第22話 夫の心配
『あんたは顔がいい。素質がある。がっぽり稼げる女になりな!』
それが、娼館の女将の口癖だった。
彼女は幼いエステルに並々ならぬ期待を抱いていたのだ。
そのため彼女は、それはそれは厳しい教育を受けることになった。
いずれ、立派な娼婦になるために。
『なんだい、この字は! こんな適当な字で書いた恋文で、男が会いに来てくれると思うのかい!? 商売なめんじゃないよ!』
文字の読み書きの宿題で手を抜いたら怒鳴りつけられたし、
『またニキビ! ちゃんと顔洗ったのかい!? このバカタレが!』
顔にニキビや傷を作ったら怒鳴り散らしながら風呂に入れられたし、
『なんだい、そのダサい服は! やり直し!』
選んだ服がダサければ、何度もやり直しをさせられた。
『手を抜くな! 窓も床も、常に美しく!』
掃除の後にはいつも叱られた。
『泣くな泣くな! うっとおしい! 泣いても誰も迎えに来ちゃくれないよ!』
泣いても、慰めてなんかくれなかった。
今にして思えば、女将の姿勢は一貫していた。
この国の法律では、娼婦は十八歳以上でなければならないと決められている。
大枚をはたいて買った少女だったエステルが、娼婦として金を稼げるようになるまで十年以上かかるのだ。
その間、エステルはただのごくつぶし。
女将は投資に見合うだけの利益を得るために、エステルを下働きとして働かせながら、立派な娼婦に育て上げなければならなかった。
そのための教育だった。
厳しく怒鳴りつけられる毎日だったが、決して殴られることはなかった。エステルの顔も体も商品になるものだから、それも当然のことだった。
エステルが売られたのは貴族ばかりを相手にする高級娼館だったから、それも幸運だったと言える。
何より。
『美しくなれ! 賢くなれ! 強くなれ! ……あんたは、ここで生きていくしかないんだよ!』
女将の教育には愛があった。
親に売られたエステルに、生きていく術を教えようとしてくれたのだ。
女将もお姐さんたちも、みんながお互いを尊重し合って生きていた。……客の取り合いで嫌味の応酬を交わすことはあっても、だ。
そこにあったのは、社会の隅に追いやられた女たちの、悲しい連帯だったのかもしれない。
それでも、あの場所には、愛があった──。
* * *
レイチェル・マイヤー、この人の教育は違う。
それに気づいたのは、彼女の淑女教育を受け始めてすぐのことだった。
「まあまあ、筆致はたいへんご立派ですわね。ただし、高位貴族はこのような言葉は使いません。……ああ、奥様の読み書きは花街仕込みでしたね。たいへん失礼いたしました」
嫌味、嫌味、また嫌味。
教育とは名ばかりで、彼女はエステルの粗を探してはそこをつつき続けるばかりだった。
思っていたよりもエステルが教養深くて礼儀作法もしっかりしていたので、それ以外にできることがなかったとも言えるが、それだけではない。
(この人の目的は、私を公爵家から追い出すことなんだわ)
どうやら、『素晴らしい公爵夫人にして差し上げたい!』という、教育者的な情熱をもってここに来たわけではないらしい。
「では、どのような言葉を使えばいいのですか?」
「お分かりになりませんか? まあ、仕方がありませんね。普通のご婦人であれば、自然に身に付くものですが……」
エステルが質問すると、すぐにこれだ。
彼女が親に捨てられたこと、花街で育ったことを、しつこく当てこする。
『お前は公爵夫人にふさわしくない。さっさと出て行け』と言わんばかりに。
さすがのエステルも、これには辟易していた。
(イアンの言うこと聞いとけばよかった……)
そもそも、マイヤー女史にはエステルを認めるつもりなど微塵もないのだ。彼女の目的はエステルを追い出すことだから。
そうなると、この時間は正に、徒労でしかない。
「仕方がありませんね。わたくしが、教えて差し上げますわ」
マイヤー女史がニタリと笑った。
……ように見えた。
きっと、エステル以外の人には、にこりと優雅にほほ笑んだように見えただろう。淑女の見本のように。
だが、エステルは知っている。
女という生き物は、笑顔の裏に悪意を隠す。
この人の笑顔の裏には、彼女自身の悪意と、彼女をここへ寄越した人物の悪意が隠されているのだ。
「お疲れではありませんか、奥様?」
授業を終えて部屋へ帰る道すがら、声をかけてくれたのは若い執事だった。
彼の瞳が、心配そうに揺れている。
マイヤー女史の淑女教育が始まって三日。
その様子を見ている使用人たちに心配をかけてしまっているらしい。
「大丈夫よ」
「しかし……」
エステルは彼を心配させないように、にこりとほほ笑んだ。
「でも、そうね。少し疲れているかもしれないわ」
「では、明日はお休みなられてはいかがですか?」
執事が緊張した面持ちで言った。
その時、
(おや?)
