第28話 かわいげのない奥様
『彼女が望むなら』
その一言で、自分の思いも欲も何もかもなかったことにしてしまう。
そんなクライドの姿勢に、イアンは無性に苛立っていた。
確かに、エステルは強い。
普通の女の子なんかより、よっぽど。
そういうところを好きになった。
それでも、彼女は女の子だ。
彼女を直接攻撃する人間がマイヤー女史までなら、何も問題なかった。
エステル自身で立ち向かって、たとえ負けたとしても大した影響はない。
元の身分や生い立ちがどうあれ、彼女は公爵夫人だから。
だが、公爵家の親族会議という場に彼女を放り込むのは、あまりにも酷だ。
相手は公爵一門という海千山千の貴族が集う一族の中で生きてきた生粋の上流階級ばかり。
マイヤー女史を送り込んできた大叔母だって、既に隠居の身とはいえ社交界で大きな影響力を持っている。
もしも親族会議で恥をかかされたら。
彼女は社交界で生きていけなくなってしまうだろう。
それほどの重大事なのだ。
それを、『彼女が望むなら』の一言で片づけてしまったクライドの考えには、全く賛同できない。
(クライドが守らないなら、僕が守る)
そんな気持ちで、イアンはエステルの寝室に向かった。
道中、執事や騎士とすれ違ったが誰も彼を止めなかった。
クライドが『止めるな』と命じたのだろう。
それもまた、イアンを苛立たせた。
寝室に到着して、気持ちを落ち着かせるように呼吸を繰り返してから、ノックを三回。
だが、中から返事はなかった。
耳を澄ませてみても、物音ひとつしない。
それどころか、人がいる気配がまったくしない。
イアンの背中を冷たい汗が伝った。
慌ててメイドを呼んで中を確認させると、彼女のベッドは、もぬけの殻だった──。
* * *
「ああ、これで、ようやく! あなたを公爵家から追い出すことができるわ!」
目が覚めると。
血走った眼で自分を見つめるマイヤー女史と目が合った。
最悪の目覚めだ。
エステルはぎゅうっと顔をしかめた。
それを見たマイヤー女史が、ニヤリと笑う。
その顔があまりにも醜くて。
エステルはそろりと目を逸らした。
そのままキョロキョロと周囲を見回して状況を把握する。
狭くて小汚い部屋の中、彼女は手足を縄で縛られ、簡素なベッドに寝かされている。
犯人は、問いただすまでもなく、マイヤー女史だろう。
(だけど、目的が分からないわ)
親族会議が開かれることになったのはマイヤー女史の差し金だということは分かっている。
会議の場で、エステルに恥をかかせて公爵家から追放することが目的のはず。
だとすれば、こうして会議の前にエステルを誘拐した目的と合致しない。
泣き叫ぶでもなく、冷静に状況を把握しようと視線を巡らせるエステルに、マイヤー女史が苛立ちをあらわにした。
「本当に、かわいげのない奥様」
マイヤー女史は憎々し気に言ってから、身動きのとれないエステルの髪を掴んだ。
ぎりぎりと音を立てながら彼女の髪を吊り上げて無理やり目を合わせると、また、マイヤー女史がニタリと笑った。
「ようやく、大人しくなったわね」
彼女はもう、表情を取り繕うつもりがないらしい。
エステルへの悪意を隠しもせず、醜い感情を正面から向けてくる。
いっそ、すがすがしいほどだ。
「どうしてこんなことを?」
エステルが問うと、今度はベッドに頭を押し付けられた。安物の綿のシーツに、ざりざりと頬をこすりつけられる。
念入りに手入れをしている肌が、これでは台無しだ。
エステルが内心で肌の心配をしていることになど気づかないマイヤー女史は、心底嬉しそうにほほ笑んだ。そして、エステルの耳元に唇を寄せる。
「今日は親族会議の当日」
そっと囁かれた言葉に、さすがのエステルも驚いた。
彼女の最後の記憶では、親族会議まで数日はあったはずだから。
どうやら、何日も眠らされていたらしい。
だが、そんなことが可能だろうか。
