第39話 離婚しよう
「これは、もしかして……」
例のアレを塗って、数分がたった。
エステルとマイヤー女史が二人並んで、鏡を覗き込む。
鏡の中の二人の唇が仄かに色づき、その形が、ぷっくりと可愛らしく膨らんでいる。
特に変化が顕著だったのはマイヤー女史の方だった。
もともと薄くてシュッとした印象だった唇が、立体的に、そして華やかになったのだ。
エステルはマイヤー女史の顔を鏡越しにじっと見つめ、そしてその肩をプルプルと震わせた。
「やったわ……」
マイヤー女史も感心して一つ頷いた。
「プランパー、ついに完成よ!」
エステルは嬉しさのあまり、両手を上げて飛び上がった。
数か月前から取り組んでいたプロジェクトが、とうとう一歩前進した瞬間だった。
その様子を隣で見守っていたテディもホッと息を吐く。
「痛みはないか?」
「最初はちょっとピリッとしたけど、今は大丈夫。あなたは?」
「私はまだ少しピリピリします。痛いというほどではありませんが」
「人によって感じ方が様々かもしれない。強さの段階を分けて製品を作った方がいいだろうな」
「そんなこともできるの?」
「ああ」
テディがニヤリと笑った。
「まったく、ただでは転ばない人だ」
エステルも、ニコリとほほ笑み返した。
「それを言うなら、あなたでしょう?」
プランパーは、トウガラシに含まれる『辛み』の成分を魔法で抽出し、それを唇に塗ることで故意に唇を腫れされる製品だ。
『故意に腫れさせる』という加減が非常に難しく、少しでも少ないと効果がなく、少しでも多いとたらこのように唇が腫れあがるという、とてつもなく気難しい調合を求められていた。
そこに正解を示してくれたのが、あの疫病だった。
疫病の特効薬を作る過程で出たサンプルの一つに、『辛み』成分を程よく抑える効能を示したものがあったのだ。
はじめ、テディはこのことは黙っているつもりだったらしい。今回の疫病はエステルにとっては辛い出来事だったから、あえて思い出させることもないだろうと気遣ってくれたのだ。
だが、彼の研究室に遊びに行ったエステルがたまたまその記録を発見し、『使えばいいじゃない!』と言ったのだ。
ちなみに事件以降、エステルは時折彼の研究室を訪ねるようになっていた。動物たちが毎回違うルートで案内してくれるのが面白くて、夜中の小さな冒険を楽しんでいる。
騎士はあまりいい顔をしないが、相変わらずエステルの自由にさせてくれている。
「本当によかったのか? あの疫病から得た知見が使われていると世間に知られれば、あまり良くない噂が立ちそうなものだが」
「関係ないわよ! これまでだって、歴史的に見ても毒から薬が発見された例はたくさんあるでしょ?」
毒と薬は紙一重だ。どんな薬も一歩使い方を間違えれば毒にもなる。その逆もしかり、だ。
「疫病は確かに悲しい出来事だったわ。……たくさん、人が死んだもの」
テディのおかげで早々に特効薬が作られたが、犠牲になった人は少なくはなかった。花街の中でも下男や下女など貧しい層の人々を、たくさん死なせてしまった。亡くなった娼婦も一人や二人ではなく、貴族の間でも悲しみの声が広がっている。
「だけど、そこで足を止めたら、それで終わりだわ」
どれだけ悲しくても、生きている人は生きていかなければならないのだ。
「どんなことがあっても、前に進んでいかなきゃ」
それがエステルの信条だ。
そうやって、ひたすら前に進んで、自分のための人生を手に入れるのだ。
* * *
『どんなことがあっても、前に進んでいかなきゃ』
そう言って朗らかに笑ったエステルの隣では、マイヤー女史がきゅっと唇をすぼめ、涙が滲みそうになるのを懸命に堪えていた。
テディには、彼女の気持ちがよくわかった。
(この人は、あまりにも眩しい)
自分の身にどんな辛い出来事が降りかかろうとも、それすら糧として前に進んでいく。
『前向きな性格』などという陳腐な言葉では言い表せないほどの、力が、この人にはある。
人とは、醜い生き物だ。
妬み、嫉み、憎み、怒り、傷つけ合う。
それが人間の本性だ。
その本性すら、この人の前では霞んでしまう。
マイヤー女史にとって、この人の隣で過ごす時間は地獄のような時間だろうと、テディは思った。
前向きな彼女の言葉を聞くたびに、自分の醜さがあらわになる。お前は醜い人間だと、責め立てられる。
(確かに、罰としては相応だな)
だが、彼女が言った通り、修道院に行くよりもましだ。
この罰にはチャンスがある。
エステルの眩しさの隣で影を濃くするか、それとも自ら光の中に飛び込むか。
その選択肢を与えられているのだから。
「……お茶のおかわりを準備してまいります」
マイヤー女史が気まずそうに席を立つ。それを見たエステルが、ポンと手を打った。
「あ、それじゃあ、ついでにレモンタルトのおかわりも、もらってきてくれる?」
「奥様。これ以上召し上がられては夕食が食べられなくなります」
ぴしゃりと言ったマイヤー女史に、エステルがブスッと唇を尖らせる。
プランパーの効果でぷっくりと立体的にふくらんでいる唇でその表情をすると、非常に可愛らしい。
「えー、いいじゃない!」
「いけません」
「けちー!」
「……代わりに、チョコレートをもらって来ましょう」
マイヤー女史は相変わらずブスッとした表情のまま提案した。
