第18話 男の考えることなんか
涼しい顔でほほ笑むエステルだったが、腹の内では……。
はらわたが煮え返るほどに怒り狂っていた。
(これまでは黙認していたのに、今更……っ!)
テディとその先代たちは、下町や花街の貧しい民のために安価な魔法薬を製造して流通させていた。
彼らが善意で続けていたということは、疑うまでもない。
だがその行為は危険と隣り合わせでもあった。
魔法管理局の魔法薬登録には、厳しい基準が設けられている。
使用する薬草の成分、製造過程で使用する魔法の人体への影響、副作用の有無……。様々な試験をクリアして、初めて魔法薬を登録することが許される。
魔法管理局に登録され、認定魔法使いが製造する魔法薬は、完璧に安全が保障されていると言えるのだ。
それに対して、もぐりの魔法使いが製造する魔法薬は、安全性の試験などほとんど行われていないだろう。
そこにコストを支払うだけの金銭的余裕があるとも思えない。
(国王は国民が危険にさらされているというのに、それを黙認し続けた。安価な魔法薬を下町の民から取り上げた後、それを補填するためのコストを払いたくなかったからよ!)
もしもテディの先代の誰かが認定魔法使いになっていれば、下町に安価な魔法薬は出回らない。そうなれば、様々な問題が起こっていただろう。
それに対応すべきは、もちろん国王だ。
そして、その対応には金がかかる。
だから今日まで、国王はこの問題を黙認してきたのだ。
それを今更になってテディに認定を受けろと迫るのは、まったくもってフェアではない。
(だけど、今それを言っても意味はない)
確かに国王の交渉はフェアではないが、そこをつついたところで彼の考えは変わらないだろう。
そもそも、国王は対等に交渉をするつもりがない。ただ、より大きな利益を得ることだけを考えているのだから。
(落ち着くのよ、エステル。これは交渉。相手のペースに陥ったら終わりよ)
エステルはニコリとほほ笑んだままパンッと音を立てて扇子を開き、口元を隠した。目元は笑ったまま、誰にも気取られないように小さく深呼吸を繰り返す。
提案を一蹴したエステルに、国王は呆れた表情を浮かべた。
「……なるほど。公爵夫人は、ずいぶんとはっきりした物言いをするのだな」
その冷たい声音に、謁見室の空気が氷った。
『ただの伯爵令嬢、しかも花街で育ったといういわく付きの娘が、たまたま公爵家に嫁いで高い身分を手にしたからといって調子に乗るな』と言いたいらしい。
だが、こんな程度の嫌味はエステルにとっては春のそよ風か小鳥のさえずりのようなものだ。
娼館では、もっとどぎつい女同士の嫌味が飛び交っていた。
この嫌味に、むしろエステルは冷静になれた。
(この相手には、勝てる)
そう思ったのだ。
国王はやれやれと言わんばかりに首を横に振り、今度はクライドに顔を向けた。
「グレシャム公爵。そなたは妻と同じ考えなのか?」
これはつまり、『お前の妻をどうにかしろ』と言いたいらしい。
(男のくせに、女々しい奴ね)
エステルは内心で呆れつつも、チラリとクライドに視線を向けた。
(打ち合わせ通りに、頼むわよ)
クライドは少しばかり考えた後、首を横に振った。
「全ての魔法使いは認定を受けるべきだと、私はそう考えています」
その答えに、国王は満足げに頷いた。
「そうだろう、そうだろう」
『ならば、そなたが妻と魔法使いにそう命じよ』と言わんばかりに、国王はネットリとした笑みを浮かべた。
だが、クライドのセリフには続きがあった。
「もしも認定を受けていない方が国益となるなら、その限りではありませんが」
予定通りだ。
今度はエステルがニヤリとほほ笑んだ。
クライドには、あらかじめ『国王に話を振られても私の味方をしないでください』と伝えてあったのだ。さらに『国益』という言葉を持ち出してほしいと頼んであった。
(国王の考えることなんか、お見通しよ!)
