第二話「はじめてのメール」第2節
翌日、藍は学校へ行く時間よりも早めに家を出て、バスに乗った。
多少時間はかかるが、目的の商業施設に隣接する明日羽駅へ直通の路線で、途中までは通学定期の圏内のおかげで安く済む。
家の近くの停留所から乗った時には座席に余裕があったものの、次第に混雑し、終点が近づく頃には新たに乗客を乗せることができない程だった。終点にバスが到着すると、皆慌ただしく降りていく。エアコンの効きが悪く、蒸し暑さもあって人酔いしかけていた藍は最後の一人となってバスを後にした。
朝の熱気がまとわりつく。まだ湿気が少なく、駅前に立ち並ぶビル群のおかげで影が広がっていることがせめてもの救いだった。そうはいっても、汗は容赦なくふきだしてくる。藍はショルダーバッグから小さめのハンドタオルを取り出し、額と首回りを軽くたたいた。数は多くないクローゼットの中から、通気性が高くて動きやすい服装を選んでおいて助かった。
多くのバスが出入りするため、駅前には大きなロータリーがある。古くからのデパートや雑居ビルがロータリーを取り囲み、細い路地となって広がるアーケード型のテナントエリアが伸びていた。藍がこの明日羽駅にきたのは四か月ぶり、中学校卒業のお祝いの食事で家族と訪れた時以来だ。
駅前のモニュメントそばにある時計は9時すぎを示している。藍と同じバスを降りた人々は、みんな駅の反対側へと向かっていた。
藍は念のため招待状の地図をもう一度確認し、到着したばかりの別路線のバスから降りてきた人々の流れについていくことにした。
明日羽駅は複数の路線が入りこみ、旅行向けの特急電車の停車駅でもあるため、コンビニやファストフードの店が入っている。藍が知る限り、それらの店はいつも混雑しているはずだったが、今朝は珍しく空いていた。
駅の反対口へと出た藍は、感嘆の声をあげた。
藍が前回こちら側に来たのは二年ほど前だ。その時はさびれきっており、シャッターが閉まっている店舗も多かった。少し前から大規模な開発が始まったとは聞いていたが、大きく様変わりしていた。
老朽化していた駅周辺の雑居ビル群は一掃され、タクシーや一般の乗用車が楽に出入りできるように、それでいて歩行者の移動も遮ることのないよう整理されている。見通しもよく、離れた位置にある大きな森林公園の木々の上端が遠目に見えた。使いにくいと評判だった小さな駐車場もなくなっており、ベンチも備えた、キッチンカーが数台停まっても余裕のある駅前広場となっている。
「なんか急にお洒落になって、明日羽駅じゃないみたい」
変われば変わるものだ、と感心しつつ、人の流れにまかせて進む。歩道橋の階段を上がったところで、拓けた視界のその先に高くそびえる建物が見えてきた。藍の目的地である、完成したばかりの商業施設----ロカーラだ。
あたりの建物から抜きんでて上に伸びていることもあり、遠目にはロカーラは二基の塔のように見える。歩道橋はロカーラへとつながる広い専用通路と化しており、大通りを走る車や近隣のビル前を歩いている通行人に邪魔されることなく駅から移動することができた。
藍は十分ほど歩いて、ようやく歩道橋の終端に到着した。以前は地味な公営プールと運動場があった場所だが、今では広場となっていた。大きな噴水があり、貯まった水は人工の川となって森林公園のほうへと伸びている。手入れのゆき届いた木々も多くて穏やかな雰囲気で、街の中のオアシスとして格好の場所だろう。
その広場では、大勢の人々が並んで長い行列を作っていた。
「うわー、これ全部入場待ちのお客さんなの?」
藍は困惑し、うめきをもらした。
長い列は何重にも折れて連なり、その先頭にロカーラの入口がある。地上十数階建ての、オフィス用と商業施設用の2棟で構成され、総敷地面積は大型野球場数個分と噂されている。近代的な建物として安定感のある様式だが、随所に曲線や幾何学的な装飾も用いられ、焼き煉瓦を思わせる明るい基調と清潔感のある大理石風の色合いのせいで、海外の伝統ある建築物のような印象を与えていた。
「都心からのお客さんも見こんでいるって佳波ちゃんが言ってたけど、本気だったんだ……」
明見町や周辺地域からの人入りだけにとどめておくにはもったいないほどの大がかりで豪勢な施設であることは、素人の藍にも理解できた。期待しているお客さんがたくさん朝から詰めかけているのも納得だ。
藍はロカーラへの入場待ちの列を目で追い、最後尾を探した。スタッフらしき男性が「最後尾」と記されたプラカードを片手で掲げながら、もう一方の手に持ったハンディマイクで案内を繰り返している。入場規制がおこなわれているらしく、入場予定時間を聞いた藍は耳を疑い、広場にある時計で時刻を確かめた。
「この陽射しの中で2時間も立ちっぱなしなんて、あたし倒れちゃうよ。佳波ちゃんには悪いけど、帰ろうかな」
