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ライオンハート

作者: かちゃ

 ライオンの着ぐるみが、エスカレーターに乗って、ゆっくりと上がっていく。


その着ぐるみは、肩をがっくりと落として、恥ずかしそうにうつむいている。

 

ライオンのプライドはひどく傷ついていた。


そして心の中でつぶやいていた。


 ――今日は、本当は休みのはずだったのに


 ――こんな天気のいい日に、どうして着ぐるみなんて被らなきゃいけないんだろう


 ライオンの心は、着ぐるみの中の世界にじっと閉じこもって、エスカレーターに流されていく自分の足元だけを見つめていた。


ライオンの手は、色とりどりの風船を握っている。


瞳がくるんと丸くて愛嬌のあるライオンの顔。 ふわふわと浮かぶ風船。


その楽しげな外見は小さな子どもたちの注目を集めていた。


けれども、肝心のライオン自身がそのことに気づいていなかった。





 夏休みは始まったばかりで、スーパーの建物の中にまで真夏の光のような明るさが溢れていた。


ラインストーンをあしらったTシャツを着て、女の子たちが楽しげに談笑している。


店内BGMにあわせて、親子連れが流行のポップスを口ずさんでいる。

 

エスカレーターの脇には特設舞台が置かれていて、午後から開かれるキャラクターショーの告知板にスポットライトが当たっていた。


「ご来店いただきまして誠にありがとうございます。本日、日曜日はポイント5倍の感謝デーです」


 弾んだ口調で、アナウンスが流れる。


着ぐるみライオンの横をすり抜けて、ミニスカートを履いた若い女性がエスカレーターを駆け上がっていった。


着ぐるみの中の視線もそれにつられるように跳ね上がったかと思うと、舌なめずりをせんばかりにきれいな脚のラインを追いかけた。


女性のあとに続いて、小学生の男の子が二人、ふざけて身体をぶつけ合いながらエスカレーターを駆け上がる。

 

その途中で男の子の身体がぐらりと揺れて、ライオンの腕にぶつかった。

 

ライオンの手に握られていた風船は、パッと宙に舞い上がった。


「あ、風船」


 誰かが叫んだ。

 

その声を聞いてライオンは自分の役割を思い出した。


小さな子どもたちに愛嬌を振りまいて、風船を配らなくてはいけない。


でもライオンが顔を上げたそのときには、風船はもう手の届かないところまで舞い上がっていた。

 

ライオンの腕は、空しく宙を掻く。


ライオンは焦っていた。こんな小さな失敗で、仕事がもらえそうなチャンスを失いたくはないと必死だった。

 

上をばかり見ていたライオンには、自分の足元がまったく見えていなかった。


その足元にエスカレーターの終点が迫っていた。


段差につまずいたライオンは、獲物に飛びかかるような体勢で宙を舞った。


床に激しくぶつかった衝撃で、着ぐるみの頭がもげて、ゆっくりと床に転がった。


着ぐるみの頭がもげたあとには、色白で人のよさそうな青年の顔が覗いた。





「お兄さん、大丈夫かい?」


 年配の男性が駆け寄ってきて青年に声をかけた。

 

男性が着ているエンジ色のブレザーの胸には、スーパーの店名が縫い取りされ、“店長”と書かれた名札がついている。


「はい。何とか」


 青年は、“店長”の名札を見ると慌てて飛び上がり、愛嬌のある笑顔を作った。


「そりゃよかった。でもね。店内でこれ脱いでもらっちゃ困るよ」


 店長は、床に転がっていた着ぐるみの頭を拾った。





「営業さん、名前なんていったっけね?」


 店長は、従業員食堂のテーブルに着ぐるみライオンの頭を置いた。


昼食にはまだ早い時間だった。


誰も座っていないパイプ椅子と長テーブルの上に、窓から差し込んだ光がゆらゆらと揺れている。


「求人広告のワーカーズ、榊原です」


 青年はいつもの習慣で名刺を取り出そうと、とっさにスーツのポケットを探りかけた。

 

しかしその手触りで、自分が身につけているものが着ぐるみだったと気づく。


「すいません。今、名刺が手元になくて」


「いや、よろしいよ。確か前に一度もらってた……かね?」


「はい。何度か」


 店長が尋ねると、青年はうなずいた。


青年は何度も営業に通うことを心がけていた。


すぐに契約につながらなくても、まずは自分の顔を覚えてもらう。その次に会社名、それから自分の名前を覚えてもらう。

 

そうやって青年がこつこつと種を撒いていると、たまに大きな花が咲くこともあった。


青年はいつもそうしているように、午前中に営業先へちょっと顔だけ出して、午後は休みを取るつもりでいた。

 

なのに、今日はそううまくはいかなかった。


このスーパーに来たとたん、バイトの学生が急に来られなくなったからと拝み倒されて、ライオンの着ぐるみをすっぽりと被せられた。


こんなことがなければ、青年は今頃スポーツクラブのプールで、イルカの気分を味わっていたのに。


「ええと、どこにしまったかな。さかきばら、榊原……と」


 店長が名刺ホルダーを何回繰っても、青年の名前は見つからない。


青年は悟った。

 

