第26話:火焔魔王の御前である09
「ふむ」
およそ炎の翼を収納して、彼は周囲をうかがった。ゲヘナの如き焦熱地獄が辺りを支配している。魔族や魔物……魔人が跋扈し跳梁する。悲鳴が上がり、人が焼け死に、建築が焼け落ちる。まさに此処を人は地獄と呼ぶ。
「帰ってきていたのですか?」
「さっき着いたばっかりですけど」
呆然とするカオスに、彼は肩をすくめた。
「鉄道は止まっているはずですけど」
「そこはまぁソレなりの対処で」
「敵いますか」
「どうでしょうねぇ」
穏やかに。けれども静謐に。彼はスピリットを練った。
「火焔」
まるでコマ落としの映像事故が起きたようだった。一瞬で周囲の炎が鎮火する。
「な――!」
「に――?」
カオスとクラリスが絶句する。火焔の一言が発した劇的な干渉は驚くに値する。
「まぁ魔術だけが魔法でもありませんし」
穏やかな風が吹きすさぶ焼け野原の一面で、魔王と魔神が対峙する。
「し――師匠――」
「どうも。ピア嬢。御機嫌如何?」
「ああ。師匠だ。貴方だけは……憎めない……」
「スピリットが人間に所属していませんしね」
「火焔魔王グランギニョル陛下……」
「ええ。この世の火と熱を支配する魔王にございます」
「あ、ああ、アアアァァァアアァァァッ」
人類の祈りが破滅を加速させる。それこそ霊長悪とでも呼称すべき霊障だ。
「お願い。止めて」
「そのつもりですよ」
「大概・爆裂・火焔!」
魔神の魔術が膨れあがる。閃光。熱波。衝撃。爆音。灼炎。焦土が順次展開される。そのあまりといえばあまりな火焔の産声にアリスは完全に巻き込まれた。酸素が欠損し、熱が文明を消去する。ビッガ級はおよそ人間の限界に迫る呪文構築だ。コレより上はもはや神話のレベルである。無論のこと生きていられるはずも無い。
「アリス様!」
「アリス!」
悲鳴と言うより慟哭にも似たカオスとクラリスの声に、けれども返る言葉もなく。その望まれた声は、むしろ魔神に向けられた。
「失敬な。火焔魔王の御前であるぞ」
学院都市をクレーターに変える熱量の炎が収まると、吹きすさぶ乾風の中で埃一つ付いていない魔王。彼はその場を一歩も動いていない。
「な……」
「まさか火焔でこのグランギニョルを弑しようと?」
絶句したのは誰しも平等だった。呪文も構築していない。ましてスピリットは発されていない。けれども其処には魔法があった。
「何をしたので――?」
こと炎の魔神すらも素っ頓狂に問うのみだ。
「元々四元素は世界のルール。吾輩らはその起源。こと火属性の魔術に関しては吾輩はそのままスピリットに還元することが出来申しますれば」
――有り得ないことを言った気がする。
アリス以外の全員がそう念じた。要するにアリスの話を解釈すると他者のスピリットで出来た現象を自己に落とし込んで力量に補填できると言ったのだ。
「大概・奔流・火焔!」
兆熱の焔が大河と為って学院を襲う。
「何度やっても結果は変わりませんよ」
その魔神の炎を全部スピリットに彼は還元せしめた。周囲の火の手は沈んで、焼け野原の中でただ生きている人間は生唾を呑み込むように魔王と魔神に見惚れている。この場合、魔術のレベルが高すぎて逃げようにも学院程度の範囲はもはや彼らの射程圏内だ。
「大概・落天・火焔!」
「大概・断罪・火焔」
炎の地獄と炎の楽園がぶつかり合う。それこそ灼熱地獄が場に降臨したような錯覚さえおぼえてしまうのが実状だった。酸素が燃え尽き、なのに炎は益々猛り狂い、辺りの気温が青天井に上がっていく。
「もう少し離れた方が宜しいのでは?」
「火焔魔王は大丈夫でよ?」
「まぁ熱死の火山に比べればこの程度は」
魔界の最奥にある魔王の御座。たしかにアレに比べれば今この惨状すらも安楽だろう。それこそ魔王か勇者しか踏破できない絶倒だ。
「し……しょう……」
「そんな苦しまなくても暴れるだけ暴れればいいじゃないですか」
「師匠は……いいの……」
「どうせ貴方の裁量では死ねませんしね」
殊更学院の平和を守るとも言えない魔王だった。
「ピアのお母様も案じておいででしたよ」
「ああ。迷惑を――」
「卑下もするでしょうけど、親御さんの愛は本物のようで」
「ピアは――生まれてきちゃいけなかった――」
「うーん。それはどうでしょう。少なくとも吾輩は望んでいますけど」
「迷惑じゃない?」
「端的に申して」
魔神の問いにあっさり答える。
「大概・落天・火焔!」
「いいんですけどね」
落ち行く天の焔を彼は自己のスピリットへと還元していく。魔神の優位性は此処に崩れた。魔王の特性が数歩先を行っている。
