前編
メモを拾った。
廊下の真ん中に落ちていた一枚の紙だ。
誰かの上履きの痕をアクセントにした、なんの変哲もない、小さな紙。
メモだ、と認識したのは、走り書きのような言葉が書かれていたからだ。
ラブレターだ、と認識しなかったのは、あまりにも簡潔に単語が並んでいたからだ。そして、右上がりの、ぎりぎり文字と判別できる文字。
誰かに好かれたいと思ったら、どんな人間でも自分をよく見せようと格好をつけるものじゃないだろうか。本物を見た経験はないけれど。
だから、これは誰にも見せるつもりもないものだったのだろう、と推測し、メモだ、と思った。
メモに名前らしきものはない。
この筆跡に覚えもないというか、特徴のあるものではなかった。
けれど、私はこれが誰から生まれたメモであるのか、わかってしまった。
さっき、教室のドアの前ですれ違った人物が唱えていた呪文とぴったり重なったためだ。
「長ネギ、ほうれん草、レンコン、シメジ、春雨、豆腐、鶏のひき肉……」
今夜のメニューは鍋かな。
頭の中で材料を切り刻んで、土鍋に放り込んでみた。
メモにはまだ続きがあった。
呪文ならば、すべて唱えないと効果が発揮されないものなんじゃないだろうか。
メモとは、たぶんそれを覚えられないからこそ、書かれるものではないだろうか。
もう一度、メモに目を落とす。
鍋の完成系まで想像してみるとふと、今朝、新聞に挟まっていた一枚のちらしが思い浮かんだ。
本日特売日。
特大の赤文字で書かれたのぼりが大きく揺れていた。
今日は風が強い。
歩いている間、マフラーをあごのあたりまで引き上げて、外気に晒されている面積をなるべく少なくしようと試みたけれど、どうしても隠しきれない部分があって、おでこのあたりは、若干ヒリヒリと痛み出している。
その痛みごと、感覚がなくなった頃にたどり着いた、スーパーマーケットだ。
流行の地産地消を呼び文句に、地元の農家と提携しているこのスーパーは、新鮮・安全・安さの三つを売りにしている。
何度かワイドショーで取り上げられたせいか、畑を埋め立てて造られた、広大な駐車場は今日も車でいっぱいだった。これがデフレ社会というものか、と習ったばかりの言葉を使ってみる。
自動ドアから中に入ると、ふっと空気の圧力がやわらぐのをスカートの動きで感じた。
マフラーをゆるめてあごを出す。
二枚目の自動ドアの前に立つと、センサーにお客様と認識されたらしい、ドアはすばやく左右に開いた。途端、音と白い光の洪水が押し寄せてきた。
色鮮やかな果物の山々の出迎えを受けた。
旬のものの筆頭として、棚の一番前を陣取っているのはみかんだ。みかんにキウイフルーツにバナナにパイナップル、果物の王様メロン、ブレンドされた甘い空気が胃を満たしていく。ここは年中南国みたいだ。
このスーパーの売り場は広い。
さて、どこから探したものだろうか、と見回した先に、探すこともなく見つかった。
生鮮食品コーナーの、緑色の地帯にいた。
手に細長い棒のようなものを握っている。どうやら長ネギは、覚えていられたらしい。
しかし、ここが毎日の主戦場であるほかの主婦、あるいは主夫たちの中に混じっていると、明らかに戦闘力不足が見てとれた。先ほどから野菜コーナーをぐるぐると回っては立ち止まる、を繰り返している。
カゴの中にはネギ一本。
そろそろ周りの客の目が不審なものを見つめる光を帯びてきた。
あの人がここで戦うためには、このメモが必要なのだろう。
私はすたすたと足早に近づき、声をかけた。
「先生」
先生の話をしようと思う。
先生は、私の通う中学校の臨時教諭だ。
産休に入った前の先生の代わりで、今年度の春からやってきた。担当科目は、理科。得意分野は生物と言っていた。
授業の特徴は、丁寧だ。
