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第一話「その夏、少女は彼女に出会った」第3節


 ----眠りから覚めるように、(あい)の意識は暗闇の奥から少しずつ形を取り戻していった。


 どこからか、幼い少女の泣きじゃくる声が聞こえる。


 藍の意識はその泣き声に引きつけられるようにして、やがて自分が深い霧の中を歩いていることに気づいた。数歩先は何も見えない、肌寒さを感じさせる、掠れた乳白色だけの世界だ。濃い霧のせいか、制服のブラウスが少し湿っている。


「あれ……? あたしは確か……」


 何故ここにいるのか考えようとしたが頭の芯は重く、答えにたどりつけない。ただ、泣き声の元へ向かう必要があることはわかっていた。


 泣き声は次第に大きく聞こえ、やがて人影が見えてきた。年の頃は5,6歳というところか。身なりはよく、簡素ながらもドレスを思わせる服を着ており、金色の長い髪は丁寧に結わえてある。目元をこすりながら泣くその少女には、懐かしさを感じさせるなにかがあった。


「どうしたの?」


 藍は膝を曲げてかがみこみ、少女と顔の高さをあわせて尋ねた。しかし、少女は何も返さない。


「……ひとりになっちゃったのかな? あたしと一緒に、探しにいこうか?」


 誰を探すのか、どこへ行くのか----それは藍にもわからなかった。だが、不思議と不安はなかった。藍の言葉に少女は頷き、泣くのをやめて鼻をすすった。少女の整った顔立ちと青い瞳に藍は見覚えがあったが、それが誰なのか答えをだせなかった。


「それじゃ、いこっか」


 藍と少女は手をつなぎ、並んで歩きだした。冷えた空気の中で、少女の手は小さく、しかし安心感を与えてくれるほどに温かった。


 二人が先へ進むたびに霧は濃さを増していく。視界は白く閉ざされ、耳には何の音も届かず、やがて、少女とつないでいる手の感覚も鈍くなっていく


 平衡感覚を失いそうになった藍はいったん目を閉じ----重い瞼をゆっくりと上げていった。


 藍は朦朧とした意識の中で、自分が横たわっていることを感じ取った。


 視線の先が、高い。電灯は見当たらないが、天井全体が淡く青白い光を放っている。


 体が重く、指ひとつ動かすこともできそうにない。


 透明な容器が鼻と口元を覆っていた。先端の金属質の小さな部品から細い管が伸びている。服は着ておらず、顎のあたりから全身が心地よい温かさの液体に包まれていた。


 寝台というよりは、浅い浴槽のようだ。どこかの病院の治療室だろうか。それにしては殺風景すぎる。


 藍は身体を起こそうとしたが、他人のものであるかのようにまったく動いてくれない。目だけを大きく動かして辺りをうかがっていると、視界の隅にわずかに人の姿をとらえることができた。


 マイブリットの横顔が見えた。表情は険しく、何かをまくしたてているようだが、藍にはその相手の様子がわからない。耳に全神経を集中してみると、かろうじで声が聞こえる程度だ。藍には理解できない言葉だったが、マイブリットの声には激しい怒りの響きがある。一瞬、藍の名前が出てきたような気がした。


 藍は頭だけでも起こそうと力をこめた。少し持ち上がったが首に鋭い痛みを感じ、力が抜けた。後頭部が枕の役目を果たしているジェル状のものに受け止められ、液体がかすかに音を立てて揺れる。


 マイブリットの声が急に途絶え、はじかれたように顔を藍のほうへ向けた。視線が合う。藍は言葉を発しようとしたが、喉の奥が麻痺したように動かせず、力をふりしぼってわずかな笑みを浮かべることしかできなかった。


 マイブリットがそばに駆け寄ってくる。強張った表情で何事かを訴えかけているが、言葉の意味は藍にはまったくわからなかった。やがてマイブリットも気づいたらしく、藍の耳に日本語が届いた。


