第三話「訊かない約束」第3節
----子どもたちの歓声を浴びながら、藍は心の底から泣きだしたくなっていた。
雲ひとつない午後の空は高く、太陽は容赦なく輝いている。八月も終わりが近づいているとはいえ、屋外での運動には適していない。
それなのに、今の藍はフットサルのコートの中で、子どもたちに囲まれている。
コート内を走りまわされているせいで、汗に濡れたブラウスが不快感とともに肌にはりついていた。
「あたし……なんでこんなことやっているんだろう」
藍は乱れた息を整えようと、集団から離れてコートの隅に寄った。広場いっぱいを使ったコートはバスケがようやくできるくらいの面積で、一般のフットサル用としては狭いものの、藍以外の参加者は小学生ばかりのため丁度いい広さとなっている。
「お姉ちゃん、いったよ!」
小学生の男の子が元気よく叫ぶ。藍が顔を向けると、ゴール前にいた集団の中からボールが藍の足元に転がってくるところだった。
藍が反射的に足でボールを止めると、ゴール前にいた集団が勢いよくこちらに向かってきた。藍はあわててボールを蹴りながら逃げたが、すぐに追いつかれて、ボールを奪われてしまった。
「なにやってんの、奪い返して!」
そばにいた男の子に急かされ、藍も子どもたちの集団にまぎれたままボールを追いかけ続ける。コートを二往復した後で藍の目の前にいた子がシュートを決め、ようやく集団の流れが止まってくれた。
藍はゴールポストに手をついて、疲れ切った体を支えた。息切れで苦しんでいると、子どもたちはゲームを再開しようと集まっている。
「ご、ごめん……お姉ちゃん、もうムリ。休ませて」
藍は力なく片手を挙げ、誰にともなく告げた。
「えー、もう?!さっき休憩したばっかりじゃん」
「うん……そうだよね……でも、もう体力の限界」
「しょうがないなぁ。じゃあ、あそこの日陰が涼しいから休んでて。次のゲーム始まる時に呼ぶから」
リーダー格の高学年の男の子は広場の一画を指し示すと、コートの中央へ戻っていった。藍がよろめきながらコートの外へ出るのを待つことなく、子どもたちは再びボールを蹴り始める。
子どもたちの元気なかけ声を背中で聞きながら、藍は日頃の運動不足を痛感していた。
近くの水飲み場でハンカチを濡らし、日陰の古びた木製ベンチに腰を下ろす。火照った顔にあてた冷たいハンカチが気持ちよかった。額や首の汗を拭き、再び水飲み場でハンカチを濡らす。ベンチへ戻った藍はハンカチを顔にかぶせたままの姿勢で、空を仰いだ。ベンチの背もたれが軋みをあげる。
「なんでこんなことになっちゃったんだろ……」
暑さと疲労で体力の限界を感じながら、軽く自己嫌悪におちいってしまう。
学校の裏山で猫と出会った後----瑠璃花が電話したのは知り合いの動物病院だった。症状についてやりとりすると、すぐに病院へ連れていくことに決まった。
手際の良さに藍が驚いていると、瑠璃花はそのまま別のところへ電話し、迎えの車を呼びつけた。やってきたのは街中でよく見かける配達業者の系列の小さなワゴン車で、運転していた中年の男性も瑠璃花の知人だった。
藍もワゴン車に同乗して動物病院で猫を診てもらった後、瑠璃花とやって来たのがこの施設----明見園だ。
明見園は、明見市がまだ町のひとつだった頃からある古い児童養護施設だ。藍も存在を知ってはいたが、敷地内に入るのは初めてだった。藍と瑠璃花が到着するとすぐに子どもたちが集まってきた。明見園には、幼稚園に通うくらいの年頃の子もいる。子どもたちの反応から、瑠璃花は頻繁にこの園を訪れているようだった
「あたしはちょっと用事があるから。代わりにこのお姉ちゃんがみんなと遊んでくれるって」
瑠璃花はそれだけ告げると、建物の奥へ引っこんでしまったのだ。突然の展開に藍はうろたえたが、子供たちの期待の眼差しに負け、遊び相手として振りまわされてしまい、今にいたる。
かくれんぼやボール遊びにバドミントン。幼い子たちを相手にエアコンの効いた部屋で絵本の読み聞かせがてら休めたと思ったら、今度は元気のありあまっている男の子たちのフットサルに駆り出されてしまった。
コートの端から、歓声が起こる。誰かがゴールを決めたのだろう。今の藍にはそれを見て確かめる気力もない。
この暑さの中でも元気に遊ぶ子どもたちをうらやましく感じるのと同時に、自分が急に歳を取ってしまったような絶望感も抱いてしまう。
「あたしはまだ十五なのに……」
ベンチで脱力しきっていると、ふいにお腹が鳴った。
動物病院に行ってどたばたしていたせいで、ちゃんとした昼食を食べていない。ここへ来る前に瑠璃花が段ボールの中から差し出した菓子パン一個だけだ。お菓子のような栄養補助食品も勧められたが、苦手なので断ってしまった。今では後悔している。
瑠璃花には悪いが今のうちに逃げてしまおうか、などと藍が考えていると、
「お隣り、いいかしら?」
すぐ近くで落ちついた女性の声がした。