「殺すの――?」
「殺して欲しいですか?」
多分ソレは本気だったろう。彼女自身の問題だ。たとえ親で王で責任が帰結しても、ストレリチア陛下にすら手出しできない問題。
「でもピアを殺さないと……ピアは文明を更地に変えるよ?」
「もちろん出来るでしょうね」
そこは疑っていない。聖術が霊長の結論なら、その程度は適うだろう。むしろ現在学院都市レベルで災害が収斂しているのがどちらかといえば幸福に属する了見だ。
「火焔魔王陛下の大事なモノも……燃やしてしまう……」
「ピアはそうやって自分の心を燃やして平気なのですか?」
「心」
「スピリットです」
「そんなもの……」
「無いのならむしろ魔族以上に魔性ですけどね」
「ピアは魔神。この世を滅ぼすために生まれた――」
「その詭弁は誠に遺憾なのですけど」
「何を――」
「心底からの本音で答えて欲しいのです。吾輩のことは燃やしてもよろしいと」
「嫌……だよ……」
「カオス嬢は? クラリス嬢は?」
「嫌だけど……燃やしたい……」
「デストルドーも中々難儀ですね」
事の収束は魔王であればこそ容易く可能で。仮に人だった場合は同じだけの因果が必要となる。例えば希望とか幸福とか。
「師匠だけは嫌いになれない」
「あるいはピア自身より?」
「人類は人類が嫌い」
「その衝動を抑え込むのにも一苦労なんでしょうね」
「なんでこんな――」
魔神の涙は地面に落ちるより早く場の温度によって蒸発する。
「こんなことに……なったんだろう……」
「さてね。吾輩はまぁ魔族依りなので人間の集合意識にはどうにもこうにも」
大気を声帯で振るわせつつ、彼は魔神に歩み寄った。
「嫌――」
「大丈夫ですよ」
引きつる魔神の哀愁顔に、彼は可憐な笑みを見せる。
「大概・奔流・火焔!」
「だから効かないんですって火属性は」
いくら魔神とは言え人間の裁量で造り上げられた偶像だ。魔王はどちらかと云えばワールドセオリーに属している。出力に関しては同値であっても、特性としては魔王の方に軍配は上がった。
「ぅ……わあ……」
「さて、今のマギバイオリズムで可能かどうか」
火焔が迸る。スピリットが荒れ狂う。乾風の収束する大気鳴動の中で、炸裂する熱波を穏やかに魔王と魔神は感じていた。
「来ちゃダメ。来ないで。来るな――」
「幾らでも拒絶して構いません。それでも言うことは聞いてあげませんけどね」
皮肉っぽくアリスは微笑んだ。癇癪を起こす子どもに対するような。それは魔神を見る魔王の采配で。
「こんな私……」
「ええ。恥ずかしいでしょうね。でもそんなことを魔王が斟酌するとでも?」
「ぁ――ぅ――」
火焔をドレスのように纏う文明の終焉に、世界に免疫が解すような優しい抱擁を与える。
「師匠――」
熱くないのか。ビッガ級の火焔を纏っている魔神を抱きしめて火傷もしないのか。無論のこと火焔魔王にとってはソレすらも愛おしい自分の配下だ。
「ゴメン」
「気にしてませんよ」
熱によって紅にちらつく白金色の髪を撫でて、魔王は呪文を構築した。
「極大・補填・火焔」
人間としての性能を超えたオメガ級の呪文。魔王にだけ許された采配。その全てを補填に回す。火焔が巻き戻る。スピリットのレベルで場が収束してしまう。この世を焼き滅ぼし能う魔神の熱業すらも沈静化させ。
「あ」
清澄な音が鳴って、熱が昇華された。この世の衣服を身に纏ったピア……ピーアニー=ガーデンが人間の姿でアリスに抱きしめられている。
「あ……あ……」
「よく頑張りました。花丸を上げましょう」
「何も解決してないよ……。ピアはやっぱり人類が嫌い……」
「いいんじゃないですか?」
ただそんな卑下は魔王には理解できない。
「人類なんて嫌いで良いんですよ。別に博愛主義が絶対正義でもあるまいし」
抱きしめる熱量はあるいはさっきまでの灼熱地獄より苛烈かも知れず。
「言ってしまえば吾輩もあまり人間に肯定的にはなれませんし」
「あう……だよ……」
ドモるピア。
「ピア……も……?」
「いやまぁ例外は在るモノで」
困ったように魔王は呟いた。
「ピアのことは好ましいですよ」
それは世界の拒絶反応としてはまま妥協にも似た優しさだった。
「師匠……好き……」
「そこら辺の相互理解についてはまぁ後刻として。ゲホッ――」
彼は血を吐いた。
「師匠!?」
「さすがにオメガ級は人体のマギバイオリズムに適応しませんか……」
何事も万事めでたしめでたしとは行かないと言うことだろう。