「----ごめんなさい! 本当にごめんなさい。わたしがもっとしっかりしていればこんなことには……必ずアナタを助けるから」


 同じような内容を、マイブリットは何度も繰り返す。そのうち、マイブリットの目には涙があふれ、流れるままにしていた。


 マイブリットの元気な様子を見て、藍は理由もわからずに安心した。マイブリットを落ちつかせてあげたかったのだが、うまく言葉が出せない。大丈夫だよ、泣かないで----そう口を動かすので精一杯だった。


 その言葉が伝わったのかはわからない。気が抜けたのか、疲労感と首の痛みが増し、藍の意識が遠のいていった----



**********



 重い瞼を、藍はやっとのことで開いた。


 見慣れた自室の天井。薄いカーテンを通して差し込む朝日の強さが、外の暑さを想像させる。エアコンは適温に設定されていたが、寝汗をひどくかいていた。


 頭の奥がうずき、藍は低くうなった。ベッドの枕元の目覚まし時計を手に取ると、普段であれば家を出てバス停へ向かう時間だった。ベッドから飛び起きた途端、藍はひどいめまいに襲われた。壁に手をつき、身体を支える。


 足元に気をつけながらキッチンへ向かうと、母親が朝食後の皿洗いをしていた。


 藍が朝の挨拶を告げると、母親は「もう起きて大丈夫なの?」と藍の身を案じた。


 藍が返す言葉に悩んでいると、母親は続けた。


「ゆうべは熱も高かったんだから、念のため今日の学校は休みなさい。先生へは連絡しておくから、まだ寝てなさい」


「うん……そうする」、藍の声はかすれていた。喉のあたりが痛痒い。夏風邪だろうか。深呼吸すると、胸の少し下のあたりも筋肉痛のような重さを感じる。藍は冷蔵庫から麦茶のポットを取り出し、いつもの湯飲みで何杯も飲み干した。左手首の捻挫は、いつの間にか回復しきっていた。


 リビングではつけっぱなしのテレビで、天気予報が流れていた。今日の予想気温を確認しておこうと藍は考えたが、画面の文字を眺めていると光の刺激で目が痛くなり、何度も瞬きした。


 何か食べられそうかと母親が訊いてきた。「軽いものなら」と藍は曖昧に答え、自室へ戻った。


 別のパジャマに着替えてベッドに横たわり、長く息をはく。


 額に手を当てると、少し熱がありそうだった。藍はエアコンの設定温度を下げ、薄いタオルケットにもぐりこんだ。


 天井を見つめ、記憶をたぐる。昨日、ホームルームが終わったあたりまでははっきり覚えている。そこから先が曖昧だ。熱中症にでもかかってしまったのだろうか。ぼんやりとした意識で、帰宅の際に母親へ体調不良を告げたような記憶はある。


「昨日はマイブリットさんを見かけなかったけど……大丈夫だったのかなぁ。あたしも何か手伝えればいいんだけど」


 頭を働かせようとすると、奥が鈍く痛む。やはり本調子ではないようだ。


 藍は考えるのを諦めた。


 自室のものとは異なる色の天井を最近どこかで見たことがあるような気もしたが、長く悩むことはできず、藍の意識はすぐに眠りに呑みこまれていった。



**********



 その翌朝も藍の体調は芳しくなかったが、夕方になるにつれて熱も疲労感もおさまり、食欲とともに回復していった。栄養を取って早めに就寝すると、翌日の金曜日にはいつもと変わらない朝を迎えることができた。


「うわ、今日もあっついなぁ……」


 高校前の停留所でバスを最後に降りた藍は、うめき声をあげた。


 まだ朝の時間帯なのに、真夏の陽射しが顔やうなじをあぶってくる。歩きながら藍はカバンからノートを取り出し、日傘代わりに頭上にかざした。


 そういえば、と正門までの坂の途中で振り返る。離れた場所の横断歩道のところに、腰の曲がった年輩の女性の姿があった。先日見かけた、歩行器をともなった女性だ。


「もしかしたら……」と藍は一瞬だけ期待したが、あたりに金髪の少女の姿はなかった。


 車の往来はいつもより激しく、信号のない横断歩道で止まってくれる車は望めそうにない。藍がためらっていると、予鈴が鳴った。藍のそばを通りすぎた生徒たちが急いで正門へ向かう。その中には、藍と同じクラスの生徒の姿もあった。