エステルは気づいた。
話しながら歩く二人の様子を注意深く観察している眼がいくつか、廊下のあちこちに見える。
どうやら彼は、使用人たちを代表してエステルに休暇をとるよう説得しに来たらしい。
(まったく、ここの使用人たちは優しすぎるわね)
最初の頃は嫌われていた。だが、ハンドクリームの件をきっかけに距離を縮めて。
今ではこうして、優しさを向けてくれる。
少しずつ時間をかけて築いてきた信頼関係が、今のエステルと使用人たちの間にはあるのだ。
エステルには、彼らの優しさを無下にすることはできない。
「そうね。少し疲れているから、休憩しようかしら」
「では!」
「だけど、明日も授業は受けるわよ」
この言葉に執事の肩がしゅんと落ちる。
「明日も頑張らなきゃいけないから……。そうね、午後のティータイムには、美味しいレモンタルトを食べたいわ」
公爵家のシェフが作るレモンタルトは、エステルの大好物だ。
「厨房に行って、たくさん作ってもらって。お願いね」
「はい!」
エステルの頼みに、執事は張り切って厨房に向かって去って行った。
(あまり、長引かせられないわね)
マイヤー女史の嫌味は、本人よりもむしろ周囲を疲弊させているらしい。
(さて。どうしようかしらねぇ)
エステルは頭をひねらせながら、気分転換のために庭園に向かった。
すっかり道順を覚えてしまったバラの迷宮を、うんうんと考え事をしながら進むと、そこには。
珍しい人がいた。
「疲れているのか」
クライドだ。
咲き誇るバラたちとは不釣り合いな仏頂面の彼が、迷宮の先に佇んでいた。
用事もないのに彼と出会うのは珍しい。しかも、庭園で。
普段は夕食の席に突撃する時くらいしか、顔を合わせないのに。
「どうされたんですか?」
彼の質問に答えるより先に、疑問が口から飛び出してしまうほど、エステルは驚いていた。
「……」
この質問に、クライドは答えなかった。
いつもの気まずい沈黙が落ちる。
「……疲れているのか?」
彼が、もう一度最初の質問を口にした。
「え、あ、はい。まあ、それなりに」
エステルが適当に答えると、クライドの眉間にしわが寄る。
「……」
「……」
再び沈黙。
この沈黙には、もう慣れた。
彼は積極的に話をする方ではないし、エステルの方も沈黙を気まずく感じる性格ではない。
突撃して同席する夕食の席でも、エステルの雑談が途切れれば沈黙したまま食べ進めるだけだ。
(私が娼婦で彼が客なら、もっと話を盛り上げなきゃって思うところだけど)
残念ながら、二人は娼婦でも客でもない。
夫婦だ。
しかも、片方は離婚を望んでいるし、寝室を共にすることもない仮面夫婦。
しかも、彼の愛を買おうとして断られたのはつい先日。
会話が弾むわけがない……。
と、そこまで考えて。
「っ!?」
エステルはハッとした。
(もしかして、これが原因なのでは!?)
彼の愛を買おうとして失敗した件だ。
(もう少し、彼に好かれる努力をすべきだった!?)
金を受け取って愛を売るにしても、気に食わない、嫌いな女が相手では、いくら金を積まれても断りたくもなるだろう。
(『この女になら買われてもいい』と思ってもらえる程度には、好かれる必要がある……?)
うっかり失念していた。
それはそうだ、当たり前だ。
エステルはクライドとは、商売相手として信頼されればそれでいい、と思っていたが。
(それだけじゃ、ダメだったんだわ!)
商売といっても、男と女の話。
それほど単純な話ではなかったと、エステルは反省した。
(だけど……)
この仏頂面の夫に好かれる、というイメージがさっぱり浮かばない。
だが、何もしないわけにもいかない。
まずは夫の好みでも聞き出そうと、エステルが顔を上げると、
その夫と、目が合った。
「……っ!?」
その瞬間、エステルの脳裏を、あの夜の情景がフラッシュバックした。
『エステル』
自分の名を呼んで、腕を引いた彼の姿が。
エステルは慌てて彼から目を逸らした。その顔が真っ赤に染まっている。
(どうしちゃったのよ、私っ!?)
この時、彼女がもう少し冷静だったなら。
夫の方も顔を真っ赤にしていたことに気づいただろうが、もちろんエステルは気づいていない。
「……」
「……」
また、沈黙が落ちる。
だが、今度の沈黙はあまり長くは続かなかった。
クライドが軽く咳ばらいをしてから、歩き出したのだ。
それを無視するわけにもいかないので、エステルも後ろに続いて歩き出した。
二人で連れ立ってバラの迷宮を進む。
クライドの方も道順を覚えているはずだが、まっすぐ出口に向かわないところを見ると、どうやらエステルに話したいことがあるらしいことは分かった。
ややあって、クライドが足を止めた。
「……マイヤー女史の件だが」
「あ、はい」
「君からは断りにくいだろう」
エステルから淑女教育を受けると言い出した手前、確かに彼女の方から断るのは具合が悪い。
さらに言えば、それは『負け』を宣言することなので、絶対に嫌だとエステルは思っている。
クライドは、ごくりと喉を鳴らしてから、
「やはり私から断ろうと思うが、どうだろうか」
そう、小さな声で言った。
彼は、その一言を彼女に伝えるために、わざわざ庭園に出てきたのだ。
相変わらず仏頂面のままだが、その声には優しさがにじみ出ている。
(まさか、私のことを、……心配してくれてるの?)
それに気づいた途端、また、エステルの頬に熱が集まった。




