第40話 本当に必要な魔法
エステルの兄、クリス・ピアソンは善良な青年だ。
両親はエステルを花街に売った金で国外に出奔し、嫡男であるクリスですら捨てて行った。
そのとき彼は、わずか十歳だった。
家も家族も失った子供の彼になすすべはなく、道で暮らすことを余儀なくされた。
両親の蛮行について噂を聞きつけた親族が探しに来てくれなければ、そのまま路頭で死んでいたかもしれない。
親族に引き取られた後もまともな生活を、というわけにはいかなかった。その親族もまた両親に金を貸しており、彼を助けたのは貸した金を回収するためだったのだ。
クリスは、朝も昼も夜も働き続けた。
夜も明けきらぬうちから家畜の世話をはじめ、畑を耕し農作物を収穫し、糞尿を肥溜めに集め、薪を割り……。
そんな生活が十年続いた頃、親族の農園が経営難に陥った。
それを救ったのが、クリスだった。
彼は持前の話術を駆使して融資を集め、取引先を開拓し、傾いていた経営を見事に復活させたのだ。
それからさらに五年。
彼は独立して自分の土地を持った。
そして、国王に願い出て、出奔した父に代わってピアソン伯爵を名乗る許可を得たのは、彼が二十五歳、エステルが十八歳の時だ。
こうして再興を果たし、クリスはエステルを迎えに来たのだった。
* * *
その兄、クリスは。
突然やって来たエステルの顔を見た途端、くしゃりと顔を歪めて泣き出してしまった。エステルをぎゅうぎゅうと抱きしめながら、わんわんと子供のように泣き声を上げて。
「生きてるぅ、よかったぁ」
どうやら、例の疫病事件のことで相当な心配をかけてしまったらしいと、エステルは内心で反省した。
だが、どんな言葉をかければいいのか分からず、されるがままになった。
実は、エステルの方は幼い頃の兄についての記憶がほとんどない。
再び伯爵家に戻ってから彼と暮らしたのも数か月間のことだったので、兄とどういう距離感で話せばいいのか分からないのだ。
公爵家に嫁いでからもどれくらいの頻度で手紙を送ればいいのか、どんな内容の手紙を送ればいいのか分からず、とりあえず月に一度は近況を知らせる手紙を送っている程度だった。
抱きしめられると嬉しい。だが、彼に何をどう返せばいいのか分からない。
戸惑うエステルをよそに、クリスは彼女と使用人の一行を歓迎してくれた。
エステルは兄に引き取られてからは首都のタウンハウスで暮らしていたので、領地の屋敷に入るのは初めてだ。
あの頃、兄は『嫁ぐなら暮らし慣れた花街の近くがいいだろう』と考え、社交期には首都で暮らせる程度の財力を持つ嫁ぎ先を探してくれた。そのため、首都に家を借りて二人で暮らしていたのだ。
案内された屋敷は、屋敷と言ってもグレシャム公爵邸のように立派な建築物というわけではない。赤い屋根の素朴な建物で、どうやら増築を繰り返しているらしく、横に広い平屋の家だった。
そこには、大勢の人が暮らしていた。
「やかましくてごめんね」
聞けば、家を失った貧民や孤児を雇い入れ、彼らを屋敷に住まわせているうちにこうなってしまったのだという。
「みんな、僕の家族だよ」
兄は朗らかに笑った。
「部屋だけはたくさんあるから!」
そう言って、エステルたちの部屋もあっという間に準備してくれた。
そして夜には、盛大な歓迎の宴が開かれた。
「あんたが妹様ですかい」
「領主様から、いっぺぇ聞いてますだ」
「立派なおうちに嫁いで、立派に奥様をやっとるんだと」
「日に三度はご自慢なさるんで」
「あっしらも、耳にタコでさぁ!」
「それに、ほら!」
「悪い魔法使いをやっつけたってぇ!」
「そんなすごいお人に会えて、幸せだぁ」
次々と話しかけてくれる領民たちに目を白黒させながら、エステルは新鮮な食材をふんだんに使った食事を楽しんだのだった。
ところが。
「申し訳ありませんでした」
宴会の後。
部屋に戻ると、開口一番マイヤー女史が深々と頭を下げた。
「どうして謝るの?」
「良かれと思って帰省をご提案させていただきましたが……」
もごもご、マイヤー女史は言い淀んだ。
だが、彼女の言いたいことはよく分かったので、エステルは苦笑いを浮かべて深いため息を吐いた。
「離婚のこと、とても言い出せないわね」
宴中も兄は嬉しそうに笑っていた。
『エステルは誰よりも美人で可愛くて、公爵様に見初められて、今では商売も順調で、首都の立派なお屋敷で幸せに暮らしているのだ!』
酒に酔って真っ赤な顔で、何度もそう繰り返していた。
『夫に離婚を切り出されました』
と、口にできるような雰囲気は欠片もない。
さて。
どうしたものか。
(離婚しても怒りはしないだろうけど、悲しませるわよね。きっとまた大泣きするわ。あの領民たちも、がっかりするでしょうね……)
悩みながらも、いつも通りマイヤー女史に手伝ってもらって入浴と着替えを済ませ、肌の手入れをする。
その間、マイヤー女史も眉間にしわを寄せ、口をへの字に曲げて何事か悩んでいた。
そうこうしていると、窓の方でカリカリと音がした。
窓を開けると、そこにいたのは。
もはや見慣れた、動物たちだった。
タヌキとイタチとネコが三匹並んで、まんまるの目をキラキラさせてエステルを見上げる姿に、思わず笑みがこぼれる。
それぞれ、手紙や小包を首から下げている。
テディからの届け物だ。
「こんなところまで来てくれたの?」
エステルは三匹を部屋の中に招き入れた。
「レイチェル、厨房に行って何か食べるものをもらってきて」
「かしこまりました」
それを待っている間、エステルは部屋にあった毛布を使って三匹の寝床を整えた。
