第二話「はじめてのメール」第4節
非常ベルの耳障りな甲高い音は、止まることなく鳴り続けた。
「これって避難訓練とかじゃないですよね」
不安にかられる藍。
マイブリットは、タブレット端末を操作していた。先ほどよりも速い手つきで、眉間に皺を寄せている。緊張感の漂うマイブリットのそんな姿を、藍は以前にどこかで見たような気がした。記憶を掘り起こそうとすると鈍い頭痛を感じ、集中して思い出すことができなかった。
藍の視線に気づいたマイブリットが緊張感を払い、「何か言った?」と何気ない様子で尋ねる。藍は自分が感じたことを正直に答えようとしたが、胸の中の何かがそれを引き留めた。
----非常ベルが唐突に止まり、館内放送を伝える短いチャイムが届く。
「お客様にお知らせいたします。先ほどの非常ベルについて現在調査をしておりますが、万が一に備えて皆様の安全を確保するため、スタッフの誘導に従って行動してください。エレベーターやエスカレーター、階段で移動中のお客様は、最寄りの階へ移動し、スタッフの指示があるまで動かないようにお願いします」
同じ内容で館内放送が繰り返される。藍とマイブリットは、動かないエスカレーターで上階へと進んだ。雑貨や文房具の店を集めたフロアのエスカレーターまわりの広い空間で藍たちが待っていると、次第に人が集まりつつあった。
「マイブリットさん。ここで何か調べる必要があったって、ひょっとして……」
「まだわからない」
マイブリットなら何か知っているのではないかと期待したが、あっさりと否定されてしまった。マイブリットは警戒するように、周囲へ目を配っている。
「そうですか……すぐに解決するといいんですけど」
「心配いらない。大丈夫だから」
意気消沈する藍に、マイブリットが力強い言葉をかける。その言葉に、藍は安心感を抱いた。
再び、非常ベルが鳴り響く。
それが合図であったかのように、どこからか煙が流れこんできた。煙は次第に濃さを増し、何かをいぶしたような臭いが鼻を刺激する。
どこかが燃えているのではないか。そんな声がそこかしこからあがる。
「ほ、本当に大丈夫ですよね……」
先ほどの安心感が早くも揺らぐ。マイブリットは頷きつつも、藍とは目を合わせず何かを考えこんでいるようだった。
施設のスタッフたちが急いでやってきた。そのうちの一人が、小型の拡声器を通して呼びかける。
「みなさん、落ち着いてください。この施設は防災基準もクリアしてますから安全です。これから、隣の棟へと避難します。慌てず、スタッフの誘導に従ってください」
隣の棟へ移動するためには下のフロアへ戻る必要がある。このフロアに集まった人たちが安全に移動できるよう、列を作ることとなった。
マイブリットがタブレット端末を操作し始めたため、列形成の流れには遅れるように、藍たちは最後尾の二人となった。
列が徐々に移動を開始する。マイブリットが小さく舌打ちし、タブレットの画面を睨みつけた。薄い唇が小さく動き、何かを呟く。それを見た藍は、マイブリットの仕事の内容とこの状況がやはり関連しているのだと確信した。
藍たちがエスカレーター近くまで動いた時、上のフロアから一段飛ばして駆け下りてくる人影があった。それは佳波で、このフロアにいたスタッフたちと何事かを早口で相談すると、フロアの奥の方へと走り始めた。
「佳波ちゃん!」すぐ近くを通りすぎようとする佳波を、藍は呼び止めた。
「藍?! ここにいたの?」
「うん。いったい何が起きたの?」
「ごめん、後で話すから。今は避難指示に従って」
佳波は切羽詰まった様子でそう言い残し、再び走りだす。
「マイブリットさん、佳波ちゃんをお願い! きっと、何か関係してると思うから」
藍は反射的に告げた。うまく理由をつけられないが、直感めいたものがあった。マイブリットが仕事で調査を進めようとしていたこの施設で問題がおき、佳波があせってどこかへ向かおうとしている。藍としては、そこに関連性があるとしか思えなかった。
「わかった。アイは安全な場所へ避難しておいて。解決したらすぐ戻るから」
