表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/28

第一話「その夏、少女は彼女に出会った」第2節


 (あい)の目の前まで来ると、金髪の少女は藍の左手首をつかみ、強引に引っ張ろうとした。藍は痛みに顔をしかめ、反射的に右腕とカバンで少女を押しのけた。


「へぇ……おとなしく従う気はないってこと。じゃあ、わからせてやるしかないか」


 少女が目を眇め、ボクシングのような構えをとる。ふざけているわけではなさそうだった。少女が距離を詰め、連続して速いパンチを放つ。


「ちょ、ちょっと待ってください。なにかの間違い----」


 藍は後ろにさがって避けていった。少女の拳が目の前に近づいてきた時、藍は足を木材にひっかけて大きくよろめいた。少女のパンチが、藍の背後に積み上げられていた材木の山に当たる。木材の山は音をたてて崩れていった。


 もし当たっていたらと想像し、怖くなった藍は固唾をのんだ。


「逃げてないで、早く昨日のように本性をあらわしたらどう?」

「黙って後をついてきたことは謝ります。でも、あたし他に何もしてません! 昨日なんて……」

「その左手首が証拠。わたしが負わせたものだよね。いい加減に観念しなよ」

「ち、違います! この手首は昨日、家の階段から落ちた時にひねったんです」

「なにそれ? 言い訳ならもっとマシな----」


 甲高く短い電子音が連続して鳴り響き、少女は言葉を切った。スカートのポケットから丸みを帯びた板状のものを取り出す。藍の目には、スマートフォンの一種にうつった。電子音はその端末からだった。少女がその端末で通話を開始する。口にしているのは日本語ではなかったが、英語でもなさそうだった。


 この隙に藍はこの場を離れようとしたが、背後は木材の山で塞がれている。少しでも遠ざかろうと静かに移動しかけたが、少女の鋭い視線に阻まれた。


 少女の口調が激しくなったかと思うと、その直後、通話はすぐに終わった。少女が長い息を吐いて藍に向きなおる。


「----ごめん!」


 少女が勢いよく両手をあわせて、拝むようにして藍に頭を下げる。警戒していた藍は呆気にとられて眺めることしかできなかった。


「怖い思いをさせて、本当に申し訳なかった! どうやら、こちらの勘違いだったみたい」


 少女は顔を上げることなく、拝む姿勢のままだ。藍は安心すると同時に力が抜け、座りこんでしまいそうになった。


「良かった……確かに怖かったですけど。わかってもらえたなら、もういいですよ。顔を上げてください」


 低姿勢で謝られては、藍も許すしかない。藍がうながと、少女は藍を拝むのをやめた。


「それより、いったい何だったんですか?」


 責めるわけではなく、純粋な疑問を藍がぶつけると、少女は困ったように目線をそらした。落ちつかなげに、右のこめかみを親指でかいている。


「あー、実は、昨日ケンカした相手と勘違いして----」


 声に軽い感じが漂っている。説得力が感じられず、藍は無言のまま半目で少女を見つめた。少女が一瞬、深い緑色の目を藍に戻しかけ、藍と視線があうと、再びそらす。藍がそのままでいると、少女は観念したように溜息をついた。


「わかった、今のはナシ。怖がらせてしまったお詫びもあるし……話せる範囲になるけど、ちゃんと説明するよ。えっと……名前は?」

「藍。露崎藍です」

「ツユザキ・アイ、か。覚えた。わたしはマイブリット。マイブリット・ティオ・アンダーソン」

「ま、マイブリット……さん、ですね」


 藍は少女の告げた名前を自信なく繰り返した。発音が流暢すぎて、正しく聞き取れたかわからない。藍がファーストネームにしか触れなかったことについては、マイブリットと名乗った少女はあまり気にしてないようだった。


