シーサイド #魔女集会で会いましょう
おいそれと人を寄せつけぬ断崖にその魔女は住んでいた。
流木の寄せ集めで作られた、隙間風の厳しい粗末な小屋。
ガラスの割れた吊りランプは厚い埃をかぶり、灯りといえば物書き机に置いた持ち歩き用の小さいカンテラのみ。暖をとるための薪ストーブは何十年も前に息を引き取ったまま放置され、調理場には錆びた鍋、ナイフ、触ったとたん崩れ落ちそうな黒ずんだ手ぬぐいと正体不明の骨が山と積み重なっている。
この魔女はいったいどうやって冬を乗り越え、いや、そもそもどうやって生活しているのだろう。
普通の人間なら考えずにはいられない疑問だが、この小屋に辿り着くような人間は、まず、普通ではない。
普通なら抱えきれないほどの巨大な憎悪ゆえに人の道を踏み外してしまった人間。そんな限られた人間しか到達できない、ここはそういう場所だった。
来客用の椅子もないため、女は、床に跪いて、魔女を見上げている。
机に向かって羽根ペンを走らせている魔女の横顔がどう見ても十代前半の小娘なうえ、小さな目、鼻、口にこれといった特徴もなく、あっという間に記憶から消えてしまいそうな平凡な少女であっても、「魔女の力を外見で判断する者は愚か者」という古くから伝えられてきた諺を女は反芻する。
魔女の住む崖には海鳥の声も届かないと聞いていたがその通りで、ドオン、ドオン、と打ち寄せる不吉な波音と小屋全体をがたがた揺らす潮風の逆巻く悲鳴だけが、世界の終わりまで続く音楽だった。
魔女が羽根ペンを置いた。
「必要なことはすべて伺いましたので、もうお引き取りください」
「大丈夫なの? 結果は、いつ頃わかるのかしら」
「春がくる頃になるでしょう」
「……信じていいのね」
「はい。願いは必ず成就します。ただし」
小さな魔女が女の方に体を向けた。
「呪いは、私ではなく、あなたとあなたの周囲に返ってきます。よろしいですか?」
魔女の声は、確かに少女の声帯から出た繊細なものでありながら、驚くほど冷たく、低く、静かだった。
女は答えた。魔女とは対照的な熱い声だった。
「構わないわ。あいつらを破滅させられるならこっちが痛い目をみても、構わない」
「わかりました。ではバスケットをこちらへ」
差し出された両手は栄養失調の子どものように細かった。女は、下唇をぎゅっと噛みながら、布でくるんだ大きなバスケットをその手に渡した。か細い腕が重さに耐えられないのではないかと女は不安に思ったが、魔女は危なげなくバスケットを抱き、布の中ですやすや眠る赤ん坊を観察し始めた。
「……健康に問題はなさそうですね」
「もちろんよ。よく食べるし、よく笑う。目も耳も正常。皮膚も強い」
裸にして確かめてもいいわよと女は自信たっぷりに言った。
「健康な赤ん坊でないと仕事を受けてくれないと聞いたから」
「その通りです。母親を説得するのは大変だったでしょう」
呪いを打つ報酬として赤ん坊を要求しているのは自分なのに、まるで他人事のように淡々と喋る魔女を、女は燃える眼で睨みつけた。
「あたしが産んだのよ。この日の為にね」
少女の姿をした魔女は眉ひとつ動かさず、眠る赤ん坊を抱いて言った。
「見上げた覚悟です。それでは、春をお待ちください」
カンテラの灯りがフッと消え、女と不吉な海鳴りだけがそこに残った。
灰色の空に白い鳥たちがゆっくりと舞っている。
崖の上に立つ若者は、遠く飛ぶ鳥たちに向かって繰り返し指笛を吹いていたが、ふいに背中から
「ムダよ」
と低い声で告げられ、ぱたりと手を下げた。
「鳥はこの崖に近づかないわ。昔から言っているでしょ」
「もしかしたら、ってこともあるよ。魔女ママ」
「ないわ」
「なら、どうして指笛を教えてくれたのさ」
食い下がる若者に、ずっと姿の変わらない小さな魔女は深いため息をつく。風に煽られて踊る長い髪を耳元で押さえ、
「お昼にしましょう」
と古い小屋へすたすた歩き出した。
ここからずいぶん離れた集落から代表としてやって来た女が、呪いの報酬に赤ん坊を差し出してから二十年近い時が流れた。
魔女の小屋は、以前よりは清潔になり、どうやって生活しているのかわからないような環境からは脱していた。
テーブルの上には二人ぶんのパンとミルク、わずかな果物が並び、ドオン、ドオン、と波が崖に打ち寄せる音を聴きながら、それぞれが食べたい分を静かに口に運ぶ。
集落全体の憎しみを晴らす対価としてこの世に生み出された男の子は、亜麻色の髪と鳶色の瞳の綺麗な若者へ成長した。母親の顔を魔女はもう覚えていないので似ているかどうかはわからない。ただ、性格が正反対なのは確かだ。
若者の気立てはのんびり、よく言えばおっとり。
悪く言えば、ぼんやり、うっかりの粗忽者だった。
ほんの少し、頭が足りないのかもしれないと、海の上を飛ぶ鳥に手を伸ばして崖から落ちそうになるたび、魔女は怪しんだ。
危なくてしようがないので、鳥に手を伸ばすのはやめて、指笛を吹くよう教えたのだ。そんなもので鳥が寄ってくるわけはないけれど。
「ねえ魔女ママ。今年の春は、崖を下りていいんだよね」
口もとからパン屑をポロポロこぼしながら若者が言う。
「どうして?」
イチゴのヘタを取りながら魔女は聞く。
「だって、去年も、その前の年も、その前の前も、いつも言うじゃないか。次の春がきたら崖を下りてもいいって。だから、今年こそ、いいんだよね?」
「そんなこと言ったかしら」
「うん、言った」
透き通った瞳から目をそらして魔女は窓の外を見た。どんよりとした雲が覗いている。
「今年はやめておいたら? 悪い風邪が流行っているらしいから」
「去年もそう言ってたよ、魔女ママ」
「そう?」
「うん」
黙って窓を見つめる魔女に若者は怒るでもなく、食べかけのパンを手に立ち上がると小屋から出て行った。
小さな魔女は、こぼれたパン屑をひとつひとつ拾い集め、籠に入れる。
若者の故郷の村は、魔女が約束したあの春に、呪いを打った隣の村もろとも土砂崩れで埋まり、若者の母親もその時に死んでいる。魔女は何も隠さなかった。
水源と土地の利権を巡って何十年も泥沼の争いを続けていた二つの村の間の、復讐の連鎖のひとつの環としてお前は生まれたのだと、すべてを若者が幼い頃に話して聞かせた。
それでも埋もれた村に行きたいと若者は思い続けているようで、律儀に、崖を下りる許しを貰おうとする。
若者の指笛がまた風に乗って響いてきた。
魔女が表に出ると、崖の縁でパンをちぎって投げては、指笛を吹き、鳥の気を引こうとしている姿が見えた。
風は向かい風で、ちぎったパンのかけらは全部若者の顔や体に跳ね返るだけでどこにも届かない。
魔女は後ろからそっと若者の腰に手を回し、抱きしめた。
若者は力なくパンを落とし、からっぽになった手を魔女の小さな手に重ね、次の春は? と呟いた。
魔女は、ええ、次の春にね、と頷く。
激しい潮風が二人の髪を踊らせる。
鳥たちは呪われた断崖を一顧だにせず、弧を描きながら曇天の向こうへ飛び去っていった。