scene1
それは夢。
水の中を漂うような、希薄で、透明な夢。
水面に薄膜のような光が揺れている。
身体の周りから、たくさんの泡が立ち上っている。
赤い泡。青い泡。緑の泡。黒の泡。色んな泡を引き連れた、クラゲのような七色の泡。
ゆらゆら揺れて、水面へと昇っていく。
下を見た。何も見えない、吸い込まれるような闇がただ広がっていた。
泡は自分の身体から滲み出していた。
見渡せど果ての無い、広大なその海の中で、自分は一人きりであることを知って、どういうわけか安心する。
こんなにも静かで、穏やかなのだから。
波に任せて、いつまでもたゆたっていたい──
水面が遠くに落ちていく。
色つきの泡が抜けていく身体は、どこまでも深く沈んでいく。
「そう、これは夢です」
二ノ宮太助は目を覚ました。
二ノ宮は寝相が悪い。
寝ている間に掛け布団はベッドの外へと追いやられ、寝巻きはめくれ、腹が丸出しになっている。左に首を巡らすと、律儀に一日一回の役目を果たすタヌキ時計は、就労開始五分前でまだぐっすりと眠っているし、擦り切れるほどやり込んだテレビゲームの特典ポスターも、変わらず部屋に彩りを与えている。日に照らされた埃が、きらきらと軌跡を描いている。
いつもの朝だった。
「やっと起きましたね。まったく手間取らせないで欲しいのです」
寝ぼけていた。まだそんな声が聞こえた。二ノ宮は耳をほじほじ、体を起こし欠伸する。
「顔を洗ってくるがいいのです。そしたら目も覚めるのです」
「うるさいなぁ。母ちゃんかアンタ」
幻聴の発信源はベッドの横で正座していて、静かにこちらを眺めていた。
白のシャツに燕尾服のようなベストを着て、膝小僧の隠れるくらい長いソックスを履いていて、頭の上にキノコみたいな丸帽子を載せている。
飛び退いて壁にぶつかる。
部屋に、知らない女の子がいた。
「………………アンタだれ?」
「人間、ではありません」
「小学生かよ!」
「嘘じゃないのです。信じやがれなのです」
二ノ宮の知り合いに該当する項目が、この女の子からは見つからなかった。
まず、朝起きたらいきなり部屋に上がりこまれていた、という状況が飲み込めない。そんな親しい知り合いはいないし、酒は飲まない年だし、昨日は普通に学校から帰って、ゲームをしてテレビを見て風呂に入って寝床に着いたわけだから、二ノ宮の日常を脅かすような交流はついぞ無かったはずなのである。寝ているあいだUFOが来て攫われて記憶を書き換えられて、地球の生活に溶け込もうとする宇宙人の陰謀で、知らぬ間に侵略されて地球がやばい大ピンチ説を頭を振って追い払い、実は親戚か誰かが海外転勤、そのあいだ家で娘を預かることになった。となんとか、ありえそうでありえない妄想が頭の中を駆け抜けていった。
「あ、ああー…もしかして、銀次郎叔父さんの娘さん? ほら、ひい爺ちゃんの葬式で一度会ったよね」
「誰ですかそれは。私はまったく赤の他人なのです」
いよいよ黙る。
真っ赤な他人が、どうして部屋に?