「あたしも早く行かないと遅刻しちゃうけど……」


  あの時、マイブリットに告げたのだ----次は後悔しないようにする、と。藍は軽く自分の頬をたたいて強くうなずき、一歩を踏み出して横断歩道へと駆け寄った。


「あ、あの」


 声をかけたはいいものの、うまい言葉が見つからず、しどろもどろになってしまう。藍は覚悟を決めて、今の考えを正直に大きな声で告げた。


「ご迷惑でなかったら、あたしに手伝わせてください!」


 婦人は驚いた様子で藍を見つめ返したが、すぐに「お願いします」と頭を下げた。


 藍は何度も左右に首をめぐらしたが、車の流れは途絶えることがない。マイブリットのようにどこかのタイミングでうまく割りこめば車も停まってくれるはずだが、藍には見極めることなど不可能だった。緊張と暑さのせいで、藍は全身の汗が止まらなかった。


 離れた位置の信号が変わったおかげか、ようやく車の流れが鈍くなって止まり、藍が婦人の手を引いて反対側へ渡った時には、かなりの時間が経ってしまっていた。


「ごめんなさい、他の子の時みたいにうまく渡れなくて……」

「そんなことないですよ。本当に助かりました。ありがとう」


 笑顔でお礼を述べる婦人が病院の方へ向かうのを、藍は見送った。学校側へ戻ろうとした時、横断歩道を渡った先の人影に気づいて、藍は自分の目を疑った。


 制服姿の金髪の少女、マイブリットがそこにいた。


 車の流れが速いものに戻っており、藍は横断歩道の手前で苛立ちながら足踏みを続ける。わずかに車の波が途絶えた瞬間をついて、藍は全力で走った。たった十数メートルほどなのに、渡り終えた時には汗だらけで息も荒くなってしまった。


「なんだ、ちゃんとできたじゃない」


 マイブリットが微笑む。マイブリットに褒められたことと再会できたことがうれしくて、藍も笑顔になった。


「できてないですよ。マイブリットさんみたいに上手に渡らせてあげられなかったですし」

「自分に正直に動いて、誰かの力になれたんでしょ? わたしと同じである必要はないと思うよ」

「そういってもらえるのは嬉しいですけど...次はもっと頑張ってみます」


 藍は片方のこぶしを顔のあたりまであげ、力をこめる。


 それまで優し気な表情を浮かべていたマイブリットが、急に真剣な表情になった。


「----ごめんなさい」


 マイブリットが深く頭を下げた。突然のことに藍は動揺し、誰かに見られていないかと周辺を見回してしまった。登校途中の生徒は誰もいなかった。


「いきなり、どうしたんですか?」

「本当に、ごめんなさい。許してもらえるとは思ってないけど、謝らせてほしい」

「やめてください。理由もわからないままそんなことされても……」


 うろたえてしまう藍。マイブリットは頭を上げようとしない。


「今のアイはそう言ってくれるけど……でも、本当にごめんなさい」


 マイブリットが謝らなければならない理由など、藍にはわからなかった。強いてあげるならば、先日勘違いして襲われたことぐらいか。


「あの裏山でのことなら、お互い様ですから。もうやめてください。じゃないと、あたしも本当い怒りますよ」


 藍はわざと頬をふくらませ、両手で強引にマイブリットの身体を起こした。マイブリットがようやく姿勢を戻す。マイブリットは口元を引き締め、何かをこらえるように渋面となっていた。


