3「拝啓、墓場より ― 名を持たぬ継承者」
拝啓。
私には、この墓に眠る誰の名も、正確には継いでいません。
戸籍上も、家系図にも、私は存在しないかもしれない。
けれど、それでもこうして筆を執ります。
なぜなら──ここが、私の“家”だからです。
貴方がこの世を去って、もう何十年も経ちました。
それでもこうして筆を取るのは、語るべき相手が、もはやここにしかいないからです。
……あるいは、ようやく語る言葉を持てるようになったのかもしれません。
今日も風が冷たく、山の稜線は霞んでいます。
昨夜の霜がまだ土に残り、鹿の足跡が墓碑の根元を横切っているのが見えます。
私はその一つ一つから、霜を手でぬぐい落としました。
そうしなければ、この場所がまだ“誰かに見守られている”と証すことはできない気がして。
この墓場は、かつてこの寒村一帯を治めていた家の私有地にあります。
貴方がその本家筋の当主であったこと、そして私がその末の末の血を引く者であること。
……もう、知る者は誰もいないでしょう。
けれど、だからこそ、ここに居るのです。
私がこの墓を守るようになったのは、あの人が──貴方の孫娘にあたる方が──私を屋敷に引き取ってくれた日からでした。
幼い頃、親に見捨てられ、誰にも引き取られなかった私に、ただ一人「ここにいなさい」と言ってくれた。
どうやって戸籍を繕ったのか、それは結局、聞けずじまいでした。
叔母にあたる人は言いました。
「守りなさい。あなたにも資格がある」
その言葉は、不思議なものでした。
血でも、名でもなく、
ただ「ここに居た」という事実だけが、私をここに留めたのです。
あれは命令ではなかった。
願いでも、祈りでもなかった。
ただ、誰にも渡せなかった言葉を、私にだけ託したのだと思います。
屋敷は、もう傾いています。
すべての柱は腐り、屋根は沈み、壁は獣の通り道になりました。
けれど、土間の香りや、囲炉裏の灰、手入れの行き届いていた床板の感触──。
私の想像の中では、まだすべてが生きています。
屋敷の一角にある小さな座敷。
かつて写真で見た、あの人が座っていた場所に、私は草履を揃えて置いています。
もう誰も使うことはありません。けれど、それでも、誰かが戻るような気がしてならないのです。
村には、もう誰もいません。
郵便は届かず、バスも来ず、地図に載っていても、そこには“誰もいない”と書かれているのと同じです。
けれどこの墓場のまわりだけ、季節の風が通ります。
風が木々を揺らし、花が咲き、獣もなぜかここには近づかない。
偶然だ、と言う人もいるでしょう。
でも私は──そうは思わない。
この墓を見つめる者は、もう私しかいません。
忘れられた一族の、忘れられた墓。
けれど、私は忘れていない。
私がここにいることそのものが、
貴方たちが確かに生きた証になると、信じています。
誰にも気づかれなくてもいい。
けれど、どこかで誰かが、この場所を思い出してくれたら──。
それだけで、報われるような気がするのです。
拝啓、墓場より。
私は今日も、生きています。
声を潜め、名を隠し、静かにこの地に息をしています。
この風がやむその日まで、どうか、どうか。
──敬具。