第33話 犠牲
花街は特殊な街だ。そこに住む娼婦たちのほとんどが借金のカタで売られてきた『商品』であり、彼女たちを逃がさないために高い塀で街全体が囲まれている。
といっても、近年では昼間の自由な出入りを許している娼館が多く、花街の門が閉じられることはほとんどなかった。
その門が今、封鎖されている。
花街の中で、疫病が発生したからだという。
「行かなきゃ……!」
エステルはテディの手紙を放り投げ、とるものもとりあえず玄関に向かった。
ところが、その進路をふさがれてしまった。
「奥様!」
彼女を見張っている騎士たちだ。
普段はエステルに気づかれないように側に控え、彼女の行動を制限したことなどほとんどないのに。
今は、絶対に通すまいと、数人の騎士が彼女の行く手をふさいでいる。
「どいて」
「いけません」
「どうしてよ!」
「危険です。もしも奥様に病がうつったら……」
「その時はテディに治してもらうわよ!」
「しかし……」
「しかしも案山子もない!」
エステルは叫ぶように言ってから、クルリと踵を返した。そして、廊下の反対へ……ではなく、開け放たれた窓の枠に足をかける。
「奥様!?」
驚く騎士たちに構うことなく、エステルは窓枠を、えいっと飛び越えた。
「に、二階ですよ!」
顔面蒼白で窓に駆け寄った騎士たちが見たのは、ドレスの裾を見事にさばきながら、木の枝に飛び移った公爵夫人だった。
「お、お、奥様! 降りてください!」
「言われなくても降りるわよ!」
エステルは素早く木を降り、そのまま庭園へ駆けだした。騎士たちも慌てて窓から飛び降り、彼女を追う。
「お願いします、止まってください!」
「ちょっと様子を見てくるだけよ!」
「いけません!」
互いに叫ぶように言いながら、庭園で追いかけっこが続く。エステルはドレス姿だというのに足が速い上に小回りがきくので、騎士が捕まえようと手を伸ばしてもヒラリヒラリと避けてしまうのだ。
「奥様!」
だが、そんな追いかけっこもそれほど長くは続かなかった。
「いい加減にしろ」
クライドが、エステルを捕まえたのだ。
上着も着ず、額に汗を浮かべたクライドに腰を掴まれて、エステルは少しばかり抵抗したがすぐに大人しくなった。
どれだけ暴れても、クライドの腕がびくともしなかったからだ。
「まずは落ち着け」
自分の腰を掴んだまま呆れたように言うクライドを、エステルはキッと睨みつけた。
「落ち着いていられるわけないでしょう! 家族の一大事なのよ!」
「分かっている。今、様子を見に騎士を行かせたところだ。彼らの報告を待て」
「でも、騎士じゃあ中に入れないでしょ」
「君が行ったとしても、入れない」
「正面からはね」
ぶすっと唇を尖らせるエステルに、クライドが驚いて目を瞠る。
「抜け道でも知っているのか?」
「それは、まあ、そ、そんなところよ」
クライドは呆れた顔をして、ようやくエステルの身体を解放した。ただし、代わりに彼女の手をぎゅっと握りしめる。
「だとしても、君は行くべきではない」
「どうして」
「相手は疫病。君にうつれば、大騒動だ」
「でも……」
「公爵夫人に疫病をうつしたとなれば、花街の責任者を罪に問わなければならなくなる」
これには、エステルはうっと言葉を詰まらせた。
そこまでは考えが及んでいなかったのだ。
だが、彼の言う通りだ。
もしもエステルに病をうつすようなことがあれば、花街の責任者だけでなく彼女に接触した娼婦全員が罪に問われる可能性もある。
身分の差とは、そういうことなのだ。
「……どうしても、ダメですか?」
「ダメだ」
これまで、クライドがエステルの行動を制限したことはほとんどなかった。
彼女がやりたいようにやらせてくれて、行きたいところに行かせてくれた。
そんな彼が、これほど強硬に反対しているということは。
本当に、行くべきではないのだろう。
ようやくエステルの身体から力が抜けて、その肩がしゅんと縮こまる。
「分かりました」
騎士たちがホッと息を吐き、同じようにクライドもホッとした表情を浮かべた。
「騎士が戻ってきたら、私にも様子を教えてくださいね」
「もちろんだ」
花街の様子を見に行っていた騎士が戻ってきたのは、それから数刻もしない内だった。
やはり中には入れなかったのだが、王室の依頼で調査に来たという医者の一人から話が聞けたので、報告のために戻ってきたという。
その報告を聞くためにエステルもクライドの書斎にやってきた。臣下や騎士、執事など、公爵家に仕える主要な人物が勢ぞろいしている。
「かなり感染力の強い疫病のようです。症状は咳、胸の痛み、発熱、発疹。性病とは明らかに異なり、同じ部屋で過ごした程度でうつるようです」
