歩くの?」
信じられないとばかりに目を剥くマドカ。
まぁ、ほんとはここまで車で乗り付けたんだけどな。
都市部の人間にはわからないだろうが、鉄道に不自由な田舎暮らしにおいて自家用車は生活の必須アイテムである。
それこそ、成人すれば一人一台が当たり前の世界だ。
「おまえ……どこのお嬢様だよ」
「んー まぁ、普通の家だよ」
少しばかり問い詰めると、案の定マドカはついと視線をそらした。
おまえ、ウソが下手だな。
「俺の目を見て言え。 この狼少女」
思わず口をついた俺の台詞にマドカは小さく笑うと、返事の代わりに無言で俺の腕に抱きついた。
おいおい、いくらなんでも最初からスキンシップが激しすぎるだろ?
「信じてよ、タイチ」
たとえ、それがウソだと解っていても。
――どうも、俺はこの少女の笑顔に弱いらしい。
そして俺は駅裏の駐車場へとマドカを案内し、碌な観光名所も無い市内の風景を日暮れまでドライブした。
途中、マドカは道の駅で使う予定も無い地元産の野菜を買い込んだり、ご当地のストラップを見てキャーキャーとはしゃぎまわったりとひどく忙しい。
おいおい、その野菜は誰が料理するんだよ。
綺麗な手をしているところ見ると、料理なんてほとんどしたことないんじゃないのか?
ついでにマドカよ、君が可愛いといって持ってきたゆるキャラストラップは、ウチの地元じゃなくて隣の県のキャラクターだ。
というか、なんで地元のキャラでもないグッズがこんなところで売ってるんだよ?
まぁ、向こうのほうがはるかにネームバリューはあるけどさ。
そんな一日を何とか終わらせ、マドカの買い込んだ食材で飽和状態になった冷蔵庫を眺め、缶ビールを片手にため息をつく。
――まぁ、楽しくなかったといえばウソになるけどな。
我侭な女は嫌いだと思っていたが、たまには振り回されるのも悪くない。
そして、冷蔵庫に過酷な労働を強いた犯人はというと、シャワールームでのんきに鼻歌を歌いながら至ってご機嫌である。
何気なくつけていたテレビから流れるニュースは、また朝も流れていた大手企業のリコール騒ぎの報道に替わった。
このニュース、だんだん扱いが大きくなってきたな。
さて、やることだけ終わらせるか。
テレビの音量を二つほど大きくすると、俺はマドカのバッグを開き、少なからぬ後ろめたさを感じながらも中身をごそごそとあさり始めた。
その際、財布の中に自分の預金通帳よりも多い札束が入っていたことにガックリしながらも、あえて無視して目的のモノを探し続ける。
「……あった」
俺が探していたのは、彼女の写真のついた生徒手帳。
バッグの中に入っていた高校の制服の胸ポケットの中から、本名と自宅の連絡先を探し出し、自分のスマートフォンの中に手早く登録する。
そして俺は何事も無かったように荷物を元の位置に戻し、彼女が風呂から上がるのを待った。
「タイチ、お風呂先にもらったよー」
「あぁ、湯冷めしないように気をつけろよ。 俺は風呂の前にタバコ買ってくる」
「うー タバコ嫌い。 吸う時は外で吸ってもらっていい?」
「へいへい。 仰せのままに」
本当に苦手なのだろう、家主は自分なのだが、ほとんど泣き出しそうな目で見られるとさすがに弱い。
厚手のジャケットを上に羽織り、肩をすくませながらまだ雪のちらつく夜道を一人歩く。
そして、家から歩いて5分のところにあるコンビニでタバコを1箱買い求め、一服吸って気持ちを落ち着けると、おもむろにスマートフォンを取り出した。
そして、登録したばかりのダイヤルを指でタッチする。
「もしもし? 私、野上と申しますが、実はそちらのお嬢さんのことでお話が……」
そして俺は、彼女がいきなり俺と連絡を取った理由を知ったのだった。
ここまでが昨日の記憶である。
「さて、あのお嬢さんはおとなしくしていてくれたかねぇ」
年末特有の無理なスケジュールが突如として発生し、俺が帰宅したのは夜の23時をとっくに過ぎてからのことだった。
きっと、マドカは盛大にむくれていることだろう。
「ただいま――」
そして帰宅した俺を待っていたのは、火事場に踏み込んだかのごとき何かが焦げる異臭と、台所で泣きべそをかきながらひざを抱えるマドカだった。
「ご、ごめんなさい」
俺の顔を見るなり、火がついたように泣き出すマドカ。
見れば、台所のシンクの中に、真っ黒に煤けた上にパックリと割れた土鍋の残骸が鎮座していた。
それだけで凡その事情は察することができる。 まぁ、火事にならなかったのだから僥倖というべきだろう。
「何を作ろうとしたんだ?」
おそらく、仕事から帰ってきた俺のために手料理を作ろうとしたに違いない。
――まったく、なれない事をするから。
「……鳥鍋。 昔、パパとママがまだ小さな工場を経営していた頃、冬になるとみんなでよく食べたの」
「そうか。 火傷なんかしてないか?」
「……怒らないの?」
「俺のために作ろうとしたんだろ? けどな、親切って、すごく難しいんだよ。 良かれと思ったことが、相手にとってはとんでもない迷惑だって話はよくある。 俺だってそうだ」
幸いなことに、被害は冷蔵庫に入っていた食材と、愛用の土鍋だけだったようだ。
「たとえば、君の親がよかれと思って自分のお眼鏡にかなった相手と結婚させようとした事もね」
そう、彼女がいきなり俺に連絡を入れてきた理由……それは漫画や小説であまりにもありふれた理由だった。
