表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【書籍化決定】離婚はちょっと困ります~なので夫の愛を買わせていただきます。それはそれとして、悪い奴は許しません!~  作者: 鈴木 桜
第3章 人の価値

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/41

第25話 君は強い



「娼館に売られたことは、確かに不運でした。自分の運命を恨んだこともあります」


 四歳だったエステルが、自分の人生が変わってしまったということに気づいたのは、売られて数日後のことだった。


 どれだけ泣いても、大好きな兄が来てくれない。


 エステルが泣けば、いつだって、どこにいたって、駆け付けてくれたのに。

 その兄が、泣いても叫んでも、名前を呼んでも来てくれない。


 代わりに自分を慰めてくれるのは、きれいなお姐さんばかり。


 数日間それを繰り返して、ようやく何もかもが変わってしまったことを悟ったのだ。

 それでも諦められなくて、怒りに任せて泣き叫んだ。


『なんで私が!?』

『こんなの嫌だ!』

『家に帰して!』

『お兄ちゃんに会わせて!』


 夜が明けるまで、喉が枯れるまで、疲れ果てて眠りに落ちるまで。


「それでも……」


 エステルは不幸などではなかった。


「あの街で、私は愛されて育ちました」


 マイヤー女史が『そんなはずはない』と言わんばかりに、嘲りの表情を浮かべる。

 彼女にとって花街は、哀れな女の街なのだろう。


 それもまた真実だ。

 だが、それが全てでもない。


「娼婦たちは私が可哀そうだから優しくしてくれるのだろうと、最初はそう思っていました」


 確かに娼婦たちはエステルを哀れんでくれた。だが、そんなものは最初の内だけだ。

 しばらくすると、彼女たちはいつまでも泣き止まないエステルに辟易し始めた。


 だが、彼女を見捨てたりはしなかった。


『いつまでも泣くんじゃないよ!』

『泣いたって誰も迎えに来てくれないよ!』

『強くなるんだよ!』


 彼女らは、エステルを励まし続けてくれたのだ。


 どれだけ泣いても、決して目をそらさず。

 根気強く、彼女が泣き止むまで。

 ずっと、隣に寄り添って。


 あれは確かに、愛だった。

 その証明が、今のエステルだ。


「私を見てください」


 エステルは胸を張って、真っすぐにマイヤー女史を見つめた。


「可哀そうな人間に見えますか?」


 この問いに、マイヤー女史は答えられない。

 答えられるはずがないのだ。


 胸を張って悠然とほほ笑むエステルからは、卑屈さなど微塵も感じられない。とても『可哀そうな人間』には見えないのだから。


 自信に満ち溢れる、美貌の公爵夫人。

 それが、今のエステルだ。


「この私を育て上げてくれたのが、花街の女たちです」


 マイヤー女史はやはり何も言い返せず、グッと唇を噛みしめた。


「私の親代わりである方々を馬鹿にすることは、絶対に許しません」


 エステルは毅然と言い放ち、席を立った。

 マイヤー女史が引き留めようとしたが、それをエステルがじろりと睨みつける。


「あなたが反省するまで、食事に同席することはいたしません。よろしいですね」


 ここまで言われてようやく自分の失言に気づいたのか、マイヤー女史の顔が真っ青になった。


 彼女は家庭教師であり、エステルを教える立場だ。

 だが、決して彼女よりも『上』に立ったのではない。エステルは公爵夫人であり、マイヤー女史にとっては上司であり、仕えるべき主人。

 それをわきまえずに、彼女の『家族』を馬鹿にしたのだ。


 エステルが怒りをあらわにすることは、女主人として最も相応しい振る舞いだった。


 彼女の毅然とした態度に、食事の世話をしていた執事とメイドたちは内心で拍手喝采を送ったのだった。


 去り際、青い顔で肩を震わせるマイヤー女史に、もう一言二言嫌味でも言ってやろうかと考えたエステルだったが、それは我慢した。


(これで決着がついてしまったら面白くないものね)


 せっかく倒しがいのある好敵手が現れたのだ。あまり長引かせたくはないが、あまりにもあっさり決着がついてしまっては面白みに欠ける。


(それに、彼女には私が親族に認められるための足掛かりになってもらわなきゃ!)