自分の体力なさを呪いつつ、佳波に対しての申し訳なさも強く、悩んでしまう藍。
中に入れなくてもせめて外からの様子や周辺を把握しておけば、佳波にも少しは義理が果たせるだろう----そう自分に言い聞かせて、藍は散歩がてらひとまわりすることに決めた。
入場待ちの正面広場から離れると、人の気配は急に途絶えた。地階にある正面以外の出入口は、今日は締め切られているようだ。藍の頭上にはロカーラの外壁に添う形でテラスエリアも兼ねた遊歩道が伸びており、地階とを結ぶ階段もある。
しばらく歩いていると、ロカーラの地下に入る大型駐車場の出入口や、奥に広がる森林公園が見えてきた。このまま進めば、森林公園を彷徨い歩くだけだ。藍は近くの、遊歩道へと上る階段へ向かった。
階段へと回りこんだ藍が手すりに手を伸ばしたところで、降りてきたばかりの人影とぶつかりそうになった
「あ、ごめんなさい……って、マイブリットさん?!」
驚きの声をあげる藍。
「アイ?」と、足を止めた人影が目を瞬かせる。それは、藍が見間違えようのない、見慣れた制服姿のマイブリットだった。いつものトートバッグも肩にかけている。
「やっぱりマイブリットさんだ! こんなところで会うなんてびっくり。上で何やってたんですか?」
藍の好奇心にマイブリットは「ちょっと、ね」とばつが悪そうに視線をそらしながら答える。
藍が階段の上のほうを見やると、マイブリットの後ろに緊張感を漂わせた三人の警備員の姿があった。その中のひとり、一番年上のような男性が藍に声をかけてくる。
「きみ、この子の友達かい? この子がさっきから施設内に無理やり入ろうとして、
私たちも困ってるんだ。きみからも何とか言ってくれないか?」
警備の男性の説明によれば、マイブリットは従業員専用の入口のあたりをうろついているところを見咎められたり、鍵のかかってない窓を探して危険なところへよじ登ろうとしていたらしい。
「えっと……」
藍は返答に困った。マイブリットは弁解どころか、他人事のように遠いところを眺めている。初めて明見高校にやってきた時のように、マイブリットが無茶なことをしたのは間違いなさそうだ。何か事情があるのだとしたら、フォローするべきだろう。幸い、今の自分には文字通りの切り札がある。
「マイブリットさんもロカーラに入りたいなら、一緒にどうですか? あたしちょうど、今日の招待状もってるんですよ」
藍は警備員たちにも見えるように、バッグから取り出した招待状をパタパタと振って見せた。厄介ごとが解消されそうだと悟ったのか、警備員たちの表情から険しさが消える。
「招待状には人数制限があるらしいけど」と、マイブリットがあたりの様子をうかがいながら尋ねる。同行者がいないか気にしているのだろう、と藍は考えた。
「大丈夫です。あたし一人で来ましたから、遠慮しないでください。ただ、けっこう待たされそうなんですよね……」
言葉を濁す。藍としてはマイブリットも一緒なら入場待ちにも耐えられそうだが、マイブリットのほうは長時間待つことに抵抗があるかもしれない。。
「ちょっとそれを見せてくれるかい?」と警備の男性が話に割って入ってくる。藍は招待状を広げてみせた。
「ああ、やっぱりだ。この招待状なら列に並ばなくても優先的に入れるよ」
男性によればこの招待状はごく少数の関係者や来賓向けのもので、専用の受付があるらしい。藍は詳しく場所を尋ねた。
「ありがとうございます。マイブリットさん、行きましょう」
藍は笑顔でマイブリットの手を取って、先を歩いた。マイブリットは少しの間躊躇っているようだったが、やがて観念したのか、素直に藍に引かれるがままになっていた。
「まさかここでマイブリットさんに会うなんて思いませんでしたよ。実は昨日誘おうとしてて……あ、でも、お仕事のほうは終わったんですか?」
入口へ向かいながら藍が尋ねると、マイブリットからは否定とも肯定ともとれる曖昧な短い返事があった。なんとなく釈然としないものがあったが、ロカーラの正面入り口へ辿り着いたため、この話題は切り上げるしかなかった。
先ほどよりも長くなった行列を避けて、教えてもらった専用受付を探す。その受付は一般客向けの入口から離れていたが、列に並ぶ人々からの羨望の視線を避けることはできなかった。
警備も兼ねたスタッフに招待状を見せ、ガラス張りの回転ドアを一人ずつくぐる。建物の中はエアコンが効いており、熱くなっていた体を冷やしてくれた。藍が心地よさに足を止めて冷気を堪能していると、遅れて回転ドアをくぐったマイブリットから軽く肩を指でつつかれ、先をうながされた。藍はあわてて、目の前の受付へと進む。
白い布で覆われた長細いテーブルに、見慣れない薄いノートのようなものや、高級そうなトレイが並んでいる。藍とマイブリットの他に客はいない。藍は緊張しつつ、テーブルの向かい側に立つスーツ姿の女性スタッフへ招待状を手渡した。