丁寧すぎて、他の先生が担当するクラスとの足並がそろわず、テスト期間前になると決まって、ラストスパートがかかる。当然、我がクラスの平均点は学年最下位が定位置となりつつある。
また、手先があまり器用ではないらしく、実験を行うと、三回に一回は失敗する。
最近は生徒から助手を募集して、自主性を重んじるという名目を立てた。賢い判断だと思う。
放課後は、副顧問をしている吹奏楽部で活動している。
しかし本人は音楽の心得がほとんどないらしい。去年の文化祭では、タンバリンを持たされて、演奏の舞台に参加させられていた。
よく言えば、生徒との垣根がない、悪く言えば、完璧に舐められている、若い教師にありがちなタイプの先生だ。
いつもは、長い髪を後ろで一つに束ねているのだが、今はまとめられておらず、羽のように後ろでふわりと広がっている。
遠くから見ると一目で先生だとわかったのに、近くで見ると随分と印象が違って見える。不思議な感じ。
「あ、あなた確か、ええと」
最初から、先生の記憶力に多大な期待はしていなかった。だからこそ、このメモを拾ってきたのだ。
胸ポケットにしまっておいたそれを引き出そうとして、先生が目を爪楊枝のように細めているのに気づいた。
「先生、目が悪いんですか」
「え、あ、そうなの。いつもはコンタクトをしてるんだけど、洗面所でさっき流してしまって」
知らなかった。と思ったが、そういえば眼鏡をしていることもあったような気がする。
近視だろうか。つらつらと考えていると、ちょっとごめんね、と、断って、先生の手が両肩に置かれた。
続けて、髪の形を押しつぶしてしまわないようにやさしく輪郭をなぞり始めた。
頭の頂上までたどりつくと、今度は下りてきて頬に触れる。冷たい、と軽く悲鳴を上げられ、ぷにぷにと揉まれる。
その間、突然の事態に対処ができずに私は固まっていた。
頬の肉がほどよくほぐれた頃、離れていった手と手が、目の前で、ぽんと合わさる。
「タカノさん?」
「……、はい」
正解のボタンでも押してあげなければいけなかっただろうか。
と、後悔するくらい、先生は満足そうな笑みを浮かべた。
「偶然ね、お買い物?」
「はい、夕飯の買い出しに」
「おうちのお手伝い? えらいね」
「いえ、ついでがあったので」
奇妙な言い回しになったが、先生は気にしたふうもなく、そう、と納得した。
いつのまにか、きちんと先生の顔になっている。
ここに教卓はないけれど、間に引かれている線が見えた。
ここはスーパーマーケットで、学校の教室ではないけれど、先生は先生で、私は生徒だった。
「ついでって?」
これまでの人生において、先生と私の接点を振り返ると、授業中に当てられたことがあるかどうか、くらいなのだった。直接的なものとなると、あとはテストの答案用紙が一番近づいたことになるだろうか。
こういう場合、先生と私は知り合いのくくりに入れていいものだろうか。難しい問題だ。
先生も一瞬答えに迷ったように見えた。
このまま会話を続けようか、さよならをしようか。
「先生」
「はい?」
「次は、ほうれん草です」
おなかの前で抱えていた買い物カゴごと押しやって、先生を後ろに数歩下がらせると、ちょうどほうれん草のコーナーの前にきた。
先生の手が自動的に一番上にあるほうれん草をつかもうとしたので、思わず制して、代わりのものをカゴに放りこんだ。
「根っこが赤いもののほうが甘くておいしい、そうです」
「…… ありがとう」
先生が目を丸くして、まじまじとほうれん草の根っこを見比べた。
つい、余計なことを言ってしまったことを悟った。
教師が生徒にものを教わっても面白くないだろう。
黙ってしまった先生の横で少し居心地の悪い思いを味わった。先生の指先が葉っぱを触っている。
「確かに葉脈が左右均等できれい。きちんと成長している証ね」
しばらくすると、理科の教師みたいなことを先生は口にした。