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Dig me Dream  作者: 地藤零一
2/7

scene2

 もっと近づいて、見た。

 そこにあるものが理解できない。

 壁の抜け落ちたアパートには、まったく中身が無かったからだ。

 がらんどう。張りぼてだ。

 くぐって、中に入ってみる。

 屋根さえない。二階分の立て板が四方に組まれているだけで、まるで映画のセットのように古アパートに見せかけた板がそびえ立っているだけなのだ。

 呆然と空を見上げる。

「なんだ……これ?」

 まだ二ノ宮は正気でいられた。

「どういうことコレ?」

「言ったはずです。これは夢なのです。あなたの見てきた世界に、夢の中で私が形を与えた作り物なのです。だからあなたが見てきた以外のものは作れないし、あなた以外の人物を登場させることもできない。ここで独立した意思をもって行動できるのは、夢の中に放り込まれたあなたと、夢の世界を形作った私だけなのです」

「なんで、そんなこと」

「あなたが夢を忘れてしまったからなのですよ」

 詩のように口ずさんで、彼女は横を通り過ぎていった。アパートの張りぼてに沿って内周を歩いていく。現実感の無い風景など想像の中の感覚でしかなく、いま目に見えている光景や、匂いや、風の感触、遠くで響く音が、二ノ宮の立ち位置を見失わせてはくれなかった。

 彼女は内壁の角で立ち止まって、その場にしゃがみ込んだ。

 足元には、獏がいた。

 獏。

 獏と、言ったら、四足歩行の哺乳類、ウマ目バク科の獏だった。しかも白黒の、絶滅危惧種のマレーバク。子犬程度の大きさで、見下ろされているのも気にせずむしゃむしゃ何かを頬張っている。

 読めてきた。

 これは夢だ。

 何かを先に言われる前に張りぼてから離脱した。駐車スペースを突っ切って、自宅に駆け込み部屋に戻るや否や毛布を被って目をつむる。夢なのだろうから、また寝て起きればきっとなんとかなるはずである。羊を数えてみようじゃないか。毛刈り前のもこもこなのが想像上の柵を跳び越え一匹また一匹と草原から逃げていった。牧場主は大変だろう。逃げ出したのをかき集め連れて帰らなければならないし、こんなにも集団で柵を越えられたのだから、もっと高い柵を立てねばならないし、牧羊犬は大忙しで、よくよく見れば目が恐いから、悪魔に喩えられるのも無理からず、あ、いま羊に混じって獏が──

 ゆさゆさ揺さぶられた。

「起きてください。いい加減にするのです」

「……うるさい。僕はもう寝るって決めたんだ」

「なら私は、あなたを起こすと決めました」

 ゆさゆさゆさ──

 ひたすらにこれは夢だと思い込んだ。

 二ノ宮はただ眠りに落ちることを至上の目的として、心頭滅却に勤しんだ。瞼の下から光を消して、布団の中にいるという意識さえも外に追いやり、暗い海の底に沈んでいくイメージを指先までに浸透させる。

 徐々に意識が切り離されて、いつしか心に静寂が訪れていた。

 やればできるものだなぁ。

「六月二〇日、晴れ/曇り『高架下の捨て犬に給食の残りをあげに行った。こいつはいつもここにいる。初めて見つけてからもうずいぶん経つから、ダンボールの犬小屋を抜け出してどこかに遊びに行ったりしているのかもしれない。僕がここに来る時間だけは覚えていて、そのときにだけ帰っていたり……。とにかく僕はこいつがここから抜け出してどこかに出かけているところを見たことがなかい。まだ仔犬でも犬なんだから散歩のひとつもしてしまうと思う。でも、野良犬は捕まえられるし、捕まったら殺されるし、ウチで犬を飼うことはできないから、早くなんとかしないといけない。父さんに相談したら放っておけって言われた。今度先生に」