そうしてから、ようやくベッドに腰を落ち着けて、テディからの手紙を開封した。
ところが、一通目はテディではなくイアンからだった。
『南にバカンス、いいなぁ!』
とてつもなく軽い調子の書き出しだ。マイヤー女史が見たら顔をしかめるだろう。
『エステルがいなくなって、公爵邸はお化け屋敷みたいになってるよ』
「お化け屋敷?」
『執事もメイドもどんよりしちゃって、どこもかしこもお通夜状態! ……みんな、君がいなくて寂しいんだよ』
あの優しい人たちのことを思い出して、エステルの胸がきゅっと痛んだ。
彼らとも、お別れをしなければならない。
『離婚するの?』
そうせざるを得ないだろう。
だって、クライドの方は離婚するつもりなのだ。
はっきりと、そう言った。
そんな彼に縋り付いて結婚生活を続けるのは、あまりにも惨めだ。
前までは、離婚したらもっと惨めな目に遭うところだった。
だが、今は違う。
エステルは自分の力で生きて行ける。
彼の言う通り、今のエステルにクライドは必要ない。
『そしたら、僕のお嫁さんになる?』
これには、思わず吹き出した。
また、こんな冗談を。
『今、冗談だと思ったよね?』
どうやら、イアンには手紙越しでも考えていることが筒抜けらしい。出会った頃から、彼には敵わない。
『冗談じゃないよ。君が望むなら、僕と結婚しよう。きっと幸せにするよ』
そんな優しい言葉に、気持ちが和む。イアンはエステルを慰めるために、こうして手紙を送ってきてくれたのだろう。
『ああ、でも。クライドも、ちょっとかわいそうかな』
どうして彼が?
首を傾げながら、手紙をめくった。
『だって、彼は君の気持ちを知らないんだもん』
それが、最後の一行だった。
読み終えた頃、マイヤー女史が両手に食糧を抱えて部屋に戻ってきた。
「ただいま戻りました」
動物たちがいっせいに彼女に群がる。
「お、お待ちなさい! 順番に差し上げますから! こら! スカートを引っ張らない!」
マイヤー女史は口では動物たちを叱りながらも、優しい手つきで彼らをなだめ、順にエサを準備した。きちんと彼らの好みに合わせた食べ物を手配してきたあたりが、真面目な彼女らしい。
そんな姿に気持ちを和ませていると、
「……奥様」
動物たちにエサをあたえるためにかがみこんだ姿勢のまま、マイヤー女史がポツリと呼んだ。
「なあに?」
エステルが返事をすると、マイヤー女史はやはりかがみこんだまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私は、あなたのことが嫌いです。あなたは何でも良い方に考えすぎます。人の悪意や、不運を勘案しない。きっと何もかも上手くいくと、いつも信じている」
エステルは黙ってマイヤー女史の話を聞いた。
こうして彼女が本音を話すのは、誘拐された時以来だ。
「人はそんなに簡単じゃありません。人生だって、躓いたり打ちのめされたりすることがたくさんあります。それなのに、あなたはいつも笑顔で……」
マイヤー女史が、すくりと立ち上がった。
振り返ると、その目に涙が滲んでいて。
「何があっても、なんてことないって顔して、自分の望む方に進んでいく」
ぽろり、とうとう涙がこぼれ落ちた。
「それが、あなたでしょう?」
震える声で言ってから、まるで少女のように、マイヤー女史はしくしくと泣き出してしまった。
思わず、その肩を抱きしめる。
「どうか、あなただけは。あなたの望むようになさってください」
彼女の言葉に、エステルの瞳からもポロポロと涙がこぼれ落ちた。
我慢していた何かが、涙になってあふれ出す。
生きるということは、思い通りにはいかないものだ。
花街で生きてきたエステルは、それを身に染みて知っている。
だが、エステルは兄によって救い出された。
自由になれた。
そのはずなのに。
様々な状況や感情に縛られて、やはり思う通りには生きられない。
だが、それが生きるということだ。
人は一人で生きているのではない。
いつも誰かと一緒に。
誰かのために。
その誰かも、誰かのために。
そうやって、響き合いながら生きている。
それでも、私たちは。
自分の望むように生きていいのだ。
しくしくと涙を流して抱き合う二人。
そんな二人に、ネコがにゃあと鳴いた。その口には小包がくわえられている。
「これは?」
開封すると、中には一本の瓶が入っていた。
美しいデザインのラベルが貼られたそれは、製品版のプランパーだ。
次いで、タヌキももう一つの小包をエステルに渡した。
その小包にも、瓶が入っていた。
虹色の宝石が入った、あの瓶だ。
こちらの小包には、メッセージカードがついていた。
『今の君に、本当に必要な魔法を』
それを読んだ途端、また涙があふれだした。
「ありがとう……!」
喉から絞り出すようにあふれたのは、感謝の気持ちだった。
たくさんの人が、エステルの幸せを願ってくれている。望むように生きていいのだと、背中を押してくれる。
それは、本当はエステルがしたいことだった。
美しい装いは、女性に自信を与える。
胸を張って歩く、勇気をくれる。
そのための商品を、エステルは世に送り出したかった。
「これじゃあ、あべこべね」
エステルはごしごしと涙を拭って。
プランパーを唇にのせた。
ピリリとわずかな痛みが走る。
そして鏡に映るのは。
優雅にほほ笑む、自信にあふれた貴婦人だ。
「私、行ってくるわね」
「はい。行ってらっしゃいませ」
エステルは、虹色の宝石の瓶をぎゅうっと握りしめ、そして、床に叩きつけた。