「アイ、キミの通っている学校だけど、ちょっと厄介な事件にまきこまれているんだよね」


 金髪の少女----マイブリットが真剣な表情で藍を見すえる。


「まだ調査中だから詳しくは教えられないんだけど……この学校の関係者達が行方不明になっていることは知ってる?」

「い、いいえ」

「だよねぇ。一般人にも知られる程度なら、今頃は楽に解決できているのに」

「あの……今、『たち』って言いました?」

「うん。把握できているだけでも、この学校の関係者で3人。名前は教師の丸谷修二と3年生の木村恵。あと、教育実習生だった藤宮彩智」

「丸谷先生なら。名前と顔がわかる程度ですけど……」


 確か古典を担当している教師だったはずだが、藍達の学年担当ではない。


「1年生だと接点ないみたいだから、当然か。昨夜も生徒が襲われた。岸本瑠璃花、こっちはわかるんじゃないかな?」

「2年の先輩で、同じ図書委員です。大丈夫なんですか?」

「ああ。わたしが助けた。その際に、相手の手首あたりにキズを負わせたんだけど……学校に何か手掛かりがあるかと思って調べていたら、尾行されてるようだったからね。試しにここへ誘いこんだら、とんだ勘違いだったわけだ」


 マイブリットが話を区切り、苦笑する。


 学校関係者が行方不明になっていると言われても、藍にとっては今ひとつ実感がわかない。だが、藍を騙して得をするような理由もないはずだ。岸本瑠璃花のことも気にかかる。


「マイブリッドさんは警察の人ってことですか?」


 素朴な問いに、マイブリットは首を左右にふって否定した。


「だけど、日本の治安組織の理解は得られているし、場合によってはお互い協力しあうこともある」

「それって、FBIとかCIAっていう……内緒にしないといけやつですね」

「いや……ああ、うん、まぁ詳しくは想像にまかせるよ。で、そちらはどうしてわたしを尾行していたの?」

「ひぇっ?!」と予想していなかった問いに、藍は間の抜けた声をあげた。「あー、そのー、マイブリットさんのことが気になって」


 しどろもどろな藍に、マイブリットは首を傾げた。


「あ、えっと……その、なんて答えたらいいのかな」


 落ち着かず、指をせわしなく組み替えてしまう藍。顔が熱くなっているのは、太陽の日差しのせいだけではないはずだ。理路整然と伝えるべきだとわかっていても、言葉がうまくまとまらない。マイブリットはじっと藍からの回答を待っている。見逃してはくれないようだ。藍は覚悟を決め、大きく深呼吸をしてから口を開いた。