「──ひとの日記読むなぁぁぁ!!」

 実際揺さぶられていなかった。毛布を蹴飛ばし必死で日記を奪い取った。ベッドの下の深くに突っ込み憤然と少女を睨む。

「現実逃避は良くないのですよ」

「何が現実だよ! 早く家に帰してくれよ!」

「あなたが夢を取り戻さない限り、あなたは夢から覚めないのです」

「意味が分からないよ……さっきからユメユメって、寝てるならいつか起きるだろ」

 少女は静かに首を振った。

「あなたは記憶の一部が欠落しているのです。そんな状態で起きたとしても、眠るたびにまた何かを忘れる。獏を頭の中で飼っているから。色の濃い記憶から真っ先に食べられてしまうのです。そのまま過ごせば、いずれ目を覚ますことさえ忘れてしまうのです」

「獏って、夢を食うあの獏のことだよね」

「そう、この獏なのです」

 目の前にずいとマレーバクを突きつけられて、二ノ宮はひっくり返った。

「家の中に持ってくるな!」

「中国で獏は人の悪夢を食べる動物として語り継がれてきたのです。東洋独特の文化ですね。空想上の獏は体が熊で鼻が象、目は犀、尾は牛、脚は馬と言われていますが、喩えのスケールがいちいち大きいのです。足して十で割るくらいが丁度良いのです」

「これはもっと小さいと思うけど」

「いちいち細かいのです。お前の心が小さいのです」

 なんでそこまで言われなくちゃいけないのだろう。二ノ宮はなんだか悲しくなってきてやる瀬無くうな垂れた。

「……で、その獏が僕の記憶を食べちゃうんだ」

「そう」

「それで、放置してるといつか僕の記憶が全部食べられちゃうんだ」

「その通りなのです」

「だから、そうならないようにキミが獏を捕まえて元に戻してくれるんだ」

「まことに重畳なのです。わかってるじゃないですか」

「アホくさ。寝言は寝ながら言ってよね」

 ベッドに戻って寝転がった。もう付き合っていられない。そんなメルヘンみたいな話は、子供の寝物語にでも聞かせてやって欲しい。

「まだ信じていないのですね。家族が何も告げず息子を一人残して家を空けるのも、電話がどこにも繋がらないのも、外に出て誰も見かけなかったのも、がらんどうのアパートも、道端にいるはずのない動物も、やけに平べったい遠くの景色も、全部見ないふりをするのですね」

「うるさい。お前が連れてきたんだろ。お前がなんとかしろよ」

「獏はこの世界のどこかに隠れて、今もあなたの記憶を貪っています。失った夢は、あなたにしか解らないのです。獏を見つけるには、あなたの協力が必要不可欠なのです」

 相変わらず平坦な声だったけれど、二ノ宮はそこに懇願するような真剣さを感じた気がして、身体だけ彼女の方に向けてやった。

「あんた……名前は?」

「私の世界に個人の名を指す概念はありません。不便であれば、便宜上〝夢見ちゃん〟とでもお呼びください」

「適当すぎる……」

 後ろから前肢を掴まれて直立させられている獏は、何が楽しいのか「かくっ、かくっ」と鬱陶しく鳴いている。黒地に白である。

「で、その獏が夢を食べるって話は解るんだけど、解るってのはそういう言い伝えがあるのを知ってるってだけなんだけど、実際僕が記憶を食べられたとして、全然そういう自覚が無いんだけどさ」

「少しは頭を使いやがれです。忘れさせられたなら、覚えてないのは当然なのです」

「なんでそんなに抑揚ないんだよ……怖いんだけど」

「例えば、あの日記です」

 怖いくらいに曇りの無い瞳で、真っ直ぐに二ノ宮を見据え、夢見は言った。

「六月十九日の記述。〝向かいのアパートのお姉さん〟とは、具体的にどれくらい前に知り合ったか覚えていますですか?」

「覚えてるよ。僕が小学校の六年生になったばっかりの頃に引っ越してきたから、三年くらい前だよ。近所の大学の……ふたつあるけど、どっちかに通ってる学生だと思う」

「朝によく顔を合わせるともありましたね。ご近所付き合いとしては、他に何かなかったのですか? 家に招かれたとか、雨の日に傘も差さずに帰宅するところを見たとか、つい思春期の情動に身を任せカーテンの隙間から望遠鏡とか」

