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後編

「長ネギ、ほうれん草、レンコン、シメジ、春雨、豆腐、鶏のひき肉、……」


 このメモはちゃんとスーパーの配置図を想定して書かれていた。

 見る人の気持ちを考えた、やさしいメモだ。

 胸ポケットから拾ったものを差し出すと、先生ははにかんだように指先を二本だけ出して、挟んだ。


「…… 手を煩わせてしまったのね、ごめんなさい」

「いえ、ついでですから」


 ついでの用事が終わったので、もうここにとどまる必要は特別にはなかった。

 けれど、私にはひとつ聞いておかなければいけないことがあった。


「先生は、コーヤ・ハルキのファンなんですか?」

「ええっ、ど、どうして?」


 驚いた声にかぶさるようなタイミングで、館内放送が入った。


「ただいまから生肉コーナーにて、夕方のタイムセールを行います。……」


 本日のタイムセールのメインは、サイコロステーキのようだ。

 今夜の食卓には関係なさそうだったので、聞き流していると、先生が視界から消えていた。

 探すと、下に座り込んで頬をおさえている。どうやら当たりを引いたらしい。


「レンコンとシメジはすぐそこにあります。春雨や豆腐は反対側です。鶏肉の売り場は人が群がっていった方向のすぐ隣です」


 わかりますか、と上から尋ねると、下から、大丈夫だと思う、というなんとも頼りない返事が聞こえてきた。


「そのメモなら、大丈夫ですよ」


 先生がぎゅっと握り締めているので、しわしわになっている紙切れをさして、私は言う。


「ちゃんと、先生が迷子にならないようにできています」


 話しながら、私がある方向に目をやると、先生も同じようにそこを見た。



 スーパーマーケットの一角には、特設コーナーがつくられていた。

 『特集 本日のコーヤ・ハルキ! くいしんぼうなお皿』という特大ポップが立てられており、テーブルには色々な食材が並んでいる。

 併設されているテレビでは、該当番組が垂れ流しになっていた。

 頻繁に映し出されるのは、若い男の姿だ。

 一瞬俳優かと見間違えるほど画面映えするこの男の名前は、コーヤ・ハルキ。

 最近人気の男性若手料理研究家だ。

 『くいしんぼうなお皿』は、料理番組である。

 月曜から金曜まで、ランチタイムの前の十五分間に放映されている。

 この番組にレギュラー出演しているのが、コーヤ・ハルキだった。

 料理研究家という肩書きだが、調理師の免許も持っていて、プロにふさわしい洗練された包丁さばきと、そして最後の試食の席で時折見せる微笑みに、おもな視聴層である奥様がたが飛びついた。

 その後、主婦から子ども、お年よりまで人気は伝染して、この番組はおもに女性からの圧倒的な支持を受けるようになった。

 先日発売された番組のDVDBOXがオリコンチャート一位となり、話題となったばかりだ。

 テレビから流れてくる番組の内容は、少し前に放映されたもののようだった。

 おそらくまだDVDにはなっていないことからして、店主が自ら録画したものだろうと推測される。ここの店主が彼のファンだという噂はどうやら本当らしい。

 コーヤ・ハルキは背が高い。

 アシスタントである男性アナウンサーとゲストである女優さんと並んで立つと、頭が画面から切れてしまいそうだ。

 アナウンサーの前フリを受け、画面がコーヤ・ハルキのアップに切り替わる。


「今日のメニューは、鶏団子の味噌スープ鍋です」


 先生のメモには続きがあった。

 具材の他に、しょうが、にんにく、タカノツメ、…… (塩、酒、しょうゆ)、トウチショウ、赤味噌、どうやら、先生の自宅にはほとんと調味料がないらしい。

 とりあえず、ぴりりと辛い赤味噌の味が染みた鶏団子が、舌の上で転がるさまは想像するのは、たやすかった。

 スーパーマーケットは、人の動線を意識して商品が陳列されている。

 そしてこのメモもそう。買い物をする人の目線になって、買い回りしやすい順番に書かれている。

 コーヤ・ハルキが番組内で配慮している、料理初心者でもわかる、やさしいメモだ。まさに先生のためのメモとも言える。

 先生は普段、料理をしないタイプのようだ。

 本人に確かめたことはないが、お昼ごはんはいつもおかあさんのお弁当と以前、授業で話していた気がする。お弁当のほかに、決まってコンビニのおにぎりを付け足して食べている。