 ----藍の脳裏に、一瞬だけ何かがちらつく。どこかで、同じようなものを見た気がした。その後、マイブリットは涙を流していなかったか。そんなマイブリットと金属質な天井を、横になったまま見つめていたのは自分だったのだろうか。


 藍はきつく目を閉じ、頭を左右に振った。


「心配しなくても、きっと大丈夫ですよ。だから、謝ったりしないでください」


 藍はマイブリットの手を握りながら、笑顔で告げた。なんの根拠もないが、今のマイブリットへはそう伝えずにいられなかった。


 驚いたような表情になるマイブリット。そして、何かを言おうと口を開きかける。藍は目をそらさず、マイブリットの言葉を待った。


 マイブリットはいったん口を閉ざすと、小さく息をはいた。


「----そうだね。今は、大丈夫だと信じることにしよう」

「それより、例の事件のほうはいいんですか?」

「解決したよ。ひとまずね」、マイブリットが眉間に皺をよせる。よほど難航したのだろうと藍は考えた。


「良かった、あたし、お手伝いできなくて気になってて。

 あれ? でも、それだったらどうしてここに? しかもわざわざ制服姿で……」

「実は、生徒としてこの学校に通うことになったんだ」


 マイブリットの口調は普段と変わらない落ちついたものに戻っていた。あまりにも自然な調子に、藍は自分の耳を疑った。


「なんかあたし、聞き間違えちゃったみたいで。もう一回、簡単に説明してくれます?」

「私も、正式に、この学校の生徒になったんだ」


 マイブリットの言葉を、藍は頭の中で反芻した。数回繰り返してようやく意味がわかったところで、大きな驚きの声をあげてしまった。


「いや、だって、確かここに来たのは何か事件のことで調べるためだって……ええ?!」


 藍の理解はおいつかず、詳しく訊きたいのだが、うまく言葉にならない。マイブリッドもさすがにみかねたのか、自分から経緯を説明してくれた。


「一度はこの街を離れたんだけど、ちょっといろいろあって……」


 マイブリットの表情に暗いものがよぎるが、すぐに思い直したように続けた。


「今後のためにも、しばらくこの辺りにいるほうが良さそうだったから。


 わたしは今さら高校なんて必要ないと言ったけど、どうしてもドクが通えって……こういう時だけ保護者面するんだから」


 藍は驚きと嬉しさが入り混じった歓声をあげた。


「どのクラスなんですか?」

「さぁ? 昨日決めて細かいことは全部ドクまかせだから、知らない」

「昨日? そ、それは、さすがに手続き済んでないんじゃないかなぁ」

「そうかな? まぁ、ワケを話せば、教室の端に座らせてくれるでしょ」

「うまくいくかなぁ……あ」


 藍は先日、外国人の少女が制服を着て校内にいたことを教師に報告している。あの教師が最終的にどのようにとらえたかわからないが、もし不審者情報として他の教師とも共有していたら厄介なことになりかねない。


「どうしよう、疑われて追い出されたらあたしのせいだ……」

「どうした?」


 表情が強張りそうになりながら、藍はぎこちない笑顔を作った。


「やっぱり、ちゃんと手続きが済んでいるか先生たちに確認しましょう! あたしも一緒にいって、誤解されないようにフォローしますから」


 早口なってしまう藍。「何か隠してないか?」とマイブリットが疑いの目を向ける。


「そ、そんなこと……それより、急がないと先生たちが職員室からいなくなっちゃいますよ」


 追求を避け、藍はマイブリットの手をとって走りだした。


 日除けのない急な坂道を駆けのぼっていると汗が止まらなかったが、今の藍には不思議と不快感はない。


 いつもと変わらない朝の、いつも同じ学校へと向かう道。


 けれど、これまでとは違う新しい日々の始まりを、藍に予感させた。



 ----結局、職員室を訪れてみると教師陣とひと悶着起こってしまい、簡易書類のおかげで誤解がとけてから藍とマイブリットが教室に入れたのはその日のお昼前だった。



第一話「その夏、少女は彼女に出会った」 -- 終 --

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