「今朝、横断歩道でおばあさんを助けているのを見て、あたしと違ってすごい行動力ある人だなぁ……て感動して。お近づきになれば、同じようなことができるかなって」

「ああ、あの時。たまたまタイミングがあっただけで、誰にでも----」

「できないですよ!」、反射的に遮ってしまい、藍は気まずさを覚えた。だが、ここで黙ってしまえば、マイブリットを困らせるだけに違いない。藍は軽く唇を噛み、続けた。


「あたしには、できなかったんですよ。マイブリットさんみたいに、あんなに堂々と……困ってるおばあさんに、なにかしなくちゃと思ったのに」


 声がうわずってしまい、目のあたりが熱くなる。藍は言葉を切り、瞼を強く閉じた。


「やりたくても体が動かない時なんて、誰にでもあると思うよ。キミの事情はわたしにはわからないから、無責任かもしれないけれど」


 マイブリットが言葉を濁す。藍は濡れた瞼を上げた。マイブリットがまっすぐこちらを見つめている。碧い瞳には厳しさといたわりの光があった。


「無責任かもしれないけれど、何かを後悔しているのなら、同じ過ちを繰り返さなければいい」


 力強く告げるマイブリット。藍は手の甲で目元をぬぐい、わざと大きな音をたててティッシュで鼻をかんだ。


「そうですね。次は、後悔しないようにします。

 それで、先生にきいてみても転校生でもなさそうだし、いったいどういう人なのか考えていたら窓から見かけちゃって、後をついてきたんです」

「呆れた。それだけでこんなところにまで……っと、待って。先生に尋ねた? わたしのことを? 名前も知らなかったのに?」


 矢継ぎ早の問いかけに、連続してうなずく藍。マイブリットが真剣な表情で、藍の両肩に手を乗せる。さきほどとはまた別の迫力に、藍は気圧された。


「ひょっとして……わたし、生徒としてこの学校にとけこめていなかったってこと?」

「目立ちまくりでしたよ。朝もあたし以外のみんなだって横目で気にしてましたし。たぶん学校の中を歩いていた時にも、みんな気づいていたんじゃないかなーって」


 マイブリットの手が藍から離れ、マイブリットはがっくりと肩を落とす。


「そんな……日本の学校では制服さえ着ていれば集団の一員となって目立たないはずだって……ドクめ、だましたな」

「日本人ならそうかもしれませんけど、マイブリットさんの見た目だとムリあると思いますよ。美人さんすぎますし、日本の制服とのギャップ萌えというか」


 励ますつもりの藍の言葉は、マイブリットには聞こえていないようだ。


「潜入捜査として致命的じゃないか。きっと相手もすぐに察知して、うまく隠れているに違いない……大失態だ」


 マイブリットの落ちこみはさらにひどくなり、独り言にも悲壮感が感じられる。自分の答え方がいけなかったかもと藍は責任感を感じてしまい、苦し紛れに提案してしまった。


「あの……あたし、捜査を手伝いましょうか?」



**********



 翌日----いつもと変わらない授業がすぎていき、藍は教室で終業のホームルームの時間をむかえた。


 藍は机に頬杖をついたたま、窓の外を眺めていた。正午を少しすぎたばかりの陽射しは強く、エアコンが頑張っている中でも肌を刺してくる。今週で一学期は終わりだが、明日からは日焼け止めを塗っておいたほうが良いかもしれない。


「今日はマイブリットさんを見かけなかったけど、大丈夫だったのかなぁ」


 少し背筋をのばしてみるが、藍の位置からでは校庭まで視界におさめることはできなかった。


 昨日のマイブリットとのやりとりの際に藍は協力を申し出たが、「危険だからダメだ」と即座に却下された。藍としては、素直に納得するしかなかった。その後、マイブリットはバス停が見えるところまで藍を送ってくれたが、ずっと難しい表情だったので、藍からは世間話をふることもはばかられてしまった。バスが来る前の別れ際に、何かあったら自分で勝手には動かずマイブリットを呼ぶようにと釘をさされた。


 藍は今朝から教室での会話に聞き耳をたてていたが、マイブリットが話していたような事件のことは誰も話題にしていなかった。授業時間の合間に職員室へ行って、教師の出勤状況がわかるホワイトボードを確かめた。丸谷先生の欄には病気療養中と記されていた。


 普段と変わらない日常の様子に、学校関係者が事件に巻きこまれていると考えるほうが難しい。だが、マイブリットが藍を騙して得することは何もないはずだ。マイブリットには断れらたものの、少しでも力になりたいのだが、藍は早くも手詰まりだった。


「やっぱり、あたしにはお手伝いなんて無理かなぁ」


 自身をなくして考えに没頭していると、ふいに周囲がざわついていることに気づいた。いつの間にか、ホームルームが終わっていたようだ。藍は荷物をカバンに詰めこみ、教室を後にした。 


 考えこみながら中央廊下に出たところで、「露崎さん」と藍を呼ぶ声があった。 顔をあげると、良く知る女性教師が立っていた。図書館の管理責任者をつとめている安岡だ。


「あ、安岡先生」


 安岡はこの学校での古株の一人で、2年生の現代国語を担当している。歳は四十代の半ばのはずだが、品が良く、いつも穏やかな笑顔で、どの学年の生徒からも受けが良かった。


「ちょうど良かったわ。手伝ってほしいの、図書館へ運ばないといけない本が結構たまっていて」


 藍は返答に躊躇した。今日はこのまま家に帰ってマイブリットを手伝う方法を悩んでひねりだしたいところだが、図書委員として安岡の頼みごとを無下に断るのも心苦しい。


「今日の図書館当番の岸本さんに頼もうと思ったら、昨日からお休みなの。電話だと元気そうだったのだけど……本運びはすぐに終わるから、お願い」


 安岡が食い下がる。


 岸本瑠璃花の名前が出たことで、藍はつい頷き返してしまった。うまくすれば、岸本瑠璃花の状況が聞けて、マイブリットの手伝いにつながるかもしれない。


「助かるわ。じゃあついてきて」


 下校中の生徒達でにぎわう校舎の中、安岡と藍が向かったのは3階にある国語教科の準備室だった。廊下とはドア一枚で隔てられ、長い空間の奥には職員室のものと同じデスクがある。