それを聞いたエステルがニヤリと悪そうな笑みを浮かべる。
「いいの?」
マイヤー女史は、やはり気まずそうに視線をそらして、さっさと温室の出口に向かっていった。
「タルトよりはましでしょう」
「ありがとー!」
エステルが手を振る。
そんな二人の様子を見て、テディの肩からふっと力が抜けた。
彼女は、きっと大丈夫だ。
そう思えた。
(この人なら、何もかもうまくいく)
そんな気がしてくるから、まったく不思議なものだ。
(きっと、夫ともうまくいくだろう)
テディは小さく息を吐いた。
エステルと夫のクライドは、ボタンを掛け違えてすれ違っているだけだ。
それは傍目に見ていても明らかで。
何かのきっかけがあれば、きっと二人は思いを通わせることができるだろう。
悲しくないわけではない。
寂しくないわけではない。
だが、テディの胸の中は妙にすっきりしていた。
(もしも彼女が足踏みをするなら……。
その時には、背を押してやろう)
友として。
それがきっと自分の役割だ。
マイヤー女史を見送ったエステルは、クルリとテディの方を振り返って、手元の書類を難しい顔で睨みつけた。
新製品完成の目途が立ったので、次はこれを販売することを考えなければならない。
「この手順書、どうにかならない?」
彼女が手に取ったのは、テディが現在のレシピを製品にするにあたって仮に作成した製造手順書だ。
「これだけ手間がかかるとなると、値段が……」
「安全性のためには、ここは譲れない」
「むむむ……」
と二人で頭を悩ませているところに、イアンもやってきた。
「やあ、二人して何を悩んでいるんだい?」
ヘラリと笑うイアンに毒気を抜かれながらも、新商品の製造方法と値段設定について、三人で頭を突っつき合わせて相談した。
この日常が、いつまでも続くと。
きっと彼女もそう思っていたに違いない──。
* * *
「離婚、ですか?」
数日後。
エステルとクライドの夕食の席で、その言葉は唐突にもたらされた。
季節は春。
明日は二人の結婚記念日だというのに。
急に食事の手を止めたクライドが、『離婚しよう』と切り出したのだ。
「どういうことですか?」
「言葉の通りだ」
手のひらに汗が滲んで、カトラリーがツルリと滑り落ちた。
カシャン、音を立ててフォークが床に落ちる。だが、エステルもメイドも執事も、誰一人として微動だにできなかった。
「どうして、ですか?」
エステルが震える声で問う。
「君にはもう、私は必要ないだろう」
まるで答えを準備していたかのように、クライドは淀みなく答えた。思いつきなどではない、彼は熟考したうえで、離婚を切り出したということだ。
「リリー・ホワイト商会の事業は順調だし、今なら離婚しても、すぐに次の相手は見つかる。……今の君は、むしろ結婚相手を選ぶ立場になれる」
その通りだ。
離婚してもエステルの手元には事業が残るのでお金には困らない。困らないどころか、彼女は莫大な財産を抱えることになった。
また、今の彼女は社交界でも一目を置かれている。
それは『公爵夫人だから』ではない。
彼女の気質そのものが受け入れられ、貴族たちに好かれているのだ。
今のエステルに結婚を申し込まれて断る家はないだろう。
「義兄上を悲しませたくない一心で、君は私との婚姻の継続を望んでいたはずだ」
それも、その通りだ。
「君は君自身の努力で、今の立場と財産を手に入れた。堂々と胸を張って実家に帰ればいい」
その言い分も、もっともだ。
今のエステルが離婚して実家に出戻っても、エステルが不幸になることはない。兄を悲しませることはないだろう。
むしろ兄は、『よく頑張った』と褒めてくれるだろう。
エステルは、何も言い返せなかった。
結婚当初には山ほどあった『離婚したくない理由』が、今は全て解決してしまったのだ。
彼の言う通り。
これ以上、この結婚生活を続ける意味は、ない。
夫の愛をお金で買う。
その必要性も、消え失せてしまったのだ。
何も言えず、エステルは呆然とすることしかできなかった。
そんな彼女から、クライドがふいと視線を逸らす。
「前にも言った通り、君が同意しない限り離婚はしない。だが、よく考えてくれ。互いのために、どうするべきなのかを」
やはり淡々と告げてから、クライドは食堂を出て行った。
一人取り残されたエステルは、マイヤー女史が声をかけてくれるまで、空っぽになった向かいの席を見つめていた。
その夜、マイヤー女史から
「一度、ご実家に帰省されてはいかがですか?」
と、提案された。
この場合の『実家』とは、育ててもらった花街のことではなく、兄が住む南部の田舎のことだ。
エステルの兄はもともと中央の社交界に興味がなかったので、彼女の結婚を見届けた後は領地に帰って暮らしているのだ。
「お時間が必要でしょう。一度、田舎でゆっくりなさるのがよろしいかと」
エステルは、この提案を受け入れることにした。
どんな結論を出すにしても、確かに時間が必要だ。
この日以降、クライドはエステルと一度も顔を合わせようとしなかった。
広い屋敷の中では、会おうと思わなければ顔を合わせることもない。
それが、二人の関係の全てだ。
そして数日後には、マイヤー女史と数人のメイド、騎士を伴って実家に向けて旅立った。
クライドは、見送りに出てくることすら、しなかった──。