そもそも、公爵邸には厳重な警備が敷かれている。
(私の周囲には常に見張りの騎士がいたし……)
マイヤー女史は、いったいどうやって彼女を誘拐したのだろうか。
エステルが不思議に思っていると、マイヤー女史がくつくつと喉を鳴らした。
「不思議そうな顔。あなたのような下賎な女には想像もつかないでしょうけど、公爵家のご親族は、魔法使い様にも顔がきくの。もちろん、もぐりではない、本物の魔法使い様よ」
なるほど、とエステルは納得した。
厳重な警戒の公爵邸から彼女を誘拐することができたのも、彼女を数日も眠らせることができたのも、協力した魔法使いがいたらしい。しかも、国の認定を受けている魔法使いだ。
そこまでやるからには、この誘拐劇には明確な目的があるはずだ。
それを聞き出さなければ。
「皆、あなたのような公爵夫人はまっぴらごめんなのよ」
だが、彼女が訪ねるよりも前にマイヤー夫人が得意げに話し出した。
どうやら彼女は、既に勝利を確信しているらしい。
「生まれは確かに伯爵家だけれど、育ちは下賎。しかも、商売を始めるだなんて! そんな公爵夫人は聞いたことがありません! そもそも、公爵家に嫁いできたからには、あなたの仕事は子供を産むことでしょうに! それを放って、やりたい放題! ご親族様はみな、お怒りなのですよ?」
それはまあ、そうだろう。
エステルは思った。
自分の行いが従来の公爵夫人として相応しいかどうかと問われれば、おそらく違う。
それでも今まで親族がエステルに直接何も言ってこなかったのは、クライドが彼女の振る舞いを許していたからだ。
そこへ浮気疑惑が浮上し、とうとう親族会議が開かれることになったのだ。
「……あなたは賢い。要領がよく、男を丸め込む話術に長けている」
急に褒め始めたマイヤー女史に驚いていると、さらに強い力でベッドに顔を押し付けられた。古い木製のベッドがギシギシと音を立てる。
「集まる親族には男が多い。あなたなら、どうせ上手いこと話して切り抜けてしまうでしょう?」
彼女の言う通り、親族で強い発言力を持っているのは各家の当主である男性だ。一部、大叔母のように年配で発言力を持つ女性もいるが、それは少数派。
エステルが準備した会議で発言する内容も、主に男性の親族を説得するためのものだ。
彼らは女性と比べて理論的に物事を理解する。ならば、『公爵家の利益』を前面に出せれば丸め込めるだろうと考えていたことは事実だ。
「だから、会議直前にあなたを誘拐したのよ。あなたは親族会議から逃げた、臆病者。それどころか、各地から集まってくる親族を出迎えもしない無礼者。皆様、呆れるでしょうねぇ」
マイヤー女史のねっとりとした声が耳に絡みつく。
「さらに、オリオーダン侯爵のご子息との浮気! その件の申し開きすら、あなたにはできない。となれば、親族から『離縁』が提案されるのは必定!」
おそらく、その『離縁』を提案する親族も、既に根回し済みなのだろう。
「もちろん、新しい花嫁候補も決まっています。あなたとは違って、生まれも育ちも立派な、完璧な淑女方です」
マイヤー女史がにんまりと微笑んだ。
離縁され、公爵家を追い出され、落ちぶれていくエステルを想像しているのだろう。
その瞳の中には、エステルへの悪意が渦巻いている。
状況も経緯も、彼女の計画も、何もかも把握できた。
だが、一つだけ分からないことがある。
なぜ、彼女はこれほどまでの悪意をエステルに向けるのだろうか。
ふと、エステルは窓の外を見た。
明るいが、日はまだそれほど高くない。
「……今は、朝ですか?」
「ええ、そうですよ」
「親族会議は、これから?」
まだ間に合う。
エステルがそう思った瞬間、ぐんっと髪を引かれた。
うつ伏せになっていた身体が、今度は仰向けで引き倒された。
「まだ間に合う。そう思ったでしょう?」
ニタリ。