 左右の本棚は高く、なにかの大会で受賞した重そうなトロフィーやたくさんの書物が並んでいた。藍には判読できない旧仮名遣いの古書も多く認められる。本棚には収めきれないのか、低く積まれたダンボールの群が床を見えにくくしていた。


「うわぁ……さすが国語の研究室」と藍は感嘆の声をもらした。


 安岡は部屋の奥へ進み、デスクそばの大きな窓のブラインドをおろした。その状態でも、この時間であれば明かりを必要としなかった。奥からもどってきた安岡が藍の脇を通りすぎ、ドア横の冷蔵庫の上の電気ポットのスイッチを入れる。


「ちらかっていてごめんなさいね。お茶を淹れるから、そこに座ってて」

「あ、おかまいなく」


 藍はうながされ、小さなテーブルのそばにあったイスに腰をおろした。


 テーブルの隅には本と書類が乱雑に積み上げられ、薄く埃がのっている。今にもくずれそうな本と書類を、手持無沙汰な藍はそろえることにした。大きくはみでていたクリアファイルをそっと押し戻そうとした時、中の書類が目を引いた。


 それは、写真つきの履歴書だった。写真の人物に見覚えはないが、書いてある名前は「藤宮彩智」とあった。その名前が、昨日マイブリットが挙げた行方不明者の一人だと思い出すまでに、時間はかからなかった。添えてあった書類で、この人物が教育実習生として現代国語を担当していたことがわかった。


 行方不明になった者たちの共通の接点のようなものを感じたが、うまくまとまる前に藍の何かが危険を告げた。藍は急いでクリアファイルを書類の山の中に戻し、席を立った。


 藍とドアの間に、湯呑の載ったお盆を持つ安岡がいた。


「どうしたの?」

「すみません。急用を思い出したので、あたしはこれで。お手伝いもちょっと……」

「あら、残念。せめてお茶だけでも飲んでいって。いい茶葉だから」

「せっかくですけど、失礼しま----」


 藍の口が、安岡の手にふさがれる。藍が驚く間もなく、そのまま壁に押しつけられた。背中の衝撃に藍はうめいた。


 安岡の手が動き、藍の首を押さえこむ。藍は咳きこんだ。


「な、何……」

「いいから、飲みなさい。あなたにはいろいろと訊きたいことがあるんだから」


 安岡が湯呑を藍の口元へ傾ける。安岡の顔からいつもの穏やかさは消え、なんの感情も読み取れない冷ややかさだけがあった。


 藍は大声で助けを呼ぼうとしたが、息苦しさのせいで声がうまく出てこない。


「助けを呼ぼうとしても無駄よ。あの女は今日は学校に姿をみせてないから」


 あの女----この言葉がマイブリットのことを指しているのはすぐにわかった。藍は合点がいった。マイブリットが追っていた事件の犯人が、目の前にいる。


 絞めつけられる喉が苦しく、酸素を求めて口がわずかに開く。湯呑から入ってきた液体は、お茶とは違う味がした。


 飲み下してはいけない。藍はそう判断し、口の中のものを勢いよく安岡の顔に吹きかけた。


 安岡が悪態をつき、手の力がわずかに緩む。


 助けを呼ぼうと、藍は出せる限りの大声で叫んだ。


「マイブリットさん!」


 何かあったら呼べと言っていた。藍はその言葉を信じていた。


 藍の声に応えるかのように窓ガラスが高い音とともに勢いよく砕け、人影が室内に飛びこんでくる。


「ごめん、遅くなった」


 それは、マイブリットだった。昨日と同じ制服姿だが、小ぶりの刀のようなものを片手に握っている。


「おまえ! この女が----」


 安岡の言葉が途中で終わり、藍は身体が軽くなるのを感じた。瞬きひとつの間に、藍はマイブリットに抱きかかえられていた。マイブリットの位置は部屋にあらわれた時とほとんど変わっていないが、いつの間にか距離を詰めて藍を救出し、安岡から離れてくれていた。