まさか、いまどき本当にそんな事があるのかとむしろ感心したが、残念なことに俺は少女マンガの主人公にはなれないらしい。
そして、彼女は気づく。 俺の裏切りに。
「……なんで知ってるの?」
「君の家に電話をかけた。 君の生徒手帳に乗っていた番号を使ってね」
「ひどい…… 信じてたのに」
「勝手に信じたのは君の都合だし、俺は俺で君のために良かれと思って行動をしただけだ。 君が俺のために鍋を焦がしたようにね」
そう、善意とは時に悪意よりも残酷になる。
まるで、この世界が不完全で狂っていることを証明するかのように。
「……裏切り者」
「裏切り? 心外だな。 そもそもマドカ、君も悪い。 いきなり好みの女に押しかけられて、男の理性がそう何日も保つとでも思っていたのか? 俺がケダモノになる前に、君は君のいるべきところに帰るべきだ。 それとも俺を犯罪者にしたかったのか?」
「嘘つき。 本当は、怖かっただけのくせに」
「君を受け入れるだけの覚悟がなかった事は認めよう。 けど、逆にいえば君に覚悟を強いるだけの権限はあったのか?」
そんなもの、誰にもありはしない。
そんな事は最初からわかっていることだ。
それでも受け入れて欲しかった。
そんな言葉にならない叫びを上げながら、彼女の目は静かに涙を流し続けていた。
やがて、市役所の鐘がいつものように日付がかわった事を告げる『亡き王女に捧ぐパヴァーヌ』を夜の静寂に響かせる頃、俺のアパートの部屋のドアを叩く音がした。
さぁ、お迎えが来たよ。
家にお帰り、跳ねっかえりのシンデレラ。
王子様の代わりに獣がはこびるお城よりも、家に帰ったほうがきっと幸せだから。
君を苛める継母も、意地悪な姉も。もういなくなったから。
――今朝から何度も流れている大企業のリコール騒ぎ。
その騒ぎの責任をとらされて、彼女の結婚相手の親は会社をクビになったらしい。
彼女の家に電話をしたときに対応してくれた家政婦さんの話によると、もともと純粋な政略結婚だったらしく、この事件をきっかけにマドカの結婚話も急遽ご破算になったのだとか。
リコール騒ぎが発覚する前から家を飛び出してホテル暮らしをしていたマドカは、どうやらこの事実を知らなかったようだ。
迎えに来た運転手らしき初老の男性に促されながら、マドカは無言で部屋を出てゆく。
こんなことがあったのに、親が直接迎えにこないのかよ。
お前らの大事な娘だろ?
最後に、迎えに来た運転手が俺に一礼をすると、安普請のドアがいつにもなく静かに閉じた。
あぁ、本当に静かだ。
再びテレビから流れてきた件のニュースの音を遠くに聞きながら、俺は何かを紛らわせるかのように目を閉じた。
ふと思う。
名作として名高い、ローマの休日という映画の話しの後で、知り合った新聞記者と王女は、その後幸せだったのだろうか? 短い逢瀬の記憶がよみがえるたびに、彼らはどんな想いを胸に描いたのだろうかと。
あの事件の後、マドカがネットゲームに来なくなり、はや数ヶ月。
南の地方ではすでに梅の花が咲き始めたらしいが、こちらはまだ街角の片隅にさえ汚れた雪が居座っている。
あの事件があってから、俺は今まで会社の仕事より熱が入っていたネットゲームからすっかりと足を洗ってしまった。
マドカがいなくなった場所は、どうにも空虚で、何をしても面白いと感じることがなくなったからだ。
ネットゲームを辞めた人間が口をそろえて言うように、今となってはなぜあんなモノに熱中していられたのか、不思議でならない。
ただ――趣味を失った後の生活は、おそろしく空虚だった。
今日も会社を早めに切り上げ、何をするともなく虚しい時間をすごすために我が家へと帰る。
あぁ、いつかマドカが失敗した鳥鍋、ほんとはどんな味がしたんだろう? 食べてみたかったな。
雪解けの水でぬかるんだ階段を気乗りしない足取りで這い上がりポケットからドアの鍵を取り出して――
「おかえり、タイチ。 思ったより早かったね」
「……マドカ? なんでここにいる!?」
安普請のアパートの玄関口、場違いなほど高級なコートに身を包んで俺を待っていたのは、他でもないマドカだった。
「高校を卒業してね、こっちの大学に進学して、一人暮らし始めたの」
「……え?」
その時になって、俺はマドカがいつまでも高校生ではないという事実に初めて気づかされた。
「でね、今日はリベンジにきたの」
そう言って突き出された近くのスーパーのビニール袋の中からは、パックに入った鳥の手羽先が顔を覗かせている。
「甘いのよ。 あんな程度で私をあきらめさせようだなんて」
「え? え?」
「ねぇ、ネットゲームで知り合った人間関係は薄いってよく言うけど、そんな事ないよ」
まだ状況が理解できずに、間抜けな声を連発する俺を、彼女はしたからニヤリと笑いながら見上げ……
「そもそも、誰のせいで私が家出するほど思い悩んだと思ってるの? 男なら責任取りなさい」
彼女の小さくてすべすべとした手が、俺の血管の浮き上がってゴツゴツした大きな手を引き寄せ、思わず体が前かがみになる。
「私が今まで、どれだけタイチのことが好きだったか、たっぷり教えてあげる」
続いて頬に触れた柔らかい感触が何だったのか、そしてその後の俺がどうなったのかは、想像にお任せしよう。
ただ、その後に食べた鳥鍋の味は、今まで食べたどの料理よりもおいしかった。
一生心の中に残るほどに。