↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

娘の幸せ 母の心 続編

掲載日:2026/10/25

娘の幸せ 母の心


続編 見守ることしかできない夜


母は、明日香に不妊治療のことを聞かないと決めていた。


娘には娘のペースがある。夫と二人で考え、悩みながら進んでいく時間も必要なのだ。


そう自分に言い聞かせていたが、心配は消えなかった。


娘から連絡がないと、元気にしているだろうかと考えてしまう。健康診断で肝臓の数値が高かったと聞いたときも、薬のせいなのか、体に何か起きているのかと不安になった。


けれど、詳しく尋ねることはできなかった。


明日香は今、母とは治療の話をしたくないと言っている。その気持ちを尊重したかった。


聞きたい。


でも、聞けない。


娘を思う気持ちと、娘の心を守りたいという思いの間で、母は揺れ続けた。


三年前、明日香は職場で深く傷つき、適応障害になった。自分の人生さえどうでもよくなるほど追い詰められていた娘が、少しずつ元気を取り戻していく姿を見て、母はようやく安心した。


だからこそ、今の不妊治療が心配だった。


治療がうまくいかなかったら。

体調を崩したら。

また自分を責めてしまったら。


何かしてあげたい。


けれど、何か言えば、また傷つけてしまうかもしれない。


そんな母の心を、少しだけ和らげてくれるものがあった。


明日香から届く、何気ないLINEだった。


夫と出かけたこと。

二人でおいしいものを食べたこと。

家で過ごした休日のこと。


治療の話ではない。


それでも、そこには明日香の日常があった。


母はLINEを読みながら、そっと表情を緩めた。


ああ、今日は楽しく過ごせたんだな。

旦那さんと笑っているんだな。


そう思うと、張り詰めていた心が少し軽くなった。


治療がどうなっているのかは分からない。体調がよくなったのかも分からない。


それでも、娘には娘の日常がある。


その何気ないLINEは、母にとって小さな贈り物だった。


治療のことは話せなくても、日常のことなら話せる。


二人の間には、まだつながっていられる場所がある。


けれど、不安が消えたわけではなかった。


夜になっても眠れず、目を閉じると娘のことが浮かんだ。


今、どうしているだろう。

体調はよくなっただろうか。


眠れても疲れは取れず、食事も進まない。


それでも母は、自分に言い聞かせた。


私がしっかりしなければ。

娘を支えなければ。


そう思うほど、自分の苦しさを後回しにしていた。


ある夜、母は一人で涙を流した。


娘の体のこと。

治療のこと。

これからのこと。


そして、何もできない自分のこと。


泣いてはいけないと思った。


娘が頑張っているのに。

母親の自分が弱くてどうするのだろう。


けれど、涙は止まらなかった。


そのとき、母はふと思った。


どうして、泣いてはいけないのだろう。


娘を心配している。

先の見えないことが怖い。

孫に会いたいという夢もある。

娘が傷つく姿を、もう見たくない。


それらは、どれも本当の気持ちだった。


母親だからといって、いつも強くいなければならないわけではない。


母親だって、一人の人間なのだ。


母は、声を押し殺して泣いた。


誰にも見せない涙だった。


けれど、それは弱さではなかった。


娘を愛してきた年月の中で積み重なった思いが、あふれ出しただけなのだ。


娘を支えたい気持ちと、自分自身が苦しいという気持ちは、同時にあっていい。


母は、涙が落ち着くまでその場に座っていた。


心配なままでもいい。

悲しいままでもいい。


今まで頑張ってきた自分の心を、少しくらい休ませてもいい。


そう思えたとき、母はほんの少しだけ自分を許せた。


翌朝、夫が母の様子に気づいた。


夫もまた、明日香を心配していた。三年前のことを知っているからこそ、治療でまた娘が自分を追い詰めないかと不安だった。


母は夫に、胸の内を話した。


「体調が悪いって聞くと、薬は大丈夫なのか、どこが悪いのかって考えてしまうの。でも、聞いたらまた嫌な思いをさせるかもしれないでしょう。何もしてあげられない自分がつらいの」