 かなりの大食いらしく、他の先生の笑いの種にされていた。

 また、今日の買い物の様子を見て、その推測は核心に変わった。

 ―― けれど、いつごろからだったろうか、先生の手にバンソーコが目立つようになったのは。

 このメモも番組を見ながら必死で書き写したのだろうと思うと、いとおしく感じられなくもない。


 テレビではまだ番組が続いていた。

 いつのまにか料理は出来上がっていて、土鍋を囲み、試食の時間になる。

 コーヤ・ハルキのファンだという大御所の女優さんがゲストだった。

 一口運んで、うまい、と舌鼓を打った。箸がすごいスピードで動いて、料理が次々と口の中へと吸い込まれていく、演技ではない、豪快な食べっぷりだ。見ていて気持ちがいいくらい。

 画面には映っていないが、コーヤ・ハルキもきっと微笑んでいることだろう。


「お好きな女性のタイプは?」


 コーヤ・ハルキはあまり社交的ではない。

 この手の質問はいつもはぐらかすのだが、その日はめずらしく真面目に答えていた。


「そうですね、山盛りのご飯をおいしく平らげてくれるような女性は素敵だと思います」


 この後、ダイエットブームにまさかの翳り?!という文句で、コーヤ・ハルキの発言がワイドショー番組に取り上げられていた。

 このときのゲストの女優さんとは、少し色めいた噂にもなっていた気がする。

 コーヤ・ハルキは既婚者だが奥さんとは死別しているので、法律上はどんな女性とお付き合いをしても問題なかった。

 そして、今朝のスポーツ新聞では、また違う女性との噂が取り上げられていた。

 今度は一般人の女性であるらしい。再婚間近、という見出しだった。

 コーヤ・ハルキは、現代日本の流行の一番手であると言うのは間違いないらしい。



「先生、行きましょう」


 いまだ少し呆けた状態でいる先生の手からカゴを奪いとった。

 メモどおりなら結構な量になるから、ショッピングカートを借りてきたほうがいいかもしれない。

 そうつぶやくと、持ってくるわ、と言って入り口めがけて一目散で駆け出していった。

 その後ろ姿を見ながら、ちょっと考えてみる。

 芸能人のファンだ、ということがバレたくらいであんなに恥ずかしがるものだろうか。

 その問いかけには静かに、否定の言葉が返ってきた。



 やがて、カートを持って返ってきた先生と生肉コーナーに向かう。タイムセールは終わっていた。

 先生がおずおずと先ほどの話題から会話をつなごうとした。


「タカノさんも、コーヤ・ハルキ好きなの?」

「いいえ」


 私は即、首を横に振った。


「どちらかというと、大嫌いです」





 先生の話を続けようと思う。

 ついうっかり、という空気になるときがある。給食を食べ終えて、もうすぐ家に帰れるんだという、午後の空白の時間。気が抜けていてつい、うっかり。


「あ、おかあさん」


 理科の遺伝の授業の最中だった。

