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【書籍化決定】離婚はちょっと困ります~なので夫の愛を買わせていただきます。それはそれとして、悪い奴は許しません!~  作者: 鈴木 桜
第3章 人の価値

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第24話 おいたわしい



 マイヤー女史のことはさておき。

 エステルにはやらなければならないことがある。


 新商品の開発だ。


 彼女がインフルエンサーとして社交界で影響力を強くするためには、新しくて魅力的な商品を、どんどん出していかなければならない。


 エステルが『こんな美容製品があったらいいなぁ』という案をテディに伝え、それを元にテディが魔法を使って商品を開発する。もちろん、開発に必要な資金はエステルが出す。

 こうして、すでにいくつかの商品が世に出ている。


 ちなみに、プランパーは未だに試作が成功せず、使う度にたらこ唇になってしまうので、いったん開発は保留となっている。


 そして今日、テディが新たな商品の試作品を持ってきた。




「リップティント?」


 エステルはテディから受け取った小さな瓶を、温室のガラス窓から差し込む光に照らしてみた。

 親指ほどの大きさの細長い瓶だ。

 トロリとした、ピンク色の液体で満たされている。


「リップ、ということは唇に使うのよね? 口紅なの?」


 エステルは首を傾げた。

 貴婦人が使っている口紅は、顔料を脂肪や樹脂に混ぜてつくったもので、もっと固い。紅皿に入っているそれを刷毛でとって、唇に塗るのだ。

 それとは形状が違い過ぎる。


 その問いに、テディは得意げに笑ってからエステルに妙な形の小さな棒を渡した。

 一見、刷毛のようにも見えるが、先の方は極めて小さな、柔らかいブラシのようになっている。


「これを使って唇に塗る」

「なるほど。やってみるわね」


 ブラシを瓶に入れると、ブラシの先にピンク色の液体がとろりと絡みついた。どうやら、この液体の粘度とブラシの相性が良いらしい。

 鏡を見ながら液体を唇にのせる。


「意外にサラサラね」


 ブラシは唇の上でサラサラと動き、とても塗りやすい。使い心地は抜群だ。


「うん。素敵な色ね」


 エステルは色白なので、青みがかったピンクがよく似合う。発色も問題ない。

 だが。


「普通の口紅とは、どう違うの?」


 問題は、そこだ。

 形や使い方が少し違う程度では、インフルエンサーが紹介する新商品としてはインパクトが少ないのだ。


「これを飲んでみろ」


 次にテディが差し出したのは、オレンジジュースの注がれたグラスだった。


「これを? 今?」


 そんなことをすれば、せっかくの色が落ちてしまう。


「いいから」


 テディがニヤリと笑うのを不思議に思いながら、エステルはグラスに口を付けた。

 一口飲む。

 そして、いつも通り親指でグラスについた色を拭おうとした。

 ところが。


「あら?」


 グラスに色は付いていなかった。

 あり得ない。


「どうして!?」


 口紅を塗った唇で飲み物を飲めばグラスやカップに色が付くはずなのに。


「これが、この商品の最大の特徴だ。非常に落ちにくい。飲んでも食べても、ほとんど色は落ちない」

「すごいわ!」


 これは画期的だ。

 せっかく口紅を塗っても飲んだり食べたりすれば色が落ちてしまうので、貴婦人たちは飲食を我慢したり、度々塗り直しをしたりしなければならなかった。

 その苦労から解放されるということだ。


「どうやったの?」

「通常の口紅で使われる顔料よりも粒子の小さな染料を使った。唇に色をのせるというよりも、染める感覚だ」

「それで落ちにくいのね?」

「ああ。ドレスの仕立て直しで、染料の開発に協力しただろう? あの研究からヒントを得た。君が『落ちない口紅があったらいい』と言っていたしな」


 なるほど、とエステルは唸った。

 粒子だ何だと言われてもエステルには全くピンとこないが、とにかく彼の魔法によって新しい技術が開発されたのだ。


「落とし方は?」

「一発で落とせるリムーバーも作っておいた」


 テディはリップティントと似たような瓶をもう一つ取り出した。こちらは透明な液体で満たされている。


「美容成分入りだ」

「完璧ね……!」


 さすが、長年花街で美容製品の商売をしてきただけはある。テディは女性たちのニーズ(求めるもの)をよく理解している。

 そこにエステルのアイディアと彼女が支出する潤沢な開発資金が加われば、百人力だ。


「では、流行に合わせて五色くらいのカラーバリエーションを決めてちょうだい。量産の段取りをつけるわ」

「わかった」


 リップティントは、おそらく売れる。大ヒット商品になる。そう確信したエステルは、大量の資金を投入することを決めた。


 といっても、資金は無限ではない。

 頭の中で目まぐるしく計算を巡らせていると、そこへイアンがやって来た。


 ちょうどいい。


(資金繰りについて彼に相談して、量産化の計画を立ててしまいましょう)


