第一話「その夏、少女は彼女に出会った」第1節
「うわ、あっついなぁ……」
高校最寄りの停留所でバスを最後に降りた藍は、顔をしかめてつぶやいた。
まだ朝の通学時間帯だというのに、夏の太陽がずいぶんとはりきっている。すごしやすかった昨夜が嘘のようだ。冷房のきいたバスを後にしたばかりだが、制服のブラウスはすでに汗がにじんで肌にまとわりついている。
藍が通う明見高校は街の高台にある。バス停から正門までは長い坂が続いており、日除けになりそうなものはほとんどない。登校中の生徒達の中には、日傘を使っている者もいた。
藍はハンカチで汗を軽く拭いた。カバンから取り出したノートを日傘代わりにしようと頭上へかざしかけたが、左手首が痛んだ。湿布ではなくテーピングで固定している左手には、重いカバンをぶらさげるにも、角度をつけて頭上にかかげるにしても負担が大きかった。
諦めてノートをカバンにしまった藍は、少し離れた横断歩道の手前の人影に気づいた。
腰の曲がった年輩の女性で、歩行器に体重をあずけている。その女性はしきりに腕時計をみやり、時間を気にしているようだった。長い横断歩道を渡った先には、街で一番大きな総合病院がある。
この横断歩道には、歩行者用の信号が備えつけられていない。横断歩道を渡ろうにも、通勤通学のピークの時間帯ため、二車線づつの公道の車の流れは途絶えそうになかった。歩行者用の信号のある横断歩道までは、かなりの距離を歩かなければならない。
交通量が多いこの状態では、信号のない横断歩道で止まってくれる車は望めそうになかった。藍は手助けにいこうとしたが、数歩進んだところで足を止めた。
以前----中学生の頃に、重い荷物を運んでいた年輩の男性を通学途中に手伝った後で、「点数稼ぎ」「良い子ぶっている」と陰口をたたかれ、しばらく仲間はずれにされた苦い経験が脳裏をよぎった。
渋面でためらっていると、登校時間の終わりが近いことを告げる予鈴が耳に届いた。藍は踵を返し、学校へと向かう。
「遅刻しちゃうし……きっと大丈夫だよね」
つぶやき、自分に言い聞かせる。
学校へ向かうが、足取りが重い。気持ちを切り替えることができず、藍は途中で振り返った。
視線の先----横断歩道のところに、少女が立っていた。年齢は藍よりも少し上くらいか。藍と同じ、明見高校の夏服を着ている。
その少女の髪は、強い夏の日差しを受けてなお主張するかのように、金色に輝いていた。黒髪を染めたり脱色しているわけではない。色白の少女の顔のつくりは、日本人のものとは異なっている。
外国人を街中で目にするのは藍にとって初めてだった。しかも、自分と同じ学校に金髪少女が在籍しているとは聞いたこともない。藍は足をとめて、見入ってしまった。他の生徒たちも気になるのか、少女のそばを通り過ぎる際に視線を向けていた。
凛とした雰囲気のその外国人少女が、年輩の女性と言葉を交わしている。外国人少女は激しい車の流れを見極めるかのように左右を見やると、ためらう様子もなく、車道へと大きく足を踏み出した。
藍は驚き、言葉にならない声をあげた。そばにいた女子生徒が驚いた様子をみせたが、藍は外国人少女から目を離さない。
車の流れがゆるくなっていく。急ブレーキの音がしなかったのは、危うくないタイミングを見計らってのことだったためだろう。二車線ずつの車の流れが完全に止まると、外国人少女は年輩の女性の手を引いてゆっくりと渡り始めた。
藍の鼓動が速く、強くなる。顔が火照っているような感じは、この暑さのせいだけではない。
二人の動きが、通学路からは見えない位置へと流れていく。藍は最後まで見届けようと、急いで向かおうとした。その直後、そばにいた登校中の女子生徒とぶつかってしまった。
藍は謝罪の言葉を早口に告げ、頭を深く下げた。相手の女子生徒も謝ると小走りで学校へと向かっていった。朝のホームルームの時間が迫っている。教室まではかなり距離があるので、歩いていては遅刻確実だ。
藍は、横断歩道のほうへ視線を戻した。車の流れが速いものになっている。外国人少女と女性はすでに渡り終わったようだ。今から追いかけても、姿は見えないだろう。藍は短く息をはき、正門へと急いだ。
明見高校の母体となった学校の歴史は古い。自然が色濃く残る丘の上といえば聞こえは良いが、実際に通学する生徒達からは山の上でアクセスが悪いと不評だ。折り返しが長く続く坂道も急で、入学してからまだ3か月の藍にとっては、ちょっとした運動に近い。
藍は本鈴と同時に教室にたどりついた。藍の席は廊下とは反対側の、窓に面した列の一番後ろ。上座の末席と藍は呼んでいる。校舎は最近改築したため、全教室にエアコンが設置されているが、強い陽射しにさらされた藍の席はあまり恩恵を受けていない。小走りを続けてきたため、首筋にも汗が伝っている。ハンカチを首や顔にあてながら、藍は着席した。
