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第13話 地味でダサい伯爵夫人


 エステルの背に、じわりと汗が伝った。

 まさか、こんな風に正面から見つめられるとは思ってもみなかったのだ。


 他でもない、夫であるクライドに。


「……」


 だが、その肝心の夫はエステルの手を握って彼女を見つめたまま、何も言わない。

 そんな二人を、フロアにいるすべての貴族が注目して見つめている。


 気まずいこと、この上ない。


 エステルはどうしたものかと、心の中で頭を抱えた。

 助けを求めてキョロキョロと周囲を見回せば、ちょうどいいところにイアンがいるのが見えた。


(た・す・け・て!)


 と声には出さずに口だけを動かして訴えてはみたが、イアンはニコリと笑って手を振るだけ。


 八方ふさがりである。


 そのまま時間だけが永遠に過ぎるかと思った。

 だが、さすがにそうはならなかった。


 クライドが、やはり黙ったままエステルの手を離したのだ。


「旦那様?」


 エステルの問いに、クライドがふいっと視線を逸らす。


「……気を付けるように」


 それだけ言って、クライドは足早に去って行った。

 残されたエステルは最悪の気分である。


(なんなのよ! あ、あ、あの、クソ野郎……!)


 乙女にあるまじき悪態だが、心の中に留めることができたので良しとすべきだ。


 貴族たちの視線が彼女に集中する。

 クスクスと嘲笑され、エステルはふんっと鼻を鳴らした。


(夫に振られた公爵夫人、ってわけね。馬鹿にしたければお好きにどうぞ!)


 嘲笑も憐憫も、エステルは慣れっこだ。

 花街を出るまで、普通の女性たちからは、いつもこんな表情を向けられていた。

 あの頃のことを思えば、今の方がよっぽどましだ。


 エステルは、いっそ優雅に、にこりとほほ笑んでみせた。

 それを見た貴族たちは嘲りの表情をひっこめ、気まずそうに彼女から視線を逸らす。


 そんな中を、エステルは堂々と闊歩して、フロアから立ち去った。

 あの状況でエステルに話しかける勇気のある者はいないだろうし、空気は最悪。舞踏会の邪魔にしかならない。

 ここは空気を読んで、一度退席して仕切り直すのが礼儀というものだ。




 * * *




 お手洗いに行ってから、エステルは喫茶室に行くことにした。

 今夜は正式な舞踏会なので、軽食はダンスフロアではなく、別室に準備されているのだ。その喫茶室で小腹を満たしつつ一息入れてから、もう一度ダンスフロアに戻ろうと考えたのだ。


 彼女が喫茶室に入ると、かなりの人数でごった返していた。誰もが食事とおしゃべりに夢中で、話題の人であるエステルが来たことに気づかない。

 これ幸いとばかりに、エステルはささっと軽食を皿に盛った。

 軽食の隣には、飲み物のグラスも並んでいる。

 シャンパンやワインなどの酒類が豊富に取り揃えられているようだ。


(お酒は……)


 やめておこう、とエステルはオレンジジュースを手に取った。

 酒にはあまり良い思い出がない。


 皿とグラスを手に、喫茶室の端へ移動する。テーブルと椅子が並んでいて、そこでゆっくり食事を楽しめるようになっているのだ。


 椅子に座って、ようやく人心地がついた。

 サンドウィッチをかじると、中身はコショウの風味が絶妙な、ローストビーフだった。


(おいしい!)


 貴族の世界に戻ってきて、実は一番うれしいのはこれだ。

 とにかく、食事が美味しいのだ。

 娼館では、いつもお姐さんたちの残り物ばかりを食べさせられていた。内容としてはまともな食事だったが、冷めた肉やスープは美味とは言い難かった。それに、貴族の屋敷に勤めるシェフと、花街の料理人とでは質が段違いなのだ。


 などと考えながら美味しいサンドウィッチに舌鼓を打っていると、ふと隣のテーブルの話し声が聞こえてきた。


「あら、ダービージャー伯爵夫人ではありませんか!」


 一人の貴婦人が、テーブルで食事をしていた女性に話しかけたらしい。

 話しかけた方の夫人は髪に羽飾りを挿した華やかな美人で、対する話しかけられた方の女性、つまり『ダービージャー伯爵夫人』と呼ばれた女性は……、


「は、はい、どうも、こんばんは」


 とてつもなく、地味だった。


 ぼそぼそとはっきりしない挨拶が、その地味な印象をさらに強化する。

 とんでもなく地味で、しかもダサい。

 エステルはその容姿に、かなり驚いた。ドン引きしたと言ってもいい。


(まさか、こんな地味でダサい伯爵夫人がこの世に存在するなんて……!)


 まさに、青天の霹靂である。


 話しかけた華やかな夫人も、彼女のダサさに呆れているようだ。

 というか、バカにしているらしい。

 はっと鼻で笑い、にやりと上がった口角を隠しもせずにダービージャー夫人を見下した。


「相変わらず、ですわね」

「あ、ははは。そうですね」


 ダービージャー夫人はヘラリと笑って、調子を合わせる。自分を卑下することに慣れ切った人間の反応だ。


「今日もお一人ですか?」

「あ、いえ、今日は夫も……」

「あら、一緒にいらしているのに、お一人で食事を?」


 と、クスクスと笑われても、ダービージャー夫人はヘラリとした表情を崩しもしない。


「ああ、でも、そんなにお気になさらないでね」


 華やかな夫人はニヤリと笑って、ダービージャー夫人の耳元に顔を寄せた。


「あの噂のグレシャム公爵夫人も、旦那様に振られたんですって。舞踏会で夫と踊らない公爵夫人がいるんですもの! あなただって気にすることないわぁ!」


 まさか、その当人が隣の席にいるとは思わなかったのだろうが、あまりにも品がない。

 一言言い返してやろうかとも思ったが、エステルは思いとどまった。

 ここで喧嘩をするのは、あまり得策とは言えない。

 自分一人なら勝手にやるところだが、ダービージャー夫人を巻き込むわけにはいかないからだ。彼女は、ムカつく相手をぎゃふんと言わせて喜ぶタイプではなさそうだ。


 その後も、華やかな夫人がベラベラと面白おかしくグレシャム公爵夫人について話し続けるのを聞きながら、エステルは食事を続けた。

 ローストビーフも美味しかったが、ゆで卵のサラダを挟んだサンドウィッチも絶品だった。


「それじゃあ、またどこかでお会いしましょう! おほほほほほ!」


 エステルが食事を終える頃、ようやくダービージャー夫人が解放された。

 その肩がしょぼんと落ちている。

 地味でダサい上に猫背、エステルから見ると、とんでもなく意識の低い女性である。


「ダービージャー伯爵夫人」


 思わず、エステルは彼女に話しかけてしまった。


「はい?」


 振り返った夫人は、見知らぬ人に話しかけられておどおどと視線をさまよわせている。


(……これはもう、運命だわ)


 放ってはおけない。

 この地味でダサい女性を。

 純朴で優し気で、だからそこに付け込まれる。生涯、損をすることになるだろう、この女性を。

 しかも、彼女は自分と同じ境遇だ。


(夫に相手にされないなんて、そんなの悲しすぎるわ!)


 とはいえ、彼女はエステルとは違う。

 彼女自身が変わることができれば、あるいは夫を振り向かせることができるかもしれない。


「変わってみたいと、思いませんか?」


 これではまるで新興宗教の誘い文句だ、と思ったのは一瞬のことで。

 エステルは、この女性を救ってみせると、決意した。



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