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第35話 判断が遅れる理由

詰所の朝は、静かすぎた。

帳簿をめくる音。

湯気の立たない冷めた茶。

巡回に出るはずの警察官たちが、なぜか立ち止まっている。

「……どうしました?」

佐津野 圭が顔を上げると、若い警察官が視線を泳がせた。

「いえ、その……」

言い淀む声の向こうで、扉の外がざわついた。

「喧嘩だ!」 「早く来てくれ!」

倉庫街の方角。

小さな騒ぎ――のはずだった。

* * *

現場に着いた時、喧嘩はもう終わっていた。

倒れた木箱。

散らばった荷。

殴られた形跡はあるが、双方とも立っている。

「……遅かったな」

周囲の市民が、ぽつりと言った。

「警察が来るまで、

止めるしかなかった」

佐津野は、その言葉を否定しなかった。

「確認します」

そう言って、いつものように状況整理を始める。

だが――。

「さっき、どうして入らなかった?」

佐津野は若い警察官に、静かに尋ねた。

「……判断を待っていました」

「誰の?」

「……佐津野さんの」

一瞬、風の音だけが通り抜けた。

* * *

詰所に戻る道すがら、セリーナが口を開いた。

「悪くはない判断よ」

「無理に割って入らなかった」

「怪我人も出てない」

「……でも」

佐津野は歩みを止めた。

「遅れました」

セリーナは眉をひそめる。

「結果論じゃない?」

「いいえ」

佐津野は首を振る。

「理由が、結果の前にありました」

* * *

詰所。

ミーアが、報告書をまとめながら言った。

「現場対応まで、

二分遅れています」

「原因は……」

佐津野が続きを待つ。

「判断の保留です」

沈黙。

佐津野は椅子に座り、深く息を吐いた。

「……私ですね」

ミーアが、はっと顔を上げる。

「佐津野さん?」

「現場の判断が、

私に集まりすぎています」

佐津野は、壁に貼られた組織図を見た。

その中心に、自分の名前がある。

「『佐津野圭ならどうするか』」

「それを考えた時点で、

警察は止まります」

* * *

「でも……」

若い警察官が、恐る恐る言う。

「間違えたら、

どうすれば」

佐津野は、少しだけ間を置いた。

「間違えます」

即答だった。

「それでも、

判断は現場で下してください」

「正解は、

後で記録が決めます」

ミーアが、ゆっくりと頷く。

「……責任は?」

「組織です」

佐津野は、はっきり言った。

「私ではありません」

* * *

その日の夕方。

倉庫街の商人が、詰所の前で言った。

「……警察ってさ」

「佐津野さんがいないと、

動かないのか?」

佐津野は、正面から答えた。

「いいえ」

「動きます」

「今日からは」

商人は、少しだけ不安そうに笑った。

「……それ、大丈夫なのか?」

「分かりません」

佐津野は、正直に言った。

「でも、

必要です」

* * *

夜。

詰所の灯りが落ちる前、佐津野は一枚の紙を貼った。

――判断は現場で行う

――理由は記録に残す

――正解は後から決める

派手でも、強制でもない。

だが――

これまでで一番、重い掲示だった。

ミーアが小さく言う。

「……怖いですね」

「はい」

佐津野は、頷いた。

「でも」

帳簿を閉じる。

「私がいないと止まる組織は、

警察じゃありません」

窓の外で、夜風が吹く。

この日、警察は一歩前に進んだ。

佐津野から、少しだけ離れる方向へ。


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