持参しているボトルの冷たい麦茶で喉を潤すと、ようやく落ちついた。
さきほどの出来事を思い返す。あの外国人少女は、怖くなかったのだろうか。自分が女性を手伝うとしたら、どのように振る舞っただろうか----延々と考えていると、担任教師がやってきた。
いつもと変わらない朝のホームルーム。
定期試験の後の、代わり映えのしない授業。
机に落ちる自分の濃い影の角度だけが、時間の変化を意識させる。
今受けている授業が終われば、今日は終業だ。定期試験の翌週は、半日授業の日が続く。
終業のホームルームが終わると、藍はカバンを抱えて職員室へ向かった。期末試験の採点期間のため、職員室への立ち入りは制限がかかっている。出入口の近くで目が合った教師へためらいながら声をかけ、藍は職員室の中へ入らせてもらった。
施設の鍵が保管されている棚から、図書館のものを借り受ける。記録帳に自分の名前と、使用目的の欄に「図書委員の仕事のため」と書き入れると、藍は職員室の壁にかけてあるホワイトボードへ目をやった。明見高校に籍のある教師の名前が一覧になっており、休みや出張など、その日の状況がわかるようになっている。
手続きを済ませた藍は図書館へと急いだ。
明見高校は校舎の外、敷地の外れに図書館を構えている。昭和初期に建てられた木造の三階建てだ。藍は、洋館の印象をもったこの図書館がお気に入りだった。老朽化が進んでいることと蔵書の保管環境改善のため、離れたところに新しい図書館を建てているところだが、藍としてはできるだけ完成が遅れることを願っていた。
色褪せた観音開きのドアを解錠し、換気も兼ねて大きく開ける。返却ボックスをのぞきこんでみるが、一冊も入っていなかった。一階の隅にある小さな事務室に寄って、電気やエアコンの状態を整える。引き継ぎ書も兼ねた日誌を抱え、藍は二階の閲覧室へと続くきしむ階段を登っていった。
24時間エアコンが稼働している閲覧室は涼しく、藍は安堵の息をついた。
照明を点けた藍はカウンターの裏手にカバンを置き、閲覧室のカーテンを整えたり、古びた箒を使っての簡単な掃除をこなしていった。
ひととおりの事務作業を終えた藍はカウンターの背後の仕切りの奥にある控えスペースのイスに座り、肩の力を抜いた。開館の際の雑務は多い。ひとりでこなすことに慣れたとはいえ、楽ではなかった。日誌に開館時の状況をかきこんだところで、ようやくひと区切りついた。
「他のみんなもちゃんと来てくれれば、少しは楽になるのに」と、愚痴をもらしてしまう。図書委員たちが当番制で図書館をきりもりしており、二人か三人で一日を担当するルールのはずだった。しかし、強制力はなく、誰かが図書館の鍵を開けているとわかれば帰ってしまうことも少なくない。今日のように定期試験後の半日授業となればなおさらだ。
藍はカバンから弁当箱とボトルを取りだした。他には誰もいない静かな図書館で、エアコンの効いた中での昼食はなんとなく贅沢な気分になる。
食事を終えた藍が壁時計に目をやると、閉館まで一時間ほどだった。
「誰も来そうにないし、今日はじっくり読めそう」
弁当箱を片づけつつ、厚めの文庫本をとりだす。試験対策の勉強や週末の部屋の模様替えでしばらく読むのを休んでいた本だ。ブックカバーの栞がはずれてしまっていた。中断していたページを探していると、閲覧室のドアの開く音がした。藍は文庫本をもったままカウンターへ向かった。
閲覧室に入ってきたのは一人の女子生徒だった。制服のリボンカラーは藍と同じく一年生のものだ。
藍は驚き、挨拶の言葉を飲みこんだ。
そこにいたのは、今朝見かけた金色の髪の少女だった。
**********
金色の髪の少女は、値踏みするかのように閲覧室を眺めまわしていた。
「あ……えっと、こ、こんにちわ」
藍があたりさわりのない言葉をかけると、少女は「ん……」と短く頷き返し、閲覧室の奥へと進んでいった。
藍は図書委員の腕章をつけ、カウンター内側にある司書役のイスに座った。文庫本を読む振りしながら、こっそりと少女の様子をうかがう。
少女は本棚をひとつひとつ確かめるように、ゆっくりと歩いていた。
(やっぱりこの学校の生徒なんだ……今まで見たことないけど、ひょっとして転校生かな)
湿度が高く気だるい空気の中、夏の太陽が閲覧室を明るく染めている。静けさの中、少女が位置を変える時の靴の音がかすかに届く。身体の線が細く姿勢の良い金髪の少女が真剣な様子は、まるで映画のワンシーンであるかのように似合っていた。
(こんなチャンス逃したくないけど……なんて話しかけよう。あ、日本語でいいのかな)
しばらく眺めていると、藍の視線に気づいた少女が顔を向ける。藍は気まずさを感じ、自分の本へと集中した。しばらくすると、少女が藍の場所へと早足で近づいてきた。
(ひゃー、こっち来た)
