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第8話 魅惑の香水


「どうしてかしらねぇ」


 あごに手を当てて、妖艶な表情で首を傾げている美女の名はクラリス。

 エステルを育ててくれた『お姐さん』の一人である。


 エステルは今夜、闇夜に紛れてこっそり『里帰り』しているのだ。ハンドクリームが貴婦人の間で流行らなかった、その対策を練るために。


「……まあ、理由は分かってるんだけどね」


 エステルはクラリスが手ずから入れてくれたお茶を飲みながらぼやいた。優しい香りのジャスミンティーに、少しばかり心が和らぐ。


「公爵夫人の生活が一か月も続けば、理解せざるを得なかったというか」


 ハンドクリームの販売を決めた頃には、実はまだ気づいていなかった。だが、最近になってようやく分かったことがある。


「あらあら、どういうことかしら?」


 かわいらしく首を傾げるクラリスに、エステルは自らの両手を見せた。傷一つない、白魚(しらうお)のような美しい手だ。


 この娼館で下働きをしていた頃は、いくら魔法のハンドクリームを塗っていても、これほどきれいにはならなかった。

 下働きの主な仕事は掃除と洗濯なので、ハンドクリームなど塗ったそばから冷たい水で流されてしまうからだ。

 伯爵家に戻った後も使用人を多く抱えるような余裕はなかったので、台所仕事はエステルの担当だった。そのためハンドクリームを欠かせなかったのだが……。


 公爵夫人になってガラリと生活が変わってしまった。


「……貴婦人は、水に触らないのよ」


 エステルが言うと、クラリスはきょとんと目を見開いた。彼女の言った意味が分からなかったのだろう。


「水に触れずに、どうやって生活するの?」


 もっともな疑問に、エステルはげんなりと肩を落とした。


「貴婦人は掃除も洗濯も台所仕事もしない。なんなら、手を洗うときにはメイドが湯を持ってきてくれるわ」


 この一か月、エステルは冷たい水に一切触れていないのだ。


「なるほどねぇ。つまり、貴婦人は手荒れとは無縁だから、『効果抜群のハンドクリーム』には、そもそも需要がなかったということ?」

「その通り」

「でも、メイドの間では流行っているんだから、商売としては成り立つんじゃないの?」

「だめよ。いくら使用人の間で流行たって、それじゃあ『商売の規模』は大きくならない」


 あのハンドクリームは魔法が使われているといっても、それなりに安価な値段設定がされている。

 だから、最初の商品に選んだ。

 ハンドクリームはただの『入口』で、その流行をきっかけとして、もっと高価な美容製品の顧客を手に入れることを狙っていたのだ。


 メイドの間で流行させることはできたが、そもそも彼女らは美容や嗜好品にそれほど多くの金額を使えるわけではない。

 貴婦人を顧客にできなければ、商売の規模を大きくすることはできないのだ。


「ふーん」


 クラリスはエステルの話を聞きながらも、商売の話にはそれほど興味がないようだった。


 それはそうだ。

 彼女は『幸運のルビー』という別名を持つ、花街一番の高級娼婦。


 その名の通り真っ赤なルビーのような瞳を持つ、黒い艶髪の美しい女性で、『彼女と顔を合わせるだけで一生分の幸運を使い果たすだろう』と言われている。


 このレベルになれば、ただ男の前でほほ笑んでいるだけで大金を稼ぎ出すことができるのだから。


「ねえ、そんなことよりさ」


 クラリスがテーブル越しにエステルの方に身を乗り出した。


「旦那様とは、どうなの?」


 その問いに、エステルは思わずお茶を吹き出してしまった。


「ごほっ、ごほっ!」


 口を押えてむせる彼女の様子を、クラリスがじっと見つめている。

 エステルはといえば、なんと答えたものかと内心で頭を抱えた。


(まさか、初夜以降ご無沙汰だなんて、とても言えないわ……)


「そ、それなりに上手くやってるわ」


 頬を赤く染めながら言ったエステルに、クラリスはわずかに眉を寄せた。


「本当に?」

「本当に」

「ほんとにー?」


 うろうろと視線をさまよわせてばかりで、きちんと答えないエステルに、クラリスは頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。

 エステルが肝心なことを話していないと、彼女は気づいているのだ。


 申し訳ない気持ちはある。彼女が心から心配してくれていることは、エステルにも分かっているのだ。


 四歳で娼館に売られてきた頃、エステルは辛くて、寂しくて、悲しくて、毎晩のように泣いていた。

 それまでは貴族の令嬢として蝶よ花よと大切にされていたのに、急に働きながら暮らせと言われたのだから、当たり前のことだ。

 しかも、家族と引き離されて。


(両親のことは元々嫌いだったけど)


 後から聞けば、毎晩のように兄の名を呼んで泣いていたという。


 そんな彼女を優しく慰めてくれたのが、クラリスだった。

 彼女は当時、人気がうなぎ上りに上がっているところだった。そこで女将は彼女を出し渋って価値を上げようとしていた時期で、ちょっと暇を持て余していたという事情もある。


 エステルは毎晩、クラリスの寝床に潜り込んで眠ったのだ。そして、娼婦に必要な様々な知恵や教養を教えてくれたのも彼女だった。


 クラリルはエステルにとって、母であり、姉であり、教師だったのだ。


 そんな彼女に心配をかけるわけにはいかない。

 エステルは、ニコリと満面の笑みを浮かべた。


「何も問題ないわ。公爵夫人として、最高の暮らしをさせてもらってるわよ!」


 だが、それでもクラリスは納得しない。


「じゃあ、なんで商売なんか始めるの?」


 痛いところを突かれた。彼女の言う通り、公爵夫人として順風満帆ならば商売など必要ない。


「現状で満足したくないのよ!」


 エステルは芝居がかった仕草で拳を握りしめた。


(もっと上手い言い訳を考えてくるべきだったわ……)


