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塩田京右は疲れていた。
身柄を拘束した被疑者は、48時間以内に検察官へ送致しなければならない。
つまりは、この48時間の間に、被疑者の取り調べ、証拠の整理、書類の作成を行わなければならないのだ。
今回の被疑者はなかなか口の堅いやつだった。
被疑者が口を割らない分、取り調べに時間がかかり、供述調書の作成には難儀した。
そこからさらに送致書類を作成すれば、勤務時間なんかとっくに超えて、夜はすぐに明けてしまう。
塩田の勤務する三明警察署は、東京都内でも西側に位置し、日本の首都とは思えないほどの田舎にあった。
23区内にある塩田の自宅へは、電車で一時間弱。
ようやく仕事から解放されて、帰ろうとすれば、まさに通勤ラッシュと重なってしまい、のんびりと座席に座ることもできなかった。
疲れ切った脳に少しでも余白を与えると、立ったままでも寝てしまいそうだ。
塩田は、スマホに接続したイヤホンの音量を少し上げ、ニュース番組を流した。
適当に選んだニュース番組では、日本中の注目を集めた大量殺人犯に、ようやく死刑判決が下りたことが大々的に取り上げられていた。
そういえば、この事件の犯人が、公判中にテロを予告したことが一時期話題になっていたな。
ネット上では今でも騒がれているようだが、新聞やニュースでは報じられていないところを見ると、何らかの圧力が感じられて少し不気味だ。
『いよいよ始まる衆議院選挙。オメガ初の総理大臣誕生なるか!?』
事件のニュースが終わると、次は政治ニュースが始まる。
これまで、ほとんど一党独裁状態だった政党の支持率が2割まで落ち込み、反対に、オメガが代表を務める野党第一党の勢力が拡大しているのだとか。
吊革につかまって、うつらうつらしながらも、流れてくる選挙情報に耳を傾ける。
オメガの首相なんて、日本じゃなくても前例はないんじゃないか。
孕む性として虐げられてきた歴史を持つオメガが、組織のトップに立つことは珍しく、特に日本は先進諸国の中でもバースについては保守的だ。
先進諸国の要請を受けて、オメガの地位向上を目指し始めたのも、ここ数十年と、割と最近の話なのに、いきなり世界初のオメガ首相とは、躍進が過ぎるな。
日本が抑制剤先進国だからというのもあのだろうか。
いくら社会が成熟して、オメガを受け入れたとしても、三カ月に一度は発情期で一週間を潰してしまうオメガは、やはり学業や仕事において、他のバースに劣る。
世界でトップクラスの効果を持つ抑制剤の開発により、発情期の対策ができたこと、そしてその抑制剤が安価で手に入る保険制度によって、オメガの社会進出がここまで短期間で進んだのは間違いない。
眠気に負けないように思考を止めないように努めるが、瞼はどんどん重くなる。
塩田が完全に瞼を閉じ切ったときには、政治ニュースはお天気コーナーに変わっていた。
午前7時55分。
自宅の最寄り駅まであと数分のはずが、電車は急停止してしまった。
疲労と眠気で力が抜けていたせいで、かなりふらつくも、満員の電車では倒れるスペースもなく、隣の乗客に押し返されるだけだった。
急な衝撃にハッとして、塩田は隣の乗客に軽く頭を下げる。
『お客様にお知らせします。
ただいま霞が関駅で救急対応が行われているため、当列車は安全確保のため停車しております。
お急ぎのところご迷惑をおかけしますが、係員の指示があるまで社内でお待ちください』
車掌のアナウンスに車内は少しざわつく。
塩田も顔に出すことはしないが、いつ運転再開するかわからないこの状況に、心底うんざりした。
「見て!霞が関の動画上がってる!」
「え!やば」
目の前の座席に座る女子高生二人組が、一人のスマホを覗き合っている。
「これ、あれじゃない?木戸大使のテロ!」
木戸大使って、あの殺人犯か。
霞が関の動画?テロ?
気になる単語が耳に入って、眠気に負けていた意識が徐々に覚醒していく。
塩田は、流しっぱなしのニュース番組を閉じて、SNSで「霞が関」を検索した。
女子高生が話していた動画はすぐに見つかった。
それは、電車に乗っていた乗客が撮影した映像のようで、手振れがひどく、時折周りの乗客がカメラを遮ることもあり、かなり見えにくい。
動画の始まりは、すでに異変が起きた車内で、男女複数人が、息を荒げてうずくまっている。
ひどいものは自身の腕に牙を突き立てて噛みついていて、この苦しんでいる人達が全員アルファであることが察せられた。
しばらくすると、アルファたちが、一人、また一人と、我を忘れたように車両の中央へ向かって動き出す。
荒い息を吐きだす口からは牙が飛び出し、溢れるよだれを拭うこともしない。
他の乗客を、行く手を阻む的かのように攻撃して、ただただ中央にいる何かへ向かっていく様は、パニック映画のゾンビのようだ。
撮影者も押しのけられたのか、大きく揺れて倒れたところで映像が終了した。
この動画の他にも、乗り合わせた乗客の投稿は複数あり、いずれもアルファが正気を失っているとのことだった。
さらに恐ろしいのは、これが一車両、電車一本の話ではないことだ。
霞が関駅を通る丸ノ内線、日比谷線、千代田線の上下線すべての電車において、全車両で同時に起こったのだ。