 呼ばれて、振り向いた先生は一瞬きょとんとした目を向けて、男子生徒も同じような顔を返した。

 まるでその間だけ、スローモーション処理をほどこされたような気分になった。

 約一、二秒遅れて、教室がどっと沸いた。


「おかあさん、だってー」


 びくっと、発言した男子生徒の肩が震えるのが見えた。

 普段はこんな隙を見せない優等生。今だって、授業を真面目に聞いていたからこそ手を挙げたのだ。

 ときどき、口から思ってもみない言葉が飛び出すときがある。

 自分の体と自分の気持ちの連結がうまくかみいかないような、彼もたぶん今、そんな狭間に落っこちたのだろう。

 悪いことに、我がクラスの男子のレベルは学年最下位である、が女子たちの総意であった。

 なかなか騒ぎはおさまらず、授業が理科で、先生であったことも災いした。

 静止の言葉は、教室内になかなか浸透しない。


「こいつマザコンかよ」


 その一言に、男子生徒が動揺を隠すように机に顔を伏せた。早く時間が過ぎてくれますように。祈ったのがわかった。

 私も、教室の掛け時計を見ながら思った。もう少しでチャイムが鳴る。

 秒針は今こそラストスパートをかけるべきではないだろうか。イライラとした。


「マザコンが悪いって?」


 唐突に響き渡った低い声に、どの顔も教室内を見回した。

 声の発生源を探した複数の耳が、ぺたんぺたん、と特徴的な音を拾った。スリッパの音だ。

 教卓から、ゆらりと前に出る。

 長い髪はその日も後ろで結ばれていた。けれど、一瞬背で陽炎が揺らいだように思えた。

 いつもにこにこと笑顔を絶やさない。よく言えばやさしい、悪く言えば甘い、そんな先生。

 若い教師にありがちな先生は今、どこにもいなくなっていた。


「おかあさん大好きってことでしょ。何が悪いの?」


 だれこの人? と、騒いでいた男子生徒が声に出さずに問いかけた。

 でも誰も答えてあげられない。

 よって、一人孤立した彼が救われることはない。


「何が悪いのか、はっきりおっしゃい!」


 厳しい顔つきをした先生は、マザコンとからかった生徒の前で仁王立ちをした。

 そして、最終的には、おかあさんいつもありがとう、大好きです、と、なぜかからかった生徒に対してではなく、自分の母親への懺悔をさせられていた。

 悔い改めよ、日ごろの行いを。とかなんとか。

 チャイムが鳴る。

 振り返り、教卓に戻った先生はころりといつもの先生に戻っていた。

 これで、遺伝の授業は終了します。テスト範囲まで、各自復習をしておくように。

 その日の帰りがけ、日直だった私は、日誌を職員室まで持っていくと、廊下の影で、学年主任の先生がなにやら声を荒げている場面に遭遇した。

 その前で、小さくなっていたのは、先生だった。色々な家庭事情を抱えた子がいる、それなのに一方的に責めるとはどういうことか、そんなことを言われているのが聞こえてくる。