厄介な病だ。
花街は、お世辞にもお行儀の良い街とは言い難い。エステルが暮らしていた上級娼館は別として、ほとんどの場所は不衛生だ。さらに、娼婦たちが一つの部屋の中で寝食を共にするのも普通。
この疫病は、あっという間に広がるだろう。
国王は疫病の発生を聞いてすぐに花街の封鎖を決めたというが、それは英断だったと言わざるを得ない。
「また、高熱が三日続くと、五人に一人程度の割合で死亡するそうです」
しかも致死率が高い。
「花街の外は?」
「今のところ、外では症例の報告はないようですが……」
「時間の問題だろうな」
クライドが難しい顔で考え込んだ。
花街の特性を生かして、完全封鎖には成功した。だが、いずれ外にも疫病は広がるだろう。
「王宮の対策は?」
クライドの質問に、執事長が青い顔で一歩前に出た。
この事態に王家がどのような対応をとるのか、こちらは執事長が調べてきたらしい。
「魔法使いたちが治療薬の開発を始めたそうですが、間に合う可能性は非常に低いと、第五の魔法使いが判断しました」
「第五、ということは、魔法薬の第一人者だな」
この国には、認定魔法使いが全部で二十八名いる。そのうち、もっとも魔法薬に精通しているのが、第五の魔法使いだ。
「はい。それで……」
執事長が、チラリとエステルの方を見た。次いで、クライドの方を見る。
彼女に聞かせてもいいのか、と問いたいようだ。
「いずれ彼女の耳にも入る。言え」
「はい」
執事長がごくりと唾を飲み込む。そして、意を決して口を開いた。
「……十日後までに治療薬が完成しなければ、花街を焼却する、と。そのように国王陛下が決断なさいました」
沈黙が落ちた。
あまりのことに、エステルの表情から色が抜け落ち、その身体がブルブルと震えだす。
「そんな……っ!」
おそらく、魔法の炎で花街をそこに住む人ごと燃やし尽くすのだろう。そうすれば、疫病を完全に抑え込むことができる。
だが、それは。
あまりにも非人道的だ。
「そんなこと……!」
この場にいる誰もが同じことを思っているのだろう、皆、顔を真っ青にして黙り込んでいる。
「どうにかできないんですか!?」
思わず、エステルはクライドに掴みかかった。だが、当のクライドも青い顔で何も言えずにいる。
「あんまりです。こんなの……!」
より多くの人を救うため、仕方のない決断だと言えなくもない。
だが、あまりにも多くの人が犠牲になってしまう。しかも、そこに住むのはエステルにとっては家族同然の人々だ。
「身分が低ければ、犠牲になってもいいって言うんですか!?」
彼女の叫びに、誰も答えることはできなかった。
* * *
その夜、エステルは眠れずに悶々過ごしていた。
(どうすればいいの……!)
答えの見えない問いを繰り返し、ベッドの上で膝を抱えることしかできない。
そこに、珍しくクライドがやって来た。
ただし、いつも通り上着も何もかもきっちりと着こんだ姿で現れ、さらに執事長を伴って来たので、一緒に眠るつもりではないことはすぐに分かった。
何か話があるのだろうとは思ったが、エステルは疲れ切っていた。
「明日にしてくれませんか」
エステルは力なく言ってみたが、クライドははっきりと首を横に振った。
「あまり時間がない。今夜のうちに、対策を考えたい」
そう言って、クライドは半ば無理やりエステルの寝室に入ってしまった。その後ろを執事長が申し訳なさそうな表情で付いていく。
仕方がないので、エステルは三人分のお茶を用意して、二人をソファに座らせ、自分もその向かいに腰を落ち着けた。
「あの後、さらに調査を進めて二つのことが分かった」
クライドは余計な雑談など挟まず、単刀直入に話し始めた。
「一つは、君の誘拐事件に関わっていたのは第五の魔法使いであった可能性が高いということだ」
エステルは驚きに目を見開いた。
マイヤー女史がエステルを誘拐した事件では、彼女を連れ去ることと彼女を眠らせることに魔法が使われた。マイヤー女史は、いずれかの認定魔法使いが助力してくれたと言っていたが、それが誰なのかは知らないのだと後に供述している。
それが、第五の魔法使いであった可能性が高いとは。
国王の信任も厚い、有名な魔法使いなのに。
驚くエステルをよそに、クライドは少し身を乗り出し、声をひそめて言った。
「二つ目は、この疫病は第五の魔法使いの陰謀である可能性が非常に高いということだ」
今度も、エステルは驚きのあまり声が出なかった。
つまり、花街に蔓延している疫病は、第五の魔法使いが故意に広めたものである、ということになる。
驚いた。
だが、それ以上に。
腹の底から。
熱いマグマのようなものが湧きあがってきた。
怒りだ。




