scene4
八つ当たりのような呟きだ。
「忘れたいと思ったから、せっかく忘れられたのに、思い出してどうするんだよ。けっきょく同じことだろ。思い出しても辛いだけなら、自分の得になることなんて何にもないだろ」
「それは間違いです。辛いことなら、心に留めておかなくてはならないのです。また同じような出来事に遭遇したとき、同じように傷付いてしまうのですから。その度にあなたは都合の悪いことを記憶から消し去ってしまうのですか?」
「うるさいよ! みんながみんなそんなふうに過ごしてると思うなよ! 誰だって目を逸らして知らんぷりしてることぐらいあるんだ! それでもちゃんと生きてるんだから、思い出さないで済むことならいちいち掘り起こすことないだろ!」
ムキになって抗弁した。
それは、どう見ても過剰な反応だ。
けれど、彼女の言うことは、精神の基盤を揺るがすものだった。
成立した一個の人格を、否定するものだった。
「あなたのためにやっていることではないのです」
なんら変わらぬ表情で、夢見は冷たく言い放った。
「今は道徳の時間でも、倫理の時間でもないのです。ここはあなたの夢の中でも、私が作った世界なのです。ここからいずれ抜け出したいなら……」
「脅迫かよ。探さなくちゃ出してくれないってのか」
「この世界に引き篭もり続けていても、時は変わらず流れていくのです。そのあいだ、あなたはずっと眠り呆けているのです。心配する家族がいるのではないですか? 獏に記憶を食い尽くされれば、あなたは死んでしまうのですよ?」
「それは、あんたが閉じ込めておくからだろ!」
認めたくなかったのだ。
自分のせいでこうなったことに。
「人のせいにしないで欲しいのです。今のあなたは、まるで子供です」
「うるさい!」
耐えられず、駆け出していた。
夢見を追い越して、一心不乱に道を走った。
いくつも電柱が視界をかすめ、地を蹴る重さが脚に響いた。振り返りもせず、ろくに前を見ようともせず、息が切れて脇腹が痛くなっても、足をくじいて転びそうになっても、まるでそこに留まることが許しがたい暴挙のように、わけもわからず走り続けた。
夢の中なのに、どうして思い通りにならないのだろう。
どうして、嫌なことばかり起こるのだろう。
どこに逃げればいいのだろう。
閉じられた世界の中で、二ノ宮は途方に暮れた。
目的も持たない足が行き着く先に選んだ場所は、自分の通う学校だった。
校門の前でしばらく呆ける。桜の並木が縁取る道の先に、見慣れた校舎が居座っている。沈み込むには陽気の過ぎる日、相も変わらず今日も元気に自分の日常はそこにあった。
この学校で、一年と三ヶ月近く過ごしている。
そろそろ衣替えの季節だというのに、校則は学ランの着用を義務付け、中途半端な暑さにうだる登校中の生徒に向けて体育教師が目を光らせて、その融通の利かなさに多くの不評を買っている。生徒会の挨拶をうるさげにやり過ごしたあと、一時間目はなんだったかなと回りの悪い頭を動かし、クラスの誰かと談笑しながらHRまで過ごすのが一般生徒の朝の習わしだ。例に漏れず二ノ宮もそのクチだった。平日の今日も本当だったらそうして過ごすはずだった。
誰もいない校庭。お馴染みな野球部の朝練風景も見渡す限り存在しない。そこには寂しさとは違う、ただ場違いな感覚がある。創立記念日の日に学校に来てしまったとか、たまたまどこの部活も試合に出払って居ないか休みか、破滅的なまでに遅刻して、どこも体育の授業がなくて、こそこそ校庭の隅を歩いて昇降口に向かう途中か、そのくらいの、通常あり得てはならない居心地の悪さだ。
来た道を振り返って、誰も居ないかを確認。
少しやりたいことができたのだ。
校門を抜けて駐輪場を通り過ぎコンクリートの階段を昇った。体育館に沿って歩いて一段低く見積もられた校庭を仰ぎ見ながら、いつの世も不良生徒に踏みにじられる花壇を飛び越え、砂利を踏み散らし昇降口に飛び込んだ。下駄箱に自分の靴を探す。上履きを引っ張り出してスニーカーと履き替えた。
それはいつもの作業だった。
いつもの作業であるからには、これからの活動も「いつも」に遵守しなければならない。
昇降口を出て、すぐ前の階段を昇った。二年生の教室は二回にあるのですぐ近くだ。踊り場を折り返し、二段飛ばしで階段を上り、手洗い場を後にしてふたつ先の教室に後ろの出入口から入った。
教壇の上に教卓あって、その先には湾曲した長い黒板がある。日直の欄には誰の名前も書き込まれていない。カーテンが端まで開き切っていて、窓は全開きだ。折り目正しく人数分の机が整列されており、不真面目な掃除ロッカーが立て付けの悪さを理由に今も扉を半開きにさせている。
二ノ宮は窓際の後ろから二番目の、自分の席に腰掛けた。
思い出す。