 藍がお礼を告げるのを待たず、マイブリットが安岡を睨みつける。


「この女が……なんだって? 無駄口をたたいてないで、早く擬態をときなよ。そのほうがお互いやりやすいでしょ」


 藍がマイブリットの視線を追うと、安岡の右手の肘から先がなくなっていた。切断された箇所からは、青とも緑ともつかない色をした粘り気のある液体が流れ落ちている。明らかに、人間のものではない。藍は短い悲鳴をあげた。


 安岡の顔が、溶けていくかのようにくずれていく。四肢も皮膚が内側からの圧力で裂けるように弾け、獣のものを思わせる肉体が姿をあらわしていった。童話やホラー話に出てくる狼男のようだが、その双眸は複眼で赤黒く輝いている。


「マイブリットさん……なに、あれ?」


 藍の質問にマイブリットは答えず、藍を静かにおろすと小刀を持っていないほうの腕で背後に押しやった。その顔は、安岡だった化け物を見すえたままだ。


「アイはその窓から外へ逃げて……って、3階だからさすがにムリか。後ろに隠れてて。少し騒がしくなるけど、ガマンしてね」


 疾風とともに黒い影がマイブリットに迫る。マイブリットは小刀でそれを弾いた。化け物の尻尾が棘のついた槍のような形となって襲いかかってきたのだった。


 巨大な槍は室内を縦横無尽に飛び回り、あらゆる角度からマイブリットを攻め立てる。マイブリットは小刀を振り回し、器用に受け流していった。目標を失った巨大な槍は勢いのついたまま、部屋の棚を倒したり、本を散乱させていった。


 化け物は、尻尾で攻撃しながらも、少しずつマリブリットとの距離を縮めていた。藍の目にも、いつかは巨大な槍と鋭い爪を備えたあの太い腕が同時に襲ってくることは予想がついた。


「マイブリットさぁん……」


 泣きそうになるのを必死にこらえる藍。


「心配しないで。もう少し……承認さえおりればこの程度の相手なんてすぐに」


 マイブリットは顔を向けることもなく、苦しそうに応えた。


 重いうなりが迫り、藍は身をすくめた。頭上で金属がぶつかるような硬い音が響く。藍はそのまま腹ばいになりながら、机の下にもぐりこんだ。


 ここなら、多少は安全かもしれない----安堵の息をついた藍の視界の端に、何か動くものがあった。


 倒れて半壊した本棚やイス、書物が散らばっている中、わずかにできた隙間を縫うようにして黒い物体が蠢いている。それは、失われたはずの化け物の右腕だった。遠回りするように、マイブリットの位置からは死角となりそうな場所をゆっくりと這い進んでいる。


「マイブリットさん、危ない!」

「わかってるから、黙ってて!」


 切迫した声のマイブリット。藍は続けて呼びかけたが、マイブリットは無視して化け物の相手をしていた。気のせいか、最初よりも攻撃のペースがあがっている。


「このままじゃ……なんとかしなくちゃ」


 藍は武器になるものがないかあたりを見回した。手の届きそうな範囲にはぶ厚い中型の国語辞典と鈍色の大きなトロフィーが転がっていた。藍は机の下から飛びだすと両手でトロフィーを抱え上げ、マイブリットの脇に立った。


  間近に這い寄ってきていた化け物の片腕が本棚の陰から姿をみせた瞬間、藍は全力でトロフィーをたたきつけて襲撃を防いだ。化け物が悪態のような耳障りな音を出す。


「や、やった……やりましたよ、マイブリットさん!」


 嬉しさがこみあげてきた藍に、


「バカっ! なにしてるの!」


 マイブリットは厳しい叱責の言葉を返した。藍に向けられたその眼には、怒りの感情ではなく困惑があった。


 藍は背中に重い衝撃を感じた。次の瞬間、目の前のマイブリットの顔に、制服に、赤い飛沫がかかる。藍は、背中と胸に鋭く熱いものを感じ、視線を落とした。


 自分の胸元に、槍の穂先のような赤く鋭いものが生えていた。


 身体の奥の熱さは嘔吐感とともにこみあげ、喉の奥から液体がわき、こぼれた。


「あ……れ……?」


 それが自分の血だと理解した直後、背後から首をつかまれる感触があった。


 次の瞬間、衝撃も痛みもなく、まるで突然の停電のように、藍はすべての感覚と意識を失った----



--つづく--

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