 そのためには、もう少し公爵邸(ここ)に留まってもらわなければならない。




 そんなことを考えながら自室に向かって廊下を歩いていると、


「エステル」


 急に後ろから呼び止められた。

 足を止めて振り返ると、そこにはクライドがいた。


「なんでしょうか、旦那様」


 エステルは行儀よく彼の言葉を待った。


 だが。


「……」

「……」


 わざわざ呼び止めたと言うのに、クライドが何も言わないので気まずい沈黙だけが流れた。

 いつものことで慣れっこではあるが、気まずいものは気まずい。


 近くで見守っている執事たちも、戸惑い顔で二人の顔を交互に見ている。


 そんな執事たちに、クライドが右手を振った。『席を外せ』という指示だ。

 それを受けて執事たちは一斉に去って行き、廊下の真ん中でエステルとクライドは二人きりになった。


 クライドはエステルと目を合わせることはせず、うろうろと視線をさまよわせてから、ふと窓越しに庭園の方を見た。

 その視線の先には、いくつかのランタンが置かれていて、咲き誇るバラたちを淡く照らしている。

 庭師たちはエステルが通る廊下から見える庭園には、こうして毎晩、ランタンを置いてくれるのだ。

 エステルは、夕食の帰り道にその庭を見るのが大好きだ。


 二人して窓越しに庭園を見つめること、数分。

 ややあって、ようやくクライドが口を開いた。


「……マイヤー女史のことだが」


 またその話か、とエステルは内心で呆れた。

 これは自分の問題だと伝えたのに、まだ公爵家当主の権限でどうにかしようと言いたいのか。


「その件は大丈夫ですから」


 エステルが眉を寄せて反論すると、クライドはピクリとも表情を変えずに頷いた。


「わかっている」

「え?」

「彼女のことは、君に一任すると言っただろう。それに二言はない」

「では……?」


 いったい、何が言いたいのだろうか。


「……君は、女同士の喧嘩には負けたことがないと言っていただろう」

「はあ」


 エステルの気のない返事にもクライドは気にした様子も見せず、庭園のバラを見つめたまま、わずかにほほ笑んだ。


「確かに、なかなかだったな」


 その嬉しそうな表情を見て、エステルは気づいた。


「見てたんですね、さっきの!」


 エステルとマイヤー女史の戦いを、彼はどこかから覗き見していたらしい。


「悪趣味ですよ!」

「……そうか?」

「そうですよ!」

「だが、いいものが見れた」

「いいもの?」

「マイヤー女史のあんな表情を見たのは初めてだ」


 クライドが、クククと喉を鳴らして笑っている。

 まるで、悪戯が成功した少年のように。


(あなたのそんな表情を見るのも初めてですよ!)


 エステルは、思わず心の中で叫んだ。

 次いで、頬に熱が集まる。


(……笑うと、こんな顔になるんだ)


 もっとよく見ようと、エステルは一歩前に出た。

 クライドは彼女が近づいてきたことに気づいたようだったが。


 今日は、逃げなかった。


 二人の距離が近くなる。

 互いがあと一歩も進めば、触れ合えるほどに。


「……君は、強いな」


 クライドが、エステルにほほ笑みかけた。

 つられてエステルも笑顔になる。


「まあ、それなりに?」

「それなり? あれが?」


 また、クライドが可笑しそうに笑った。


(初めて、だ)


 クライドと、こんな風にほほ笑みあうのは。


 見つめ合う二人の顔を、窓越しにランタンの淡い光が照らす。


 そうしていたのは、数秒だったのか。

 それとも、もっと長い時間だったのか。


 エステルには分からない。


 だが、たとえ数時間の出来事だったとしても。

 居心地の悪いものでは、なかった。




 * * *




 そんな二人の様子を、物陰から見つめる人がいた。


 マイヤー女史だ。


「あの女……!」


 親指の爪をガジガジと噛みながら、憎い女を睨みつける。


「借金持ちの伯爵家の娘が……花街育ちの分際で……不幸だろう、お前は不幸なはずだ、不幸でなければならない……、相応しくない、公爵家には……、お前のような女が次代の公爵家当主を産むなど、あってはならない……、私が……そう、私がなんとかしなければ……!」


 ぶつぶつと言い募った彼女は、とある人物に手紙を書くために、足早に客室に帰って行ったのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