確か今日は六月二十二日。木曜日。だから昨日は二十一日の水曜日だったはず。
誰もが嫌がるブラックマンデーを乗り切って、そこはかとなく空虚な火曜をやり過ごし、やる気の出てくる水曜日の朝、遅刻するかしないかギリギリに滑り込み、こんなふうに席に座って安堵の息をついていた気がする。昨日のことだが判然としないのは、遅刻までのレッドゾーンを綱渡りし続けるのが二ノ宮の習慣だからで、さして重要ではないと思う。
その日は担任の来るまでが遅かった。朝礼が長引いたとかどうでもいい理由だった。そのあいだ隣の席の大河内と今度出るカードゲームの内容はこんなだったらいいなあ、とか妄想語りをしていた気がする。大河内は趣味のために新聞配達しているくらいで、そのひたむきさに汚染された二ノ宮は、月明けの期末テストで成績アップと引き換えに小遣い増量取引を目論んでいたところだ。
ここまでも大丈夫だった。
差し障りの無いHRが終わって、教室のすぐ前に待機していた数学教師中野が、丸い腹を懸命に逸らし担任と入れ替わった。HRから一時間目が始まるまでの、ほんのささやかな安らぎを踏みにじられたことへ教室の誰もが腹を立てるが、内心で悪態をつくのみに留めるのがこのクラスの取り柄である。
オーバーペース、オーバーウェイトの異名を取る中野の授業は不評だ。黒板の式を消すまでがめちゃくちゃ早いので、大半の生徒は彼の方針に諦めの一手を打っており、前の席と五目並べをしていたり、パラパラ漫画を描いていたり、ルーズリーフで鶴を折ったりしている。二ノ宮はといえば成績が惜しく、黒板の進行は構わずにマイペースで教科書を解き進めていた。
それでも、クラスにひとりやふたりくらいドが付くほど真面目で頭の良い奴はいるのだ。
ノートを取る速さなんか腱鞘炎を起こしかねないほどだし、それでいて雑ではないし、ガリ勉でもなく人当たりも良く、何か隠れてズルしてないかと疑ってしまうような奴が。
そんなクラスの人気者を、少しの嫉妬と、少しの羨望と、少しの劣等感をもって、二ノ宮は輪の外から眺めていた気がする。
名前は思い出せなかった。
顔の輪郭も曖昧。
それでもいいと、今の自分には思える。人間、自分に関わりの薄いことは記憶に留めないものだ。それは、覚えていても仕方の無いことだからだ。気に留めていても支障の無いことだからだ。だから今ここに二ノ宮太助は成立しているのだ。それでもいいじゃないかと思う。もし獏が記憶を食らっていたとしても、それ以上忘れさせなければ、記憶は戻らないままでもいいと思える。
机の上で、日記を開いてみた。
六月二十一日──空白。
疲れていようが、眠たかろうが、風邪をひこうが寝る前には気力と根性で一日の記録をつけることにしている自分には、あってはならないはずのものだ。
大雑把に読み返していく。空白はあちこちにある。だいたいの平日は学校であった出来事や帰りにどこへ寄り道したとか借りた漫画が面白かったとか、友達とどこそこで遊んだとか、他愛ない事柄で埋められている。変化に乏しく退屈な、それでも平和な自分の時間。
休日には、ほとんど何も書いていない。
そこには、今の自分を脅かす何者かの存在があったはずだ。
日記を閉じて席を立った。
この際だから、自分がいつも過ごしている世界の中で冒険してみようと思った。教室を出て、斜め向かいの配給室にお邪魔する。小学校のときは給食を作る厨房が学校にあったけれど、中学となると配達になった。他の学校はどうか知らないが二ノ宮が通うところはその手合いだ。一階に運ばれた給食は、搬送エレベーターを通って上の階まで配られて、四時間目のあいだにいつのまにか仕分けられている。当番になって、この小部屋から給食を運び出すとき、いつもうずうずしていた。一度あのエレベーターに乗ってみたかったのだ。
自分の腰の高さまでもない、上下に開く銀色の扉を見据え、二ノ宮はえいやボタンを押した。
動かなかった。
待てど暮らせど、扉は開いてくれなかった。
途端につまらなくなって配給室を後にした。いいのだ。このくらい、なんてことない。まだまだやりたいことはたくさんある。一度も使ったことが無い特別教室や、職員室や、校長室。いつもここにいるくせに、見たことの無い場所。校庭の体育倉庫や、出入り禁止の屋上や、生徒会室に放送室、宿泊室や給湯室や図書室奥の秘密の小部屋や──
どれも、開いてくれなかった。
家の前のアパートを思い出す。がらんどうの張りぼての家。
何度か入れてもらったはずなのに、その中には何も無かった。記憶の中にある部屋も、形がぼやけてよく思い出せない。
これは私が、あなたの記憶から作り出した夢の世界──
知らない場所は作りようがなかったのだろう。
曖昧な部分は切り捨ててしまったのだろう
ここは、記憶の中にしかない世界だ。
どう足掻こうが、閉じられた世界のままなのだ。