夫は静かに答えた。


「心配なのは、お前だけじゃないよ。俺だって明日香のことは心配だ」


そして、こう続けた。


「俺たちにできるのは、あの子が自分で歩いていけるように、そばにいることじゃないかな。何かあったときに、頼れる場所でいられたら、それでいいんだよ」


最後に、夫は言った。


「お前も、あまり無理するなよ」


その言葉で、母は気づいた。


自分にも、支えてくれる人がいる。


娘を見守るためにも、自分一人ですべてを抱えなくていいのだ。


それでも、母の中には孫に会いたいという願いがあった。


いつか娘が赤ちゃんを抱き、自分が祖母になる。そんな未来を、母も楽しみにしてきた。


娘には赤ちゃんを授かってほしい。

自分も孫に会いたい。


けれど、それ以上に、娘には幸せでいてほしかった。


治療がうまくいってほしい。


でも、うまくいかなかったとき、娘が自分の人生まで否定してしまうことだけは避けたかった。


孫に会いたいという願いを、無理に消す必要はない。


ただ、その夢を娘の幸せのすべてにしてはいけない。


娘が赤ちゃんを授かる未来もある。

夫と二人で人生を重ねていく未来もある。


今は、まだ何も決まっていない。


だから、まだ来ていない未来のために、今日の自分まで壊さなくていい。


母は、娘を心配しなくなろうとは思わなかった。


ただ、心配だからといって、すぐに何かをしなければならないわけではない。


治療のことを話したくないなら、その気持ちを尊重しよう。


娘が話したいと思ったときに、話せる場所でいよう。


そして、自分が苦しくなったときには、夫に頼ろう。


娘を支えることと、一人ですべてを背負うことは違うのだから。


母は、明日香に連絡しようかと考えた。


体調はどう?

薬は大丈夫?


聞きたいことはいくつも浮かんだ。


けれど、母はスマートフォンを置いた。


どうか、無理をしないで。

つらいときには、誰かに頼ってね。

自分を大切にしてね。


心の中でそう願い、それ以上は送らなかった。


娘を信じるということは、心配しなくなることではない。


心配しながらも、娘には自分で歩いていく力があると信じることだ。


母と娘は、今も不妊治療について話していない。


それでも、つながりが途切れたわけではなかった。


明日香から届く、夫との楽しい日常を知らせるLINE。


それは、二人の間に小さな橋が架かっていることを教えてくれた。


母は、その橋を急いで渡ろうとは思わなかった。


もっと話してほしい。

もっと頼ってほしい。


そう願う日もある。


けれど今は、娘が差し出してくれた小さなつながりを大切に受け取ればいい。


楽しい話には、一緒に笑おう。


何気ない報告には、何気なく返事をしよう。


治療のことを聞かなくても、母であることに変わりはないのだから。


母は、まだ不安を抱えている。


それでも、娘から届くLINEを、心配ばかりで受け取るのではなく、娘が今日を生きている証として喜べる自分でいたいと思った。


母は、そっと目を閉じた。


明日香も、穏やかな夜を過ごせていますように。


明日、また何気ないLINEが届くかもしれない。


夫と食べたものの話かもしれない。

二人で出かけたときの笑い話かもしれない。


母は、その知らせを楽しみに待つことにした。


娘を愛することは、すべてを背負うことではない。


見守ることは、何も感じずに耐えることでもない。


心配する日も、涙がこぼれる夜もある。


それでも、自分の心をいたわりながら、明日も娘の幸せを願っていけばいい。


母はそう思いながら、静かに夜を終えようとしていた。


了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
初めまして 不妊治療って大変ですね。 子供欲しいのは理解出来るのですが、子供がいない夫婦も たくさんいる訳で。 かなりリアルに書いているので、こういう体験をしているのかなと 思いました
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。