「混乱しているようですね。顔を洗って出直すことをオススメするのです」
言われるままに部屋を出た。
一階の洗面所。ぼけっとした顔を鏡に映し、冷や水を叩きつける。
前髪からしたたる水滴。
顔を拭く。爽やかな朝だった。
──通報しよう。
玄関前までどすどす戻り、靴箱の上の電話にいちいちぜろと高速タッチ。朝起きたら不審者がいて部屋に居座ってるんです。恐怖です。早く何とかしてください、だ。もはや清々しさがあった。相手の言い分さえ聞く耳持たない。
受話器は、呼び出し音のみをそのまま五分以上続けた。
居間に入る。
いつもなら母が朝食を作っていて、父が新聞を読んでいて、婆様が茶を啜っているルーチンのはずである。休日だって変わらない。
ただその日はたまたま誰もおらず、
外で雀の鳴き声が聞こえ、
家鳴りの音が大きかっただけだ。
……息子に内緒で親子水入らずの旅行。
──熱心な睡魔のせいでまだ夢の中。
あるいは部屋の時計が狂っていて、実はもう昼でみんなお出かけ。
どれだろう。
時計も確認し、それぞれの部屋も確認し、携帯電話に誰も出ないことを確認すると、大人しく自室に戻った。そこにはやっぱり女の子がいて、テレビに向かって、悪の組織に盗まれた正義の超兵器を取り戻すため、たった一人で敵本拠地に乗り込むヒーローになっていた。
「…………何してるの?」
「ゲームですよ?」
電源をたたっ切る。
不思議そうに二ノ宮を見上げ、
「喉が渇いたのです。茶を淹て欲しいのです」
「なんでそんなに我が物顔なの! アンタ誰だよなんでここに居るんだよ説明しろっ!」
「口が悪いですね。言葉を慎むがいいのです」
「どっちが。なに、泥棒? 見つかったんだから逃げるとかしたらどうだよ」
「私をそんなふうに見るとは失礼千万なのです。罰としてあなたの日記をさりげなく通学路に置いて不特定多数に読まれては蹴られる辱めを受けさせてやるのです」
「何様? ちょっ、やめっ」
「『六月十九日、晴れ。今日学校の帰り、たまたま向かいのアパートに住んでいるお姉さんと一緒になった。家のゴミを出すときなんかによく顔を合わせる。いつもお姉さんの方から話しかけてきてくれて、かなり気さくな人だと思う。テレビの話とか、夕飯を何にするかとか、今彼氏がいないとか話していた。薄着だったので、ちょっとドキドキした』……ドキドキとか……」
「人の日記音読するなよ!」
必死で日記を取り上げた。ケツに敷いて座り込んで、真っ赤になった顔で怒鳴った。
「アンタ一体なんなんだよ!」
「私は”夢追人”ですよ」
「──は?」
「これは夢ですから」
少女は、二ノ宮の正面に正座した。
「現実世界で二ノ宮太助はまだ寝息を立てているのです。今私が話していること、あなたが体験していることは全部夢の中の出来事なのです。だから他の家族がいないし、電話がどこにも繋がらない。外に出ても、誰にも会うことはできない」
窓から差し込む日が眩しかった。
鳥の鳴き声が耳に透き通るようだった。
さっき洗面所で浴びた水は冷たかったし、尻に敷く日記の感触は跡が残りそうなほど生々しい。視界には自室の風景が何の感慨も無く溶け込んでおり、彼女の口にした日記の文は一字一句違い無く自分がしたためたものだ。
「なに、夢みたいなこと言ってるんだよ」
「夢ですから、仕方ないです」
「だーかーらー! もっとこっちの解る言葉で話してよ」
「面倒です。この説明の手間だけは省略できないから嫌なのです」
言って、手を取られた。ずいずいと引っ張られ、パジャマ姿のまま二ノ宮は庭先に引っ張り出された。朝特有の湿っぽさと、太陽の匂い、だいぶ上がり始めた朝日に首筋がちりちり焼かれる。貫くような眩しい光に目の奥がずきずきやられる。
「なん、なんだよ、いきなり引っ張ってきて」
「百聞は一見にしかないです。あなたの大好きなお姉さんが住むアパートを見てみるが良いのですよ」
いちいち引っかかるなあと思いながら、我慢して見てやった。
まったく、何ひとつ、いつもと変わりない古びたアパートが建っていた。
道路に面した駐車スペースが部屋の数だけ並んでいる。外壁にところどころヒビが入っていて、明らかに即席で済ませた白い補修の跡が哀愁を漂わせ、赤錆だらけの階段にトタン屋根が乗っかっていて、雨の日は滝壺と化すであろう雨どいの壊れたままの階段の入り口には、半年前からずっと出前のドンブリが放置されている。雨露を凌ぐ以上の命の危機を回避できないボロ屋が、今日も平和に日に干されていた。
「これが、なんなわけ」
「こっちに来るのです」
アパートの敷地の中にまで引っ張られ、物置長屋に沿って歩いて、奥の塀まで連れて行かれた。その塀を越えると民家だ。ほんの数年前に建てられた分譲住宅で、庭木がしっかりと手入れされていて、なぜか門の上の蜘蛛の巣だけはいつまでの取り払われない。
「塀とアパートのあいだを、よく見るのです」
見てみる。
人が一人肩を広げて歩ける程度の狭いスペース。各部屋分のガスボンベが整然と並べ立てられている。その隙間からは向こう側の道路が覗き、一見、どんな違和感も読み取れない。
一見以上して──
アパートの一部の壁が、ごっそり抜け落ちているのに気付いた。