 そんなことを考えながら軽く挨拶すると、イアンはいつもの流れるような仕草でエステルの隣の席に腰かけた。


 ところが。


「や。今日もかわいいね」


 開口一番そんなことを言うものだから、エステルは眉を寄せて首を傾げた。


「どうしたの?」

「なにが?」

「その、かわいいねって」

「思ったことを口にしただけだよ。……あれ?」


 イアンは爽やかにほほ笑みながら、エステルの頬にそっと触れた。

 そして。


「新しい色だ。よく、似合ってるね」


 そう言いながら、うっとりと微笑んだ。

 トロンと甘く、甘く。


 初めてみる彼の表情に、思わずエステルの頬がカッと熱くなる。


 これではまるで、口説かれているみたいだ。


「おい」


 顔を真っ赤にして固まったエステルの代わりにイアンを止めに入ったのは、同じく顔を赤くしているテディだった。

 彼の肩を引いてエステルから引きはがす。

 イアンは微笑みを浮かべたまま、されるがまま。


「何をしているんだ」

「何って?」

「彼女は人妻だぞ!」

「知ってるけど?」

「だったら慎め!」

「なんで?」

「なん、だと?」


 テディのこめかみに青筋が浮いた。

 だが、それでもイアンはほほ笑んだままだ。


「別にいいじゃん。高位貴族なら浮気の一つや二つは当たり前、というか(たしな)み、みたいなものだし」


 とんでもないことを言い出したイアンに、テディが目を白黒させた。


「う、浮気!? た、た、嗜み!?」


 狼狽するテディの肩を、イアンがポンポンと叩いて、


「君にはまだ早かったかな?」


 と、彼をからかった。

 そして、イアンがエステルの方を振り返る。


 エステルと目が合うと、また、翠の瞳がトロンと溶けたように甘くなった。


「ねえ、この後、二人きりにならない?」


 エステルは、またしても顔を真っ赤にさせて立ち尽くすことしかできなかった。




 そこから、温室は大騒ぎだった。


 エステルの尋常ではない様子に気づいて近くまで来ていた騎士とメイドたちが、イアンの最後のセリフを聞いてしまったのだ。


 騎士たちはいっせいにイアンを取り囲み、すぐさま連行していった。騎士たちは『なんということを……!』と怒り心頭。

 メイドたちは互いに手を取り合い、ゴクリと息を呑んでいた。


 さらに報告を受けたクライドが温室に飛んできた。ところが、顔を真っ赤にしたままのエステルを見た途端、クルリと踵を返して温室を去り。


 それを見たエステルが、『何しに来たのよ!』と、また肩を怒らせた。


 それらの全てを見守っていたテディは、頭を抱えることしかできず。


 そして、この『奥様が口説かれた事件』の詳細は、瞬く間に公爵邸の中を駆け巡った。


 もちろん、マイヤー女史の耳にも入ったのだった。




 * * *




 その日の夜、不幸にもエステルの晩餐はマイヤー女史との授業だった。

 といっても、エステルの食事マナーはほぼ完璧なので彼女に教わることなど一つもないのだが。

 マイヤー女史の独断で、彼女が公爵邸にいる間は週に二回、晩餐に同席すると決められてしまったのだ。


「まったく、信じられませんわ!」


 エステルの予想通り、席についた途端、マイヤー女史の口撃(こうげき)が始まった。


「侯爵家のご令息ともあろう方が、ご友人の、しかも公爵家の夫人を口説くなんて!」


 それは確かに信じられない、とエステルも内心で同意した。


(イアンったら、急にどうしちゃったのかしら)


 その謎は、未だに解けないままだ。

 イアンは騎士に連行されてしまったので、理由(わけ)を聞く暇がなかったのだ。


「もちろん、奥様にも非がございます」

「え、わ、私?」


 エステルは一方的に口説かれただけで、どちらかといえば被害者側である。

 それなのに、いったいどんな非があるというのか。


 マイヤー女史が深いため息を吐く。


「聞くところによると、奥様は彼に口説かれている間、顔を赤くして固まっていただけだとか」


 それを言われると、返す言葉がない。


 エステルは花街育ちだが、娼婦としてデビューする前に兄によって身請けされた。

 その後、社交界に出はしたが、『花街育ち』ということで男性にも女性にも敬遠された。

 一時期婚約を結んでいた伯爵家の令息とは一度か二度顔を合わせただけで、あんな甘い言葉をささやかれることもなかった。


 つまり、彼女には男性に口説かれた経験がないのだ。


 あんな風に男性に甘い瞳で見つめられたのも初めてで、ドキドキして照れてしまったのは仕方のないことだ。


 だが、それをマイヤー女史に説明するのも癪だ。


 エステルは黙ったまま、食事を進めてやり過ごすことにした。


 そんな彼女の様子に、マイヤー女史が再び溜め息を吐く。


「本当に、お育ちが悪い」


 言われ慣れた悪口だ。エステルはそ知らぬ顔で食事を続けた。


「男に色目を使うしか能のない娼婦に育てられるとは……。本当に、おいたわしい」


『おいたわしい』

 その言葉に、エステルの眉がぴくりと動いた。

 気の毒だ、不憫だ、かわいそうだと彼女は言いたいようだ。


 しかも彼女は今、娼婦たちを指して『男に色目を使うしか能がない』と言った。


 エステルはカトラリーを置き、飲み物で喉を潤し、ナフキンで口元を拭いた。

 そのお手本のような所作に、マイヤー女史の頬がひくりと引きつったが、そんなことはどうでもいい。


(さすがに、聞き流せないわね)


 エステルは、じろりとマイヤー女史を睨みつけた。


「私は確かに不運でしたが、決して不幸などではありませんでしたよ」


 丁寧でありながら鋭い声音に、マイヤー女史が大きく目を瞠った。

 次いで、憎々し気に表情をゆがめる。


 予定にはなかったことだが。


(今夜、思い知らせるのも悪くないわ)


 エステルは胸の内で渦巻く怒りに、従うことを決めた。


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