 先生は起き上がりこぼしのように何度も何度も頭を下げていた。


 ―― 思い返してみると、どうやら、私はこのときからこの人のことが気になってしょうがないらしい。

 日々張り替えられていく指のバンソーコと一緒に。




「あの、タカノさん?」


 一通りの買い物を終えたので、レジに向かおうとしていると、袖を引っ張られた。

 振り向くと目をキラキラとさせた先生がいた。


「ちょっとお菓子買っていかない? 今日のお礼におごったげるよ」


 いえ結構です、という言葉が出てこなかったのは、そこに、お菓子売り場から走ってきた児童と同じ輝きを見たからだ。

 昔ながらの駄菓子や最新の技術のもとに作られたお菓子が一緒に並んでいる。

 三つまでね、と、先生に言われたが、いざどれでもいい、と言われるとどれにしていいのかわからなくなるのが私だった。あまり市販のお菓子は食べたことがない。

 先生も律儀に同じ制限を守るようで、少し棚を眺めたあと、ひょいひょいひょいと三つカゴに入れてしまった。

 内訳は、普段から気に入っているもの二つと、目についた新製品、だそうだ。


「タカノさんはいつも自分でごはん作ってるの?」

「はい、まあ。父が忙しい人なので」


 あと、うちは父子家庭なので、という事情も補足する。


「おとうさんと助け合ってるんだね、いいね」


 先生の言い方に含みはない。

 色々な家庭事情に配慮した上での発言というより、心からそう感じて言っているんだろうなというのが伝わってくる。得な性格だ。

 私は三つ、先生と同じお菓子を選んだ。


「先生はご実家暮らしですか」

「そうだよ、家に帰るといつもおいしいご飯ができあがってる」

「いいですね」

「うん、でも最近は自分が出迎えるほうに回るのもいいなって思うようになったの」


 先生は三月末で中学校を去ると聞いた。

 産休をとっていた先生と入れ替わりになるので、自然な流れだったが、風の噂によると、結婚退職だという。指に巻くバンソーコの増え方に信憑性も感じる。

 グルメな人は、自分で料理をすることを覚えてほうがいい、と言ったら、それ最近誰かにも言われたなぁと苦笑いをした。


「そういえば私の買い物ばっかり。タカノさんは大丈夫?」


 言われて気づく。今日は、父の帰りが遅いのだった。

 我が家の家事は、持ち回り制だ。先生の言うとおり、助け合いの精神で回っている。

 私がテスト期間中ともなれば父は毎日台所に立っていたが、それもちょっとだけ昔の話だ。

 今は仕事のほうが忙しくてすれ違いの日々が続いている。もう何日顔を合わせていないだろう。


「そうですね、私も鍋物にしようかと思いました。想像してしまったので」

「なにを?」

「白菜を大量に投入してとろとろになるまで煮込んで、大根おろしの山盛りに、ポン酢をちょっと添えて鶏団子に白菜を巻いていただく、ほんの未来の私の姿です」


 しかし、父が帰ってこない可能性もあるので鍋は危険かもしれない。

 冷静になって考えていると、ふふっと、空気がくすぐられたように動いた。

 隣で、先生が笑っている。


「おいしそー、ちょー、おいしそー」


 口にする前からすでに頬が落っこちてしまいそうなほど、とろけた表情だった。




 白菜も食べたい、と先生が言い出したので、ルートを逆に戻ることにした。

 すると、人だかりが見えた。ちょうど先ほどの生肉コーナーの前あたりだ。またタイムセールでも始まるのだろうか。

 ぴーぽんぱんぽーんと、軽やかな館内放送が入る。


「ただいまから生肉売り場、特設コーナー前におきまして、コーヤ・ハルキさんのトークショーを行います。……」


 その放送で、タイムセールに迫るスピードで一斉に客が集まりだした。

 あっという間に人に埋め尽くされて、私と先生は簡単には身動きできない状態となった。

 これは他の買い物客には迷惑じゃないかと周りを見れば、ほとんどの人が足を止めてステージを見ていた。

 司会役なのだろう、スーツを着た店主が現れると、後ろからすらりと背の高い男性がついて歩いてきた。


「コーヤ・ハルキさんです」

「こんにちは、こんばんは」


 第一声は、拍手と黄色い歓声に掻き消されて聞こえなかった。

 こっそりと横の顔を覗き見する。

 今朝、新聞にはさまっていたこのスーパーのちらしに、『コーヤ・ハルキ来店!』とあったので、てっきりこれが目当てで来たのかと思えば、そういうことではなかったらしい。先生は明らかに動揺していた。

 ステージに目を戻す。

 ステージと言っても、台があるわけではないけれど、人より頭二個分くらい高い位置に顔があるので見えないことはない。

 マスコミは来ていないらしい。

 来ていたらもっと騒動になっていたと思うが、地方の田舎の小さなスーパーの営業活動までは、追いかけてこられなかったのかもしれない。

 コーヤ・ハルキがおもに仕事をするのは東京だからそちらで機会が何度もあるのだろう。

 今回の仕事は、講演会の類は苦手だと言っていたが、昔からこの店にはよく顔を出していたので、本人にとっては恩返しの意味もこめて引き受けたのだろう。

 店主が司会になりきって、トークショーが始まった。

 おいしい野菜の選び方のような基礎的な講座から、簡単な料理の実演講座まで。

 キャベツを千切りする、たったそれだけの動作に、方々からため息が漏れた。


「それで、噂のお相手とはどんな方ですか?」


 ショーの最後には、司会ぶりが板についてきた店主が勢いよくこんな質問で切りこんだ。

 周りの関係者らしき大人たちの空気が固まるのが見えた。

 集まっていたお客さんたちも息を呑んだ。

 通常であると、料理と関係のない話題を振られると、コーヤ・ハルキは得意の微笑みを浮かべて軽く受け流してしまうが、そのときは、見知った場所に気が抜けていたのかなんなのか、するすると答えた。