マイブリットは頷き、佳波の後を追う。呼び戻そうとするスタッフに、佳波の知り合いだから大丈夫だと藍は苦しい言い訳をするしかなかった。
そんなやりとりをしていた間に、集まっていた人々の列は下へ移動し終わっていた。
最後となった藍が停止しているエスカレーターで下のフロアに到着すると、スタッフたちがトランシーバーで何事かをやりとりしているの聞こえた。他のフロアにいた人々もエスカレーターや階段で移動し、他の階の連絡用通路を使って避難を続けているらしい。近くのスタッフがトランシーバーでの会話を終えると、あちこちから金属をけずるような音がフロアに響き始めた。防災用シャッターが下りてきた音だ。
防災シャッターは店舗やフロアの各所を断絶する仕切りとして設置されていた。シャッターが閉まりきると、フロアは地味で無機質な空間となった。
避難経路にはスタッフたちが立って誘導しているため混乱は起きていないが、移動の動きは鈍くなっていた。非常ベルはまだ断続的に鳴っているため、スタッフたちは避難中の人々を落ち着かせてようとしていた。
防災シャッターで空間が制限されたためか、煙の濃さが増しつつある。目に染みるような痛みを感じ、藍は目を瞬かせた。煙に、黒いものが混ざり始めている。列の最後尾の藍はハンカチで口元と鼻を覆った。
藍の後ろにいたスタッフがトランシーバーで何かをやりとしている。トランシーバーの調子が悪いのか、何度も相手に聞きなおしていた。
「わかりました。すぐ手伝いに向かいます」
連絡を終えたそのスタッフは、このまま流れにそって進むよう言い残すと、列の先のほうへと走っていった。別の場所の人手が足りないのだろう。藍たちの列も、なかなか前へ進むことができない。
藍は佳波とマイブリットのことが気になった。二人に任せておけば安心だと信じているが、危ない目にあっていないか心配でもある。
藍はショルダーバッグからスマートフォンを取りだした。電波状態が圏外表示になっている。次の瞬間には電波を受信できている表示に変わったが、すぐに圏外表示に戻ってしまう。それが何度も繰り返された。
藍は佳波に「大丈夫?」と短いメールを作成した。何度も電波状態が変わって待たされてしまったが、なんとかメールは送信されたようだった。
ふと気づくと、列を形成していた人々の姿は見えなくなっていた。メールに手間取っている間に、先へ進んでしまったようだ。
急がなきゃ、と藍は早足になった。幸い、隣の棟へつながる通路は先ほど目にしていたので場所がわかっている。
----ふと、泣き声のようなものが聞こえた気がして、足を止めた。
耳を澄ましてみたものの、非常ベルの音が響いているせいで本当に聞こえたか自信がもてない。藍は周囲を見回したが、人影は見当たらない。釈然としないまま先を急ごうとした藍は視界の隅に、青と赤の小さな人型のサインをとらえた。
先ほどこのフロアで見かけた姉妹の姿が脳裏をよぎる。
藍は迷うことなく、そのサインの先にあるトイレへと走った。
トイレの区画はフロアの奥まった位置だった。藍が女性用トイレの区画に入ると、泣き声がはっきりと聞こえた。煙が充満しており、個室ドアの前の小さな人影がようやく判別できる程度だ。先ほどの二人のうち、背の高いほうの女の子が泣きながらドアを叩いている。
「どうしたの?」
藍が尋ねると、女の子は泣きついてきた。
「妹がドアを開けてくれないの」
個室の中からも泣き声がする。鍵を開けるよう藍は声をかけたが、中にいる妹は泣いてばかりで埒があかない。この状況で閉じこめられ、パニックに陥ってしまっているようだ。
藍は個室のドアの上端に手をかけて懸垂のように登ろうとしたが、自分の体を引き上げることはできなかった。隣の個室に移り、便座の蓋を踏み台にしてどうにか仕切りを乗り越え、泣き声の主のそばに降り立った。
「よく頑張ったね。もう大丈夫だからね」
藍が言葉をかけると、小さい体が抱きついてきた。少しでも落ちつかせようと頭を撫でながら、ドアの鍵を開けた。
「パパとママは?」と姉のほうが尋ねる。
「他のみんなと一緒に避難しているはずだから、あたしたちも急ぎましょ」