エステルが言うことを聞かなければ、夫であるクライドに水を向けることは簡単に予想できた。
妻なら夫の言う通りにするはずだと、この国の男たちはそう信じているから。
(ふんっ)
国王に向き直ったエステルは、またニコリとほほ笑んだ。その空々しさに、国王の顔がヒクリと引きつる。
「私が彼に認定を受けることをすすめないのは、もちろん国益のためですわ!」
少し大げさになり過ぎてしまった。
だが、これくらいの方がいいだろうと割り切って、エステルはさらに大仰に両手を広げてみせた。
「魔法管理局に魔法薬を登録するのは、途方もないほどの手間がかかると聞きました。薬の実験には小さな動物を使うんですよね?」
この問いにはテディが答えた。
「そうだ。動物実験で安全性が確認されてから、はじめて人間を使った治験が行われる」
「それは大変だわ。最初から人間で実験できれば、もっと楽ができるのに。……そうでしょう?」
再び、謁見室の空気がピリリと張りつめた。
エステルが何を言いたいのか、誰もが気づいたのだ。
『貧しい民を使って人体実験すればいい』と言っているに等しい。
だが、それをはっきりと言う必要はない。匂わせるだけで十分。エステルはさらに身を乗り出して、熱心に国王に語り掛けた。
「認定魔法使いでなければできないこともあれば、認定魔法使いだからこそできないこともある。そうですわよね?」
その問いに、国王は答えなかった。
代わりに、ギシリと悔しそうに歯を噛みしめる。
「彼のお話を、私が国王陛下にお伝えいたしますわ。それでいかがでしょうか?」
エステルは何も明言しなかった。
だが、『彼のお話』が、人体実験の結果や、もぐりの魔法使いだからこそ得られた情報や技術の提供を指していることは明白だ。
それらと引き換えに、テディが認定を受けずに商売を続けることを認めさせる。
それが、エステルの書いた筋書きだった。
「……よかろう。月に一度は、訪ねてくるように」
国王が唸るように命じた。
エステルが、勝ったのだ。
* * *
「冷や汗ものだったぞ」
屋敷に戻ると、エステルとテディは再び二人きりになった。
クライドは嫌な顔をしたが、テディにはどうしても彼女と二人で話さなければならないことがあったからだ。
「あら、計算通りだったわよ」
「人体実験のくだりでは肝が冷えた」
「あらやだ、本当に人体実験してるの?」
「馬鹿を言うな。……ある程度は安全性を確認してから、流通させている」
「ふーん」
エステルに半眼で見つめられて、テディはうろうろと視線を泳がせた。
「……まさか、知っているのか」
「そういえば、ってさっき思い出したのよ。空瓶を返して、お小遣い稼ぎしたなぁって」
花街で流通している魔法薬は、使いまわしの瓶に入って販売されている。
その瓶に薬の感想──『よく効いた』とか、『苦かった』とか、内容はなんでもいい──を書いたメモを入れて購入した商店に返却すると、小銭が返ってくるというシステムだった。
「あれって、人体実験?」
「物騒な言葉を使うな。……試作品のデータ収集だ」
「やっぱり人体実験じゃない!」
「ちがう!」
テディは腕を組んでぶすっと頬を膨らませた。
その様子に、エステルが笑みを浮かべる。
「いいじゃない。それで助かる人がたくさんいるんだから」
「だが、今後は王家に情報を提供せねばならない」
「もっと多くの人の暮らしに役立てられるんだから、むしろ良いことじゃない?」
これには、テディは呆れてため息を吐いた。
「その代わり、魔法薬の利益の一部をあきらめなければならない」
「それは、ごめん」
「……美容製品の利益で補填してもらうぞ」
「もちろん、そのつもりよ」
エステルは、改めてテディに向き直った。
そして、真っすぐに彼を見つめて右手を差し出す。
しばらくの間、テディはじっとその手を見つめた。
この手を取るべきか、否か。
(悩むまでもない、か)
ややあって、テディは口を閉ざしたまま、彼女の右手を握った。小さな手が、彼の手を力強く握り返す。
(頭の切れる人だ)
今日も国王との交渉を見事に乗り切ってみせた。
それはひとえに、テディのためだった。
彼の『貧しい民のために魔法薬の製造を続けたい』という願いのために、国王という絶対的な権力を持つ人に立ち向かってくれたのだ。
少しばかり過激なところがあって誤解を招きやすい人だが、その心根は実に真っすぐだ。
「これからも、よろしくね」
エステルが満面の笑みを浮かべた。
その時だった。
ふわり。
しっとりとした、甘い香りがテディの鼻をくすぐった。
『魅惑の香水』だ。
どうやら彼女は、あのハンドクリームを愛用しているらしい。
(それはそうだろう、あれは素晴らしい商品だ)
と、頭では冷静に考えていた。
だが、身体はそうはいかなかった。
全身の毛穴と言う毛穴が開き、どっと汗が噴き出す。
同時に、熱した鉄球のような熱が喉の奥からこみあげてきて。
テディの顔が真っ赤になった。