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第36話 命令ではなく基準

翌朝、詰所の壁が一枚、空いていた。

昨日まで貼られていたのは、

佐津野の手書きの注意書きだった場所だ。

「……外したんですか?」

ミーアが尋ねる。

「はい」

佐津野圭は、机の上の紙束を指で揃えた。

「代わりに、

命令を置かないことにしました」

* * *

午前。

軽い騒動が入る。

市場での口論。

被害はなし。

だが人だかりができている。

「どうします?」

若い警察官が、無意識に佐津野を見る。

佐津野は、何も言わなかった。

視線だけで、

現場の警察官を見る。

「……基準、確認します」

その一言で、場の空気が変わった。

* * *

市場。

当事者二人は声を荒げているが、

殴り合いには至っていない。

警察官は、携帯している紙を開いた。

――現場判断基準(暫定)

・危険が目前か

・第三者に被害が及ぶか

・即時介入が必要か

「……今は、

どれも該当しません」

警察官は、そう判断した。

一歩、前に出る。

「警察です」

「ここでは、

話し合いを続けられません」

「場所を移してください」

声は強くない。

だが、はっきりしていた。

* * *

騒動は、解散した。

派手さはない。

誰も拍手しない。

「……よかったんですか」

若い警察官が、詰所に戻ってから言う。

「佐津野さんなら、

もう少し踏み込んだかも」

佐津野は、首を振った。

「分かりません」

「でも――」

一枚の紙を指す。

「あなたの判断は、

基準に沿っています」

* * *

午後。

別の案件。

倉庫街での軽微な暴行。

今度は、

基準が一つ当てはまる。

・第三者被害の可能性:あり

警察官は、迷わず介入した。

拘束。

分離。

事情聴取。

「……早いな」

居合わせた市民が、呟く。

* * *

詰所。

報告書が、机に並ぶ。

同じ警察官。

同じ日。

違う判断。

ミーアが、目を丸くする。

「……矛盾してませんか」

「していません」

佐津野は、淡々と答えた。

「命令なら矛盾します」

「基準なら、

状況で変わります」

* * *

夕方。

佐津野は、若い警察官を呼び止めた。

「一つ、聞きます」

「はい」

「今日、

一番怖かったのはどこですか」

警察官は、少し考えた。

「……最初の市場です」

「なぜ?」

「誰も止めてくれないと思ったから」

佐津野は、頷いた。

「それでいいんです」

「止める人がいない状況で、

基準だけを頼る」

「それが、

組織の判断です」

* * *

夜。

詰所の壁に、

新しい紙が貼られる。

――命令は一時的

――基準は共有できる

――判断は現場にある

ミーアが、ぽつりと言う。

「……佐津野さん、

楽になりますね」

佐津野は、少しだけ笑った。

「楽ではありません」

「でも――」

帳簿を閉じる。

「私がいなくても、

同じ判断ができる」

それが、

警察組織にとって

何より重要だった。

夜風が、紙を揺らす。

命令は消え、

基準が残った。

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