このスーパーに足しげく営業に通っていたのに、その自分の努力はまったく気にも留められていなかったのだ。


「あの、やっぱり今お渡ししますよ」


 青年は更衣室まで名刺を取りに戻ろうとした。


「まあ、いいから。そこに座んなさい」


 店長は青年を呼び止めた。


「はい。すいません」


 青年は、そこにあったパイプ椅子に座って休ませてもらうことにした。


「お兄さん、大阪から来た人?」


「うん。まあ、そうですね」


「やっぱり。大阪の人はイントネーションが独特だから」


 青年が関西の大学を出て東京に住むようになってから、こんな会話が何度となく繰り返されてきた。


東京に来たばかりの頃には、青年が何気なく話すだけで、異星人が降りてきたように冷たい空気が漂ったものだった。


 ――大阪の人って協調性ないよね

 

 などと、面と向かって言う人まであった。


青年は心して東京風のイントネーションで話すようにした。


けれど、身体に染み付いた関西弁のイントネーションは、無意識に口をついて出てしまっていた。


「これだね。あったよ」


 店長は胸ポケットから老眼鏡を取り出した。


「さか、きばら……何と読むの?」


「拓人、です。音楽の指揮棒の“タクト”」


 青年の名前は拓人というのだ。


「あ、そう。来月あたり、求人広告をお願いできると思うからね」


 店長はそっけない口調で言った。


拓人はその言葉を聞くやいなや、はじかれたように椅子から立ち上がり、店長に向かって大きく頭を下げた。


「ありがとうございます! 何かあればいつでも言ってくださいよ」


 拓人は、“来月あたり”に取れそうな契約をより大きく育てるため、もう一押し、自分のやる気をアピールしようとしていた。


「まあ……今はとりあえず、茶でも飲んで一服すりゃいいよ」


 店長は、拓人の過剰すぎる勢いに少しとまどっているようだった。


そして冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出して、拓人に勧めた。


「どうもすいません。ちょうど喉が渇いてて」


 着ぐるみの中で拓人の手は汗だくになっていて、蓋を開けるのに少し手間取った。


よく冷えたお茶はすっと溶けるように拓人の身体に染み渡った。


その冷たさが心の中にまで沁みていったかのように、拓人の気持ちはゆっくりとくつろいでいった。


「お兄さんは、こういうの着るの初めてかい?」


 店長は気持ちよさそうにお茶を飲み干す拓人を眺めて、自分もどっかりとパイプ椅子に腰を下ろした。


「着ぐるみですか? ええ、そうですね」


 拓人は言って、額に噴き出す汗を拭った。


「どうやって動いたらいいか、いまいち分からないもんだろ?」


「難しいですよね」


「ちょっと練習してみるかい?」


 店長はライオンの頭を抱え上げ、拓人に差し出した。


「え? 今ですか? あ、はい」


 拓人は少し戸惑ったものの、素直にペットボトルを置いて、再びすっぽりとライオンの頭をかぶった。


「そうそう、お兄さん、似合うね」


 店長は気分が乗ってきた様子だ。


「ははは。そうですか?」


 拓人は調子を合わせた。


「じゃあとりあえず、笑ってみようか」


 店長が冗談っぽい口調で言った。


「わははははは」


 拓人は店長の冗談に応えなければと思って、着ぐるみの頭をかぶったまま、大声を出して笑ってみた。


「お兄さん、着ぐるみが声なんか出しちゃダメだよ」


 拓人の思惑とは逆に、店長は急に真面目な声で怒り出した。


拓人はどうして自分が叱られたのか分からなくなって、とまどってしまった。


上京して6年になるけれど、拓人はいまだに東京の会話のテンポにはうまく乗っていけない。


キャッチボールみたいに、いつまでも冗談を投げあって楽しむ関西風の会話の手ごたえがときどき無性に懐かしくなる。


「そうですよね……でも、声を出さずに笑うなんて、どうすればいいんですか?」


 拓人は困って問い返した。


「そりゃお兄さん、着ぐるみは身体で笑うんだよ」


「身体でですか?」


「そう。着ぐるみが笑ってるように見せるには……両手をパーにして、その手をそのままグッと上げて! あごの横まで持ってくる! そう!」


 店長に言われるままに拓人は訳も分からず動いてみる。


拓人には、自分が外からどう見えているのかまったく見当もつかないようだ。


「こんな風に動くだけで、笑顔に見えるんですか?」


「お兄さんのは何だかぎこちないね。作り笑いみたいだけど、まあいいや。合格にしといてやるよ」


 店長はそう言って苦笑いをした。



* 



 深夜のコンビニで、拓人は缶ビールに手を伸ばした。


このごろTVでさかんにCMをしている黄金色の高級感あふれるパッケージ。


それはいつも、冷蔵ケースの中で拓人の目線よりもずっと高いところに並べられていた。


いつか自分を褒めてやりたくなるような仕事を成し遂げたときに飲んでみようと思っていた憧れのビールだった。



 ――100万円を超えるような大きな広告の契約が取れたら

 