 後悔しても遅い。

 クラリスはジトっと半眼でエステルを睨みつけた。


 見つめあうこと数秒。

 先に折れたのはクラリスだった。


 クラリスが深いため息を吐く。


「わかった。もう聞かない」


 そして、そっとエステルの手を握った。


「でも、忘れないで。辛くなったら、いつでも帰ってきていいんだからね?」


 その優しさに、エステルの瞳の奥が熱くなった。帰るところがある、それだけで勇気が湧いてくる。


「うん」


 手を握り返した、その勢いのまま、エステルはクラリスにぎゅっと抱き着いた。


「だいすき、クラリス姐さん!」

「もう、この子ったら。いつまで経っても甘えん坊ね」


 優しく頭をなでられて、ホッと息を吐く。


 その時だった。

 ふわり。

 しっとりした、甘い香りがエステルの鼻をくすぐった。


「姐さん、香水かえた?」

「あら、よく気付いたわね?」


 クラリスが感心してほほ笑んだ。


「魔法使いさんの新しい商品『魅惑の香水』よ」

「魅惑?」

「ええ。なんでも、男の人を誘う……、あれ、なんていってたっけ? えっと……、フェ、なんとかっていうのが……」


「もしかして、フェロモン?」


「そう、フェロモン! それによく似た香りの再現に成功したんですって!」


 言いながら、クラリスは香水の瓶を取り出して見せてくれた。紫色の、いかにも、な雰囲気の香水瓶だ。

 シュッとひと吹きすると、ローズ系の香りの中に、確かに不思議な香りが混ざっている。


「魅惑の、香水……」


 エステルはハッとした。


「これだわ!」


 ハンドクリームを貴婦人にも流行させる。

 その打開策を、エステルは見つけたのだ。


 クラリスから香水を分けてもらい、エステルは再び夜の闇に紛れてこっそりと屋敷に戻った。


 そんな彼女を、公爵家の騎士が尾行……、もとい、見守っていたことを、彼女はもちろん知る由もない。




 * * *




「君、いったい何をしたんだい?」


 数週間後、恒例のお茶会のために顔を合わせたイアンは前のめりで切り出した。


 改良したエステルのハンドクリームは見事に大当たり。貴婦人たちの間で、大流行となったのだ。

 彼は、その理由に興味津々らしい。


「ちょっと特別な香りを混ぜただけよ」

「特別な香り?」

「そう。魔法使いの新商品『魅惑の香水』をね」


 エステルが改良したのは、それだけだ。

 だが、仕掛けはそれだけではなかった。


「売り文句もね、少し変えたの」

「売り文句?」

「そう」


 エステルはハンドクリームを取り出して、自分の手に塗った。そして、おもむろに立ち上がってイアンに近づく。


「ん?」


 彼が首を傾げて怪訝な表情を浮かべるのを気にもせず、エステルはさらに距離を詰めた。


「夫婦がベッドに入って、最初にすることは?」


 イアンは戸惑いながらも、頭をひねった。


「えっと……、あ、キスだ!」

「その通り」


 言いながら、エステルがイアンの頬に唇を近づける。そして、耳元で囁いた。


「その時、女の手はどうなるか分かる?」

「そりゃあ、もちろん、男の肩や顔に触れて……」


 彼の言う通り、エステルはイアンの頬にそっと触れた。滑らかな手が彼の肌をなでるのと同時に、ふわりとあの香りがイアンの鼻をくすぐる。


「どう?」


 イアンは天を仰いだ。


「……なるほど」


 彼が理解したらしいと分かって、エステルは満足げにほほ笑んでから自分の席に戻った。上を向いたままの姿勢で固まってしまったイアンのことなど気にもせず、楽しそうに菓子をつまみ始める。

 今日の焼き菓子は、レーズンがたっぷり入ったパウンドケーキだ。


「ん~、美味しい!」


 と、彼女が舌鼓を打つ頃になって、ようやくイアンが正気を取り戻してエステルに呆れた表情を向けた。


「つまり、貴婦人には『スキンケア用品』としてではなく『夜の支度品』として売った、というわけだね」

「その通り。自分の肌に触れた妻の手がすべすべで気持ちよくて、さらに魅惑の香りが漂ってきたら、男なんかイチコロよ!」


 力強く言い切ったエステルに、イアンはまた呆れた表情を浮かべた。

 確かにイチコロだ。

 イアン自身がたった今、それを体験した。


(どうして、その方法を使ってクライドを誘惑する、という方向にいかないのかな?)


 思いはしたが、イアンは口には出さなかった。

 なぜなら、そのことにエステルが気づかない方が面白いから、だ。


 そんな調子で二人は今日も庭園でのお茶会を楽しんだ。


 ところが。

 そこに、一人の人物が乱入してきた。


 ──空から。


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