「そうですね、俺がいないと何もできない人です」


 キャー、と一番前に陣取っていた女性たちから悲鳴が漏れた。

 その様子にコーヤ・ハルキは驚き、さらに笑みを深めて続けた。


「でもおいしい、と喜んでくれる笑顔が、世界で一番きれいな人だと思います」


 いい笑顔だった。

 自分の作ったご飯を誰かが喜んで食べてくれる、その食べている様子を見るのが何よりも幸せ、と言っているだけのことはあった。

 コーヤ・ハルキはショーの終わりがけになりはじめて、集まったお客さんのほうに視線を向けた。

 お礼を口にしようとして、そして、


「あれ?」


 マイクがイレギュラーな素の声を拾い上げた。

 私は、先生の手を引いてそそくさとその場を離れた。カートを先頭にして人垣を分ける。

 なんで、という声がさらに追いかけてきたような気がしたけれど、聞こえなかったことにする。

 こんな公けの電波を使うより、もっと先に言うべき人がいるんじゃないだろうか。

 私は小さく怒りを覚え、最近の、顔を合わせていない日々を数えた。

 一人の食卓とは存外さみしいものである。

 でも手をつないだ先の人を見たら、だんだんそんな気持はがとても小さいもののような気がしてきた。



「…… 先生」



 そんなに幸せそうな顔をしたら、本当に頬が落っこちてしまいますよ。

 白菜を買い逃したので、鶏団子の味噌スープ鍋白菜盛り、にはまた今度の機会に挑戦してもらうことにした。

 私は、結局何も買わなかったが、家に帰れば食材は豊富にあるので、何かしら作ることはできるから大丈夫、と先生に説明する。

 もう一度あの人ごみの中に戻りたくはない。ああいう場で笑うコーヤ・ハルキをあんまり見たくないとも言う。


 カゴとカートを返し、店を出る。

 風はまだ強くて勢いよくスカートの裾を揺らした。マフラーをきつく結びなおし、あごをうずめる。

 後ろを振り返ると、先生の髪が大変なことになっていた。くじゃくが羽を広げたみたいになっている。

 壁際に一度避難して、私はなだめるように先生の髪を撫でた。

 やわらかくて細い髪だ。自分の髪は硬くて太いので、不思議な感じがする。


「先生、ゴムは?」

「あ、ありがとう」


 手首にひっかけていたらしい、ゴムを受け取る。指に張り付いているバンソーコが目に付いた。

 バンソーコは日々位置を変えていて、新しい傷を作っているのだとわかる。炊事には向かなそうな、きれいな手だ。


「あの、タカノさん」

「タカノじゃありません」


 私は低い声で、訂正した。


「私の名前は高い野はらと書いて、コウヤと読みます」

「コーヤ、さん?」


 私と先生の一番の接点がテストで、テストの名前を書く欄にはふりがなを書く欄がないから、知らなくても仕方がないかもしれないけれど。

 私からも、問いかける。


「先生はあれですか、『何もできない人』ですか」


 髪をまとめると首筋があらわになった。そこが朱色に染まっていく。

 わかりやすい答えだった。


 先生は車で来ていたので、家まで送っていこうか、と申し出てくれたけれど、丁重に断った。

 寒風吹き荒れる中、まだ別々の道を歩いていたい気分だった。

 ちゃんと説明してもらうには順番が大切である。先生は、言いかけた言葉の色々を飲みこんで、手を振った。


「じゃあ、また明日」

「はい、じゃあまた明日、おかあさん」


 ついうっかり、ということにしておいてほしい。

 おなかがすいて、隙間があいている。

 そこに白菜をたくさん放りこんで埋めるのもいいかもしれない。とろとろになるまで煮込むのだ。おいしそう。

 三人で鍋を囲う、私はそんな様子を想像してみた。









 おしまい


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