悪意に満ちた表情でマイヤー女史がエステルを見下ろした。
「無駄無駄! 扉の外に、あなたの大好きな男を待たせてありますから。この時間にあなたを起こしたのは、彼らをご紹介するためですわ」
最悪だ。
もしも複数の男に犯されたら。
エステルは『傷もの』になる。そうなれば、無事に公爵邸に戻れたとしても離縁は免れない。
「この場所を、公爵様にお知らせしました。つい、さっき」
さらに、最悪だ。
公爵の騎士たちは、親族会議の警備で忙しく、おそらくエステルの捜索にそれほどの人員を裂けていないだろう。
公爵邸に詰めている騎士たちがこれからここに向かってきたとしても、彼らが目撃するのは、男たちに襲われている最中、または事後になる。
間に合わない。
それを見越した、完璧な計画だ。
だが、それでもエステルは冷静だった。
なんとかこの場を切り抜ける方法を見出そうと頭を巡らせる。
(犯すなら足の縄は解かなきゃならないはずだから、その時に男の股間を蹴り上げて……)
とにかく、エステルはこの後の逃げ出す算段を考え始めた。
ぐにゃり。
マイヤー女史の表情が、醜く、歪んだ。
「本当に、かわいげのない女!」
さらに、今度は両手でエステルの髪を掴み上げた。
「綺麗な顔によく回る口、何事にも物おじしない性格。あなたのような女が社交界でも上手く立ち回って出世していくのよね。そう、そんなことは分かってるのよ!」
早口でまくし立てながら、髪を掴んだ手で頭を揺する。
ブチブチと髪の抜ける音がして、たいへんに不快だ。しかも、痛い。
だが抵抗すれば、もっと髪が抜ける。
娼館時代、髪を掴みあって喧嘩をした娼婦の髪が大量に抜けて、その後たいへんな目に合ったのを見たことがある。
エステルは大事な髪を守るため、にとにかく無抵抗を決め込んだ。
だが、その無抵抗はマイヤー女史の憎悪をさらに加速させてしまった。
「お前のような女が要領よく公爵夫人にまで上り詰めた! どうして! 私は結婚すらできなかったのに!」
ようやく、エステルは理解した。
彼女の憎しみの正体を。
「弱小貴族に生まれて、親の言う通りに、勉強、勉強、勉強、勉強、勉強、勉強! お前は顔が悪いから、それしか能がないから! なのに、いざ結婚適齢期になったら、頭でっかちと言われて、嫁ぎ先が見つからなかった!」
劣等感だ。
「お前のせいだ! 私が幸せになれないのは、お前のせいだ!!!!」
叫ぶように言ったマイヤー女史が、ようやくエステルの髪から手を離した。
そして、その両手で今度はエステルの細い首を掴んだ。
爪を立て、ギリギリと首を絞めつける。
だが、それでもエステルは冷静だった。
「……私が不幸になれば、あなたは幸せになれますか?」
エステルの問いに、マイヤー女史の手が止まる。
「は? なれるわけないでしょう。私はもう、幸せになんかなれない。だから、お前を不幸にする! 私だけが不幸になるなんて、まっぴらごめんなんだよ!」
彼女の、魂の叫びだ。
ようやく、エステルが動いた。
縛られた手で、マイヤー女史の震える手に触れる。
今まで無抵抗だったエステルの動きに驚くマイヤー女史にかまわず、エステルは縛られたままの手で彼女の腕を掴んだ。
そして、腰をひねって縛られた足を持ち上げ、勢いよくぐるりと回す。
ドサッ!
今度は、エステルがマイヤー女史を押し倒す格好になった。
「なっ!?」
下級貴族とはいってもお嬢様育ちのマイヤー女史と、娼館で身体を使って下働きをして育ってきたエステルとでは、そもそも筋力も体力も大きな差があるのだ。
手足を縛られたところで、彼女を制圧するのはそれほど難しくなかった、最初から。
驚きに目を見開き、口をパクパクさせるマイヤー女史。
そんな彼女に、エステルは。
微笑みかけた。
悠然と。
公爵夫人らしく。
「あなたが幸せになれないだなんて、いったい誰が決めたのよ」