「いやな想像するなよ! 小学生のときは何回か遊びに行ったことあるけど、さすがに今はもうないよ」

「それでも〝向かいのアパートのお姉さん〟ですか?」

 何が言いたいのだろう。

 唐突に、ぞくりときた。

「小学生くらいの子供が、そんなにも歳の離れた誰かの家に遊びに行って、ご両親は何も関心を示さなかったのですか? それ以前に、あなた自身は気にならなかったのですか? そのお姉さんとやらの名前のことは」

 そうなのだ。彼女の名前のことを知らなかったのだ。

 自分で言うのもなんだが、ただの顔見知りと言うほど淡白な付き合いではなかったと思う。世間話は尽きるほどしたし、愚痴っぽいこともたくさん聞いた。互いに名前を知らなかったからこそ気兼ねしなくていい仲だったのかもしれないが、彼女のことを異性として意識していたのは確かだし、考えれば考えるほど、名前を一度も聞かなかったことに不自然さを覚えてくる。

「あなたが、名前を知らないはずがないのです」

 夢見はゆっくり断言した。

 それはまるで、預言のように。

「この日記の記述には、本来彼女の名前が記されているはずでした。しかし、その部分を獏に食われた。だからあなたは、矛盾が生じないように記憶を自ら補完したのです」

「自らってどうやってさ。この日記には実際に〝お姉さん〟としか書いてないじゃんか」

 ベッドの下から、件の日記を引っ張り出して、該当の箇所を洗い出した。六月十九日。やっぱり「お姉さん」としか書いていない。万年筆で、自分の筆跡で、紛れもない自分の日記に。

「言ったのです。これは私が、あなたの記憶から作り出した夢の世界だと」

 獏の背中を、夢見は軽く叩いた。

 ひきつけでも起こしたようのけぞり、棒のように四肢を伸ばして、全身の毛を逆立てたかと思うと、口から──泡を吐き出した。

 それは水の中に発生するような細かの気体の群れだ。色がある。だいたいが赤と青。色つきの泡が水圧の差に苦しむように上へ上へと昇っていく。彼女がまた背中を叩くと、ごぼっ、ごぼっ、と、もがきながら獏は泡を吐き出していった。

 青の泡、赤の泡が、二ノ宮の見る前で、天井に吸い込まれていった。

 どこかで見たことがある。

 自分が海の中にいて、どんどん泡を吐き出していくイメージ。

 それは、紛れもなく、夢の中の出来事だったはず。

「世界が正しく再構成されたのです」

 日記帳に目を落とした。


『今日学校の帰りにたまたま未空さんと一緒になった』


 忘れようもない。

 越して来たその日から二ノ宮は彼女にこき使われたのだから。白いトラックが家の前に止まっていると思ったら、荷物の棚が上がったり下がったりしていたので、野次馬根性全開でトラックの後ろに回りこみ、そこで四苦八苦している彼女に出くわしたのだ。どうやら重くて降ろせないらしい。そのままぼけっと眺めていると、彼女の方が業を煮やして声をかけてきたのである。そこで初めて助けの要る状況だと気付いて慌てて手を貸し、荷台からタンスを降ろし部屋の中まで運んであげた。よし次、とあまりにも自然に言うので何のことか解らなかった。

 全部の荷物を運び終えた、確かに彼女はこういったのだ。

『あたし三田村未空! よろしく!』

 二ノ宮の人生の中で、かなり上位に食い込む印象だったという。

「思い出しましたね」

「……忘れてたのが嘘みたいだ」

 泡を最後の一滴までしぼり出された獏は、ケロリとした顔で鼻をすんすんさせている。夢見は獏を小脇に抱え、部屋の隅にあった籠の中に入れて上から鍵を掛けた。

「──これが私の仕事です。彼らはあなたと因縁の深い場所にしか現れないので、そこだと思う場所へ、あなたに案内してもらう必要があるのです」

「わかった。協力するよ」

 悩むまでもなかった。

 夢の中で、二ノ宮の奇妙な夢探しは始まった。

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