2「拝啓、墓場より - 静けさのなかの記憶」
風の音が、骨の奥まで染みてくる。
ここは、山の背に隠れた小さな集落だ。
地図で見れば、名もない緑のしみ。
電線も通わず、夜は月と星の明かりだけが頼りになる。
灯りが消え、声が消え、気配までもが擦り切れたような土地──それでも、この墓場だけは、風が抜ける。
墓は、杉の木立の奥にある。うちの一族が代々眠る、私有の墓所だ。
地元の古老たちは「殿様の墓」と呼んでいたらしい。
今では、その“殿様”がどこの誰だったかさえ、誰も言えない。
俺は、この家の直系でもなければ、長男でもない。
戸籍をたどれば、確かにこの土地に繋がる血は混じっているが──それだけの話だ。
それでも年に一度、この墓に足が向く。
誰に命じられたわけでもない。ただ、呼ばれている気がして。
荒れた山道を車で登る。林の隙間から、崩れかけた屋敷がちらと見える。
瓦は落ち、柱は傾き、雨を含んだ土壁は骨のように痩せている。
けれどその姿が、俺には妙にまっすぐに見える。
そこを過ぎて、奥へ。
名も読めぬ墓石が、苔に埋もれて立ち並ぶ。風の音が、何かを語るように鳴っている。
幼い頃、夏になると親戚たちが集まって、墓参りのあとは屋敷の縁側でスイカを食べていた記憶がある。
記憶の中の声は、もう誰のものか分からない。けれど、笑い声の残り香だけが、ここにはまだ染みついている気がする。
いまでは、そんな気配はない。
風に飛ばされた供花が、地面に伏して朽ちている。草は伸び放題で、線香の香りさえ遠い。
けれど──最近になって、風の向こうから別の気配が混じるようになった。
カメラを提げた若者たちが、時おり屋敷跡に立ち入っているようだ。
「ネットで見たんで……」
そう言って、崩れかけた屋敷をレンズ越しに撮っていく。
割れたガラス、沈んだ畳、剥がれた壁紙。彼らには、それが「味」らしい。
……滑稽だ。生きていたときは誰も顧みなかったくせに、朽ちてから注目される。
だが、俺には怒る資格もない。
だって、俺だって、本来は何の義理もない、遠い遠い末の者だ。
でも、不思議と怒りは湧かなかった。
むしろ、「見つけてくれて、ありがとう」と思った。
レンズ越しの屋敷は、もはや俺の知っている家ではない。
けれど、その写真の中で、かつての気配がもう一度“立ち上がっている”気がしたのだ。
「記憶」って、何だろうな。
名前や系図じゃなくて、誰かが見てくれること、触れること──。
そういうもので、かろうじて繋がっているのかもしれない。
カメラのファインダー越しでもいい。
この家が「かつて、あった」と記録されるなら──それで充分だ。
墓を建てた人の名も、もう誰も口にしない。
それでも、ただの「石ころ」にならぬよう、ここに座っている。
──拝啓、墓場より。
俺もきっと、骨になって、ここの土に混ざるだろう。
その頃には、この屋敷も墓も、跡形もなくなっているかもしれない。
だけど、その時まで──こうして風を感じ、声なき声を聴く時間を、もう少し持たせてほしい。
陽が落ちてきた。木々の間から、冷たい光が差し込んでいる。
虫が鳴きはじめた。風の音が、どこか懐かしい。
それじゃあ、また来るよ。
それまで、どうかこの静けさのなかで、眠っていてください。
──合掌。