藍は二人を連れて、避難先へとつながる通路を目指した。煙の濃さが増している。姉妹は何度も咳きこんでいた。
「おねえちゃん、目が痛い」
「もう少しだから、今は我慢してね。これで鼻と口をおさえて」
藍はハンドタオルとハンカチを二人に渡した。先を急ごうとしたものの、妹のほうが「もう走りたくない」とぐずりだした。
「じゃあ、あたしがおんぶしてあげるから」
藍は小柄な少女を背負い、姉のほうの手を引いて走った。
ようやく隣の棟への連絡通路の近くまでたどりつくと、煙で悪くなった視界の先から、金属をひきずるような重たい音が届いた。通路を塞ぐための数枚の防災シャッターの音だとわかった時には、すでに藍の腰の位置ぐらいまで下りてきていた。二人を連れたこの状態では間に合いそうもない。
困惑する藍は視界の端の椅子に気づいた。先ほど自分が腰を下ろしていた椅子だ。頭にひらめくものがあり、「あれだ!」と声をあげる。
「ちょっと手を離すけど、ちゃんとついてきてね」
藍はつないでいた手をほどいて背中の少女を下ろし、椅子に駆け寄った。持ち上げることはできそうにないが、動かせないことはない。藍は威勢のよいかけ声とともに椅子を引きずり、振り回すようにしてシャッターの下へ放り投げた。
耳障りな甲高い音とともに、椅子は防災シャッターの一枚を食い止めた。横に倒れた椅子の四脚が、ちょうどトンネルのようになっている。木製の脚は、まだ下りようとするシャッターの重みに耐えながらも軋みをあげていた。
「ここをくぐって! 早く!」
藍の意図をくんだ姉妹が、椅子の脚で囲まれた空間へ体をもぐらせていく。小柄な妹は難なく向こう側へ進み出たが、姉のほうはもたついている。藍が手を貸して尻や足を押しこむと、ようやく椅子のトンネルから抜け出した。
「こんなことになるならダイエットしとけば良かった」
続こうとして藍が四つん這いになりかけた時、シャッターを支えきれなくなった椅子の脚の一つが折れた。バランスが崩れた椅子を、シャッターが藍のいる方向へ弾き飛ばす。
とっさに身をかわした藍の耳に、シャッターが完全に閉まりきる音が届いた。
「おねえちゃん」とシャッターの向こう側で姉妹たちが叫び、シャッターを何度も叩く。
「あたしは大丈夫、先へ行って。隣の建物に、あなたたちのパパやママが待っているはずだから」
二人が不安にならないよう、藍はできるだけ落ち着いた口調で伝えた。シャッターを叩く音が止まり、「ありがとう、おねえちゃん」との言葉が聞こえた。
一人取り残された藍は、シャッターに近い壁のあたりを調べていった。非常時に備えてシャッターを開ける仕組みが備わっている様子をテレビや映画で見たことがあったのだが、それらしい設備は見当たらない。探している間にも煙はなおも充満していった。目が染みるだけでなく、息苦しい。
「そうだ、携帯!」
藍はスマートフォンを取りだした。佳波に電話するが、電波の状態が悪く、つながらない。親と119番にかけてみても、反応がなかった。
あせっていると館内の照明が一斉に消えた。驚いた拍子に、藍はスマートフォンを落としてしまった。
真っ暗な中、床の上を手探りする。なんとかスマートフォンを探し当てた時に変なところを触ってしまったのか、マナーモード解除と表示が出ていた。スマートフォンをライト代わりに使おうと操作していると、照明が戻った。非常灯らしく、明かりは弱い。煙も濃く充満しきっており、隣の棟へつながるシャッターがどちらにあるのかも見当がつかないほどだった。
「とにかくどこかへ避難しなきゃ」
立ち上がった拍子に藍は軽い目眩を感じ、壁に手をついた。大きなあくびがでてしまい、眠気が強くなってくる。
風通しのいい場所で休まないと----と、ここから離れようとするが、足が重くて思うように動かない。力が入らなくなり、藍はその場にへたりこんでしまった。
頭を働かせようとすると、奥が鈍く痛む。藍は以前にも同じような感覚があったような気がした。
「あれって、確か……」
忘れていた何かに手が届くような感覚の後、まるで突然の停電のように、藍は意識を失った----
--つづく--