あせりつつも図書委員としての責任を果たそうと、藍は文庫本を置き、作り笑いで対応しようとした。藍の予想に反して少女はカウンターの手前で立ち止まることなく、脇からカウンターの内側に入ってくると、仕切りの奥の控えスペースへ向かおうとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。カウンターからこっちは普通の生徒さんは入っちゃいけないんです」
藍はあわてて少女の前にまわりこみ、両腕で押しとどめるような真似をした。
少女は自分の胸先にある藍の手に一瞬だけ視線を投げると、藍を見据えた。
「アンタは? ここの責任者?」
流暢な日本語に藍は安心したが、険しい響きがある。正面の青緑色の瞳には、警戒するかのような光が認められ、藍はつい目線をそらしてしまった。
「い、いえ。あたしはただの図書委員で。責任者は安岡先生なんですけど、今日はお休みで……」
「そう。わかった」
つまらなさそうに返すと少女は藍に背を向け、出入口へと向かった。
「あ、あの……良かったら名前を」、ためらいがちに藍は言葉をかけたが、少女は強く扉を閉めただけだった。
「あたし、怒らせちゃったかなぁ」
海外と日本では文化の違いで誤解を招きやすいと聞いたことがあるが、ひょっとしたら押しとどめ方が悪かったのかもしれない。早いうちに謝って仲直りしておいたほうが良さそうだ。閉館まで他には誰も来ない図書館で、藍はそのことばかり気に病んでいた。
閉館時間になると、藍は片づけをすませて施錠し、職員室へ急いだ。
「お疲れ様です」
誰にともなく挨拶し、反応した近くの教師に図書館の鍵の返却であることを告げ、入室の許可をもらう。鍵の記録帳に記入しながら、藍はその教師に尋ねた。
「転校生って、何組なんですか?」
「なんの話だ?」
教師が、テストの採点を続けながら、気のない返事をする。
「外国人の転校生ですよ……金髪の、すごく可愛い子」
「転校生なんて聞いていないぞ。なにかの間違いだろ」
「え、だって……」
うちの制服を着ていた、と藍は続けようとしたが、他の者に呼ばれてその教師は席を離れていった。藍は釈然としないまま職員室を後にした。
「転校生じゃないなら、なんだったんだろう……」
喉の奥でうなりながら、下駄箱のある昇降口へと向かう。運動場で部活中の生徒たちのにぎやかな声が聞こえてきた。この暑い中よく動けるものだと感心してしまう。
窓から運動場を眺めようとして、藍は目を瞠った。
見間違えようのない金色の髪の少女の姿があった。運動場の脇、体育館へと通じる屋根つきの通路を通り過ぎて、校舎裏へ向かおうとしている。藍は急いで靴へと履きかえ、後を追った。
藍が校舎裏にたどりつくと、少女の姿は裏門へと続く道の奥へ消えるところだった。藍はできるだけ足音を立てないようにしながら、少女との距離を一定に保っていった。
「なんだから後ろめたいけど」
親しくもない女の子を尾行するのは申し訳ないと思いつつも、教師も覚えがないといいながら、学校の制服を着て校内をうろついている少女の存在を放ってはおけなかった。
学校の裏門を出ると公道にあたり、林と平衡して進んだ先には広い第二運動場がある。裏門を出た少女は少し坂道をのぼっていくと、林の中へと入っていった。舗装されていない、小さな車が一台やっと通れそうな小道だった。この小山に拓かれている畑や林の管理に用いられるものだろう。
「どこまで行くんだろう」
藍は一瞬ためらったが、ここまで来たのだから最後まで行こうと覚悟を決めた。
小道をしばらく進むと、少女はさらに脇道へとそれていった。藍は少し距離をとって、ついていく。低い茂みが刈りこまれた場所があり、その奥にはこじんまりとした畑や、小さな桃をぶらさげた木々が見えた。
「へぇ……学校の裏手にこんなところがあったんだ」
藍は感嘆の声をもらした。木々は高く茂っているおかげで、強い陽射しは遮られている。虫対策をしっかりしておけば、よい避暑地になりそうだ。
穏やかな光景に気を取られていた藍は、いつの間にか少女を見失っていた。早足で進むと、拓けた場所にたどりついた。
農地につかうための材木や器具の置き場だった。狭い駐車スペースもあり、先ほどの小道はここにつながっているようだ。奥には、お地蔵さんを守る小さな祠が見えた。
「この祠、ずいぶん古いみたい」
祠は老朽化しているが、お地蔵さんにお供えしてある白い桔梗の花は瑞々しく、水をたたえた皿も汚れていない。畑の所有者の誰かが手をかけているのだろう。藍はカバンをおろし、両手をあわせて拝んだ。
「逃げ足は速くても尾行は下手だね」
背後からの声に藍は驚き、振り返った。金色の髪の少女が目の前に立っていた。
「やっぱりアンタか。さぁ、ゆうべの続きを始めようか」
「えっと……いったいなんのこと----」
「言い逃れはなしだよ。今度は逃がさないから」
藍の問いかけを遮り、金髪の少女が大股で近づいてくる。
藍はカバンを抱えこみ、身を固くした。
--つづく--