 ――全国の社員の中で営業成績のトップを取れたら


 

 

 拓人が今、手にしているのは、これまでに思い描いていたようなスケールの大きな達成ではなかった。


けれど、拓人は今日を乗り切った自分に乾杯をささげてやりたい気分だった。


少し腕を上げるだけで、全身の筋肉が締め上げられたように引きつった。


思わずその場で悲鳴を上げたくなるぐらいだった。


でも、その痛さが心地よかった。


痛さが気持ちいいなんて感じるのは初めての経験だった。


今日は一日中、ライオンの着ぐるみをまとって、ここ何年も経験したことがないくらいたっぷりの汗を流した。


見よう見まねでやってみた、たどたどしい着ぐるみライオンの“笑顔”に、たくさんの子どもたちがその何十倍もキラキラした笑顔を投げ返してきた。


子どもたちの喜ぶ顔と歓声にすっかり心を踊らされた。


拓人の心は完全に我を忘れて、愛嬌たっぷりの着ぐるみライオンになりきっていたのだ。


 

 

 拓人が着ているスーツのポケットには、店長から受け取った1万円が入っていた。


 ――こんなにたくさんのお金をいただく訳にはいかないです

 

 拓人はそう言って遠慮したのだ。


けれども店長は、拓人に封筒を押しつけるようにしてこう言った。

 

 ――どれくらい頑張ったかを決めるのは、あんた自身じゃなくて周りの人間なのかもしれないよ

 



 

 久しぶりのビールの酔いは、拓人をふんわりと柔らかく包み込んだ。

 

身体の中から、疲労感が気持ちよく抜けていく。


 ――こんな旨さを、最後に味わったのは、いつだっただろう


 拓人は自分の部屋で、TVを眺めながらぼんやりとそんなことを思った。



 

 それは、拓人がこの仕事を始めたときのことだった。


今の会社へ転職したときに、歓迎会で飲んだビールは本当に美味しかったのだ。

 

この会社で踏ん張れば、代わり映えのしない景色がシュワッと消えるかもしれないと期待がふくらんだのは、もう3年も前のことだ。


今は自分よりも3年早く入った先輩と肩を並べて、営業のテクニックを競い合う日々。

 

成績に応じた収入の差はあっても、やっている仕事は大して変わらない。

 

この春に入ってきた新人も、拓人と同じ中途採用だった。

 

みんな同じことを考えて、会社をあちこちと渡り歩いて、居心地が悪いとボヤきながら寝返りを打ってばかりいるんだと拓人は思った。


そして、この変化のない日常がいつまでも続くのだろうと諦めを感じ始めていたところだったのだ。



 

 目の前のテーブルの上に、食べかけの菓子パンが投げ出されていた。


なにげなく手にとって匂いをかぐと、傷みかけているような酸っぱい匂いがした。

 

今朝はギリギリの時間まで起きられなくて、あやうく遅刻しそうになった。


だから手近にあったその菓子パンを半分だけかじって、慌てて家を飛び出したのだ。

  

拓人はその腐りかけの菓子パンをゴミ箱へ放り込んだ。


ふと足もとを見ると、掛け布団まで今朝飛び起きた状態のまま、跳ね上げられて固まっていた。


マンガ雑誌も読みかけで広がったまま踏み潰されて、ぐしゃぐしゃに折り目がついている。


靴下も小さくクシャクシャと丸まって、部屋の入り口と風呂場の手前で、左右バラバラになって床に転がっていた。


風呂場の前に転がっていた片方には、緑のカビまで生えていた。


拓人の口もとから、思わず笑いがこぼれた。


自分の暮らしぶりのだらしなさに自分で呆れてしまったのだ。


昨日までは部屋の汚さなんて気にも留めていなかったのに。





「まいど! お世話になってます」


 その次の日から、拓人は営業先を回るときに元気な関西弁で挨拶をするように心がけた。


最初はその挨拶を聞いただけで目を丸くする人も多かった。


東京の人にとって関西の言葉は、TVでしか聞いたことのないような奇妙なものに聞こえたのだろう。


けれどひと月もしないうちに、拓人はどこの会社に行ってもこう言って迎えてもらえるようになった。


 ――いつもの関西弁の人だね


 おかげでいつまで経っても、拓人は自分の名前を覚えてもらえなかった。


それでも拓人の顔を見ると、たくさんの人が「まいど!」と声をかけてきた。


そう声をかけられるたびに、拓人は、自分が頑張ったご褒美を与えてもらったような気がした。


 

 ――あと100回営業の挨拶回りをして、「まいど!」と声をかけられるようになったら



 拓人はまた憧れのビールを飲んでみようと思っている。

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