「本日はロカーラのプレオープンにお越しいただき、ありがとうございます。こちらにお名前と所属団体名をご記入いただけますか」
女性スタッフは丁寧に挨拶した後、スタンドから万年筆を取り、両手で藍へ差し出した。ひと目で高級品とわかる明るい装飾の万年筆だ。藍が両手で受け取ると、存在を主張するような重量感があった。
自分たちは場違いな存在ではないだろうか----そんな思いとともに、緊張感が募る。
薄いノートに名前を書こうとすると、所属団体の項目で手が止まってしまった。既に記入されているものは、報道機関や一流どころの企業名ばかりだ。藍は学校名を書くつもりだったが、広げられたページの中には学校名を書いている人はいない。
よく見れば、そもそも授業で使うようなノートではない。藍は昔の記憶を探った。親類の結婚式で似たようなものを見かけたことがある。これは芳名帳と呼ばれる類のものだ。あの時は確か、招待客として親がご祝儀を高級そうな盆に載せていた気がする。
「あ、えっと……」
言葉に詰まる。スッと血の気が引くのを感じた。ご祝儀など出せるはずもない。
藍はマイブリットに助けを求めようとしたが、当のマイブリットは少し離れたところでこの施設の案内板を真剣に眺めており、藍の窮地には気づいていない。壁際にはお祝いのための豪華なスタンド花がたくさん並んでおり、藍を威圧してくる。
藍が震える声でマイブリットを呼ぼうとすると、「代表者様のお名前だけで結構ですよ」と受付の女性の笑顔で牽制された。
そうじゃなくて、と藍が半ば泣きながら困っていると、聞き覚えのある話し声が耳に届いた。かすかな望みととともにそちらへ顔をやると、少し離れたところに藍のよく知る少女----佳波の姿があった。連れの女性スタッフと何事かをやりとりしている。
佳波はいつものお洒落な私服や制服ではなく、就職活動の大学生のような紺色のスーツ姿だった。施設のスタッフであることを示す写真入りのカードを社員証のように首にかけ、細身で長い黒髪の佳波がいつもより大人びて見える。
「佳波ちゃん!」
藍は大きな声をあげ、両手を大きく何度も振って合図を送る。気づいた佳波は女性スタッフとの会話を切り上げ、藍のほうへ笑顔で駆け寄ってきた。
「よく来てくれたわね。ありがとう」
「佳波ちゃん、助けてー」
挨拶を返すことも忘れて、藍は佳波に抱きつく。涙まじりで、自分が陥っている苦境を早口で説明した。
佳波は、呆れたように眉間に皺を寄せる。
「所属団体のところにはアタシの招待とでもテキトーに書いとけばいいわよ。あと、ご祝儀なんているわけないでしょ。あれは、もらった名刺置き場」
佳波のアドバイスに従い、藍は受付スタッフから訂正が入らないうちにと急いで記入すると、安堵の息をついた。見守ってくれていた佳波が満足そうに頷く。
「春休みぶりね。元気してた? で、ちゃんと彼氏誘ってきたのかな?」
「佳波ちゃんも、あいかわらず元気そうだね」
佳波の視線が藍の背後へと動く。藍は、マイブリットがそばに戻ってきたことに気づいた。
「彼氏じゃないけど、紹介するね。マイブリット・ティオ・アンダーソンさん。うちの高校に留学生として来てるの」
マイブリットが佳波に軽く頭を下げる。藍は続けて、マイブリットに佳波を紹介した。
「で、こちらは羽衣石佳波ちゃん。幼稚園から中学校までずっと一緒だった幼馴染」
「へー、海外から。よろしく」
佳波が右手を差しだす。外国の風習にあわせて握手を求めているのだろう。マイブリットはその対応を予想していなかったのか、一瞬遅れて、佳波の右手を握り返した。握手は長くなく、マイブリットのほうから手を離した。
「ねえ、アナタ……」
何故か真剣な表情となった佳波が何かを言いかけた時、一人の男性スタッフが走ってやってきた。「今とりこんで……」と邪険に扱う佳波に、その男性が小声で耳打ちする。
「わかりました。すぐに向かいます」と佳波は硬い声で対応した。「藍、ごめん。急用ができちゃった。今日は楽しんでいってね。後でまた時間あけるから、その時に話しましょ。アナタも、いろいろとね」
藍の言葉を待たずに、佳波は施設の奥へと早歩きで去っていく。
「佳波ちゃん、何かあったのかな……」
藍はその背中を見送りながら呟いた。マイブリットの意見を求めようと見やると、マイブリットはわずかに首を傾げるだけだった。どこからもってきたのか、この商業施設の案内パンフレットを一部、藍へと渡す。
藍はそのパンフレットをめくり、フロアの案内だけでも確かめようとした。ふと顔を上げると、そばにマイブリットの姿がない。藍が慌てて周囲を見渡すと、マイブリットは一人で先へと進んでいた。
置き去りにされないよう、藍は急いでマイブリットの後を追った。
--つづく--