娘の幸せ 母の心 続編
娘の幸せ 母の心
続編 見守ることしかできない夜
母は、明日香に不妊治療のことを聞かないと決めていた。
娘には娘のペースがある。夫と二人で考え、悩みながら進んでいく時間も必要なのだ。
そう自分に言い聞かせていたが、心配は消えなかった。
娘から連絡がないと、元気にしているだろうかと考えてしまう。健康診断で肝臓の数値が高かったと聞いたときも、薬のせいなのか、体に何か起きているのかと不安になった。
けれど、詳しく尋ねることはできなかった。
明日香は今、母とは治療の話をしたくないと言っている。その気持ちを尊重したかった。
聞きたい。
でも、聞けない。
娘を思う気持ちと、娘の心を守りたいという思いの間で、母は揺れ続けた。
三年前、明日香は職場で深く傷つき、適応障害になった。自分の人生さえどうでもよくなるほど追い詰められていた娘が、少しずつ元気を取り戻していく姿を見て、母はようやく安心した。
だからこそ、今の不妊治療が心配だった。
治療がうまくいかなかったら。
体調を崩したら。
また自分を責めてしまったら。
何かしてあげたい。
けれど、何か言えば、また傷つけてしまうかもしれない。
そんな母の心を、少しだけ和らげてくれるものがあった。
明日香から届く、何気ないLINEだった。
夫と出かけたこと。
二人でおいしいものを食べたこと。
家で過ごした休日のこと。
治療の話ではない。
それでも、そこには明日香の日常があった。
母はLINEを読みながら、そっと表情を緩めた。
ああ、今日は楽しく過ごせたんだな。
旦那さんと笑っているんだな。
そう思うと、張り詰めていた心が少し軽くなった。
治療がどうなっているのかは分からない。体調がよくなったのかも分からない。
それでも、娘には娘の日常がある。
その何気ないLINEは、母にとって小さな贈り物だった。
治療のことは話せなくても、日常のことなら話せる。
二人の間には、まだつながっていられる場所がある。
けれど、不安が消えたわけではなかった。
夜になっても眠れず、目を閉じると娘のことが浮かんだ。
今、どうしているだろう。
体調はよくなっただろうか。
眠れても疲れは取れず、食事も進まない。
それでも母は、自分に言い聞かせた。
私がしっかりしなければ。
娘を支えなければ。
そう思うほど、自分の苦しさを後回しにしていた。
ある夜、母は一人で涙を流した。
娘の体のこと。
治療のこと。
これからのこと。
そして、何もできない自分のこと。
泣いてはいけないと思った。
娘が頑張っているのに。
母親の自分が弱くてどうするのだろう。
けれど、涙は止まらなかった。
そのとき、母はふと思った。
どうして、泣いてはいけないのだろう。
娘を心配している。
先の見えないことが怖い。
孫に会いたいという夢もある。
娘が傷つく姿を、もう見たくない。
それらは、どれも本当の気持ちだった。
母親だからといって、いつも強くいなければならないわけではない。
母親だって、一人の人間なのだ。
母は、声を押し殺して泣いた。
誰にも見せない涙だった。
けれど、それは弱さではなかった。
娘を愛してきた年月の中で積み重なった思いが、あふれ出しただけなのだ。
娘を支えたい気持ちと、自分自身が苦しいという気持ちは、同時にあっていい。
母は、涙が落ち着くまでその場に座っていた。
心配なままでもいい。
悲しいままでもいい。
今まで頑張ってきた自分の心を、少しくらい休ませてもいい。
そう思えたとき、母はほんの少しだけ自分を許せた。
翌朝、夫が母の様子に気づいた。
夫もまた、明日香を心配していた。三年前のことを知っているからこそ、治療でまた娘が自分を追い詰めないかと不安だった。
母は夫に、胸の内を話した。
「体調が悪いって聞くと、薬は大丈夫なのか、どこが悪いのかって考えてしまうの。でも、聞いたらまた嫌な思いをさせるかもしれないでしょう。何もしてあげられない自分がつらいの」
夫は静かに答えた。
「心配なのは、お前だけじゃないよ。俺だって明日香のことは心配だ」
そして、こう続けた。
「俺たちにできるのは、あの子が自分で歩いていけるように、そばにいることじゃないかな。何かあったときに、頼れる場所でいられたら、それでいいんだよ」
最後に、夫は言った。
「お前も、あまり無理するなよ」
その言葉で、母は気づいた。
自分にも、支えてくれる人がいる。
娘を見守るためにも、自分一人ですべてを抱えなくていいのだ。
それでも、母の中には孫に会いたいという願いがあった。
いつか娘が赤ちゃんを抱き、自分が祖母になる。そんな未来を、母も楽しみにしてきた。
娘には赤ちゃんを授かってほしい。
自分も孫に会いたい。
けれど、それ以上に、娘には幸せでいてほしかった。
治療がうまくいってほしい。
でも、うまくいかなかったとき、娘が自分の人生まで否定してしまうことだけは避けたかった。
孫に会いたいという願いを、無理に消す必要はない。
ただ、その夢を娘の幸せのすべてにしてはいけない。
娘が赤ちゃんを授かる未来もある。
夫と二人で人生を重ねていく未来もある。
今は、まだ何も決まっていない。
だから、まだ来ていない未来のために、今日の自分まで壊さなくていい。
母は、娘を心配しなくなろうとは思わなかった。
ただ、心配だからといって、すぐに何かをしなければならないわけではない。
治療のことを話したくないなら、その気持ちを尊重しよう。
娘が話したいと思ったときに、話せる場所でいよう。
そして、自分が苦しくなったときには、夫に頼ろう。
娘を支えることと、一人ですべてを背負うことは違うのだから。
母は、明日香に連絡しようかと考えた。
体調はどう?
薬は大丈夫?
聞きたいことはいくつも浮かんだ。
けれど、母はスマートフォンを置いた。
どうか、無理をしないで。
つらいときには、誰かに頼ってね。
自分を大切にしてね。
心の中でそう願い、それ以上は送らなかった。
娘を信じるということは、心配しなくなることではない。
心配しながらも、娘には自分で歩いていく力があると信じることだ。
母と娘は、今も不妊治療について話していない。
それでも、つながりが途切れたわけではなかった。
明日香から届く、夫との楽しい日常を知らせるLINE。
それは、二人の間に小さな橋が架かっていることを教えてくれた。
母は、その橋を急いで渡ろうとは思わなかった。
もっと話してほしい。
もっと頼ってほしい。
そう願う日もある。
けれど今は、娘が差し出してくれた小さなつながりを大切に受け取ればいい。
楽しい話には、一緒に笑おう。
何気ない報告には、何気なく返事をしよう。
治療のことを聞かなくても、母であることに変わりはないのだから。
母は、まだ不安を抱えている。
それでも、娘から届くLINEを、心配ばかりで受け取るのではなく、娘が今日を生きている証として喜べる自分でいたいと思った。
母は、そっと目を閉じた。
明日香も、穏やかな夜を過ごせていますように。
明日、また何気ないLINEが届くかもしれない。
夫と食べたものの話かもしれない。
二人で出かけたときの笑い話かもしれない。
母は、その知らせを楽しみに待つことにした。
娘を愛することは、すべてを背負うことではない。
見守ることは、何も感じずに耐えることでもない。
心配する日も、涙がこぼれる夜もある。
それでも、自分の心をいたわりながら、明日も娘の幸せを願っていけばいい。
母はそう思いながら、静かに夜を終えようとしていた。
了