藍はあわててハンカチを顔から取りのけた。声の主はこの明見園の園長だった。藍は姿勢を正し、「どうぞ」とベンチの端へ寄った。
「ありがとう。失礼するわね」
園長は穏やかな笑顔で言うと、藍の隣に腰を下ろして大きな麦わら帽子を脱いだ。服装や足元に置かれた道具箱の中身から察すると、畑仕事の後だろう。濡れたタオルで満足そうに顔を拭いていた。
短くまとめられた髪は真っ白だが、健康そうに日焼けした肌や体つきからは衰えを感じさせない。藍はこの施設にやって来た時に、手短に挨拶を済ませている。他にも数人のスタッフがいたはずだが、子どもたちに連行された藍は落ちついて話す余裕がなかった。
藍は話のきっかけに困ってしまった。ちらりと様子をうかがうと、こちらを見ている園長と目が合ってしまい、とっさに視線を反らしてしまった。
園長はおもしろそうに軽く笑い、「ごめんなさいねえ」と話しかけてきた。
理由がわからないまま藍が顔を向けると、園長は申し訳なさそうに続けた。
「瑠璃花ちゃんから強引に連れてこられて、有無を言わさずあの子たちの遊び相手を押しつけられたんでしょう」
「あ、いえ、それほどでも。久しぶりにいい運動になりましたし」
「そう言ってくれるのはありがたいけど。瑠璃花ちゃんやあの子たちは遠慮をしないから、気を遣っちゃ駄目よ。私だって何度も苦しめられているんだから」
その様子が簡単に想像できる。園長の忠告の言葉に藍が苦笑していると、建物のほうから数人の女の子たちが箱を抱えて出てくるのが見えた。
フットサルをしていた男の子たちが中断してそちらに集まっていく。女の子の一人が藍たちのところにやってきた。
その小学校低学年の女の子は朗らかに「おやつの時間ですよー」と告げ、個包装の菓子を園長と藍に差し出した。
「いつもありがとうね。今日はお客さんもいるから、私もいただくわ」
「はい、お姉ちゃんもどうぞ」
「ありがとう」
藍もお礼を言い、受け取った。見覚えのある駄菓子だった。抱えてきた段ボールの中に入っていたものだ。
どういたしまして、と女の子は返し、みんなのところへ戻っていく。
藍はその駄菓子を開封し、ひと口かじった。軽い塩気が口の中に広がる。少しは空腹を誤魔化すことができるだろう。園長は駄菓子には手をつけず、足元の道具箱の中へ置いていた。
「岸本先輩はよく差し入れにくるんですか?」
藍は尋ねた。
藍たちが運んできた段ボールの中身は、いろんなお菓子やパン、他には保存のきく食料品だった。この明見園のような人の多い施設であれば、いくらあっても困ることはないだろう。
「月に一、二回は差し入れをもって遊びにきてくれるわね。瑠璃花ちゃんが働いているスーパーで、賞味期限が近くて廃棄処分になりそうなものをわけてもらっているみたい」
「スーパーでのアルバイトですか。岸本先輩ならうまくやってそうですね」
藍は相槌をうちつつも、スーパーでのいち店員がこんなに廃棄処分を引き受けられるものだろうかと疑問に感じた。
「そうねえ。ここに顔をだしてくれたのが去年の夏だったけど、その時からたくさん差し入れしてくれてるのよ。すぐにみんなと仲良くなってね。今では立派なお姉さん……スタッフからは『アネゴ』扱いされているけれど」
「なんか、納得です」
瑠璃花は小柄で小学生のようにも見えるため、ここにいる子どもたちからも近い存在なのだろう。面倒見の良い、いい先輩なんだな----と、あらためて藍は思う。
明るくて押しが強く、自分とは違いすぎて苦手な先輩だと考えていたが、学校外でこういった活動を行なっていたのは意外だった。
「あれ? でも、岸本先輩はどうして最初にここへ差し入れと一緒にやってきたんだろう?」
藍は先ほどの園長の説明にひっかかるものを感じたが、当の瑠璃花が建物からこちらへ向かってくるのが見えたため、園長に尋ねることはできなかった。
「どうでした?」
難しい表情となっている瑠璃花に、藍は尋ねる。
「ダメ。まだ里親が見つからない。何人か知り合いも他に当たってくれているから、そのうち見つかるとは思うんだけど……今日はムリかなー。あ、園長先生、それちょうだい。お腹空いちゃって」
瑠璃花は園長の返事を待つことなく、道具箱から駄菓子を手に取った。そのまま封を開け、かじりつく。園長はたしなめることもなく、微笑ましげに瑠璃花を見つめていた。
動物病院で診てもらったところ、猫はいくつか目立つ外傷があるものの、大きな異常はみられないとのことだった。元気がないのは夏バテや栄養不足との見立てで、しばらく様子をみて回復しなければ再度病院へつれていくことになっている。今は明見園の一室、クーラーの効いた応接室で休ませてある。
藍が瑠璃花と一緒にこの明見園まで来て今も残っているのは、猫がどうなるか気になっていたからだ。大事ないとはいえ、瑠璃花と一緒に助けた以上、落ちつくまでは見届けないと気がすまない。
瑠璃花の姿を見つけた数人の子どもたちが寄ってきて、「用事終わったなら遊んでよー」とねだった。瑠璃花は丁寧に謝り、まだ遊べないことを伝えた。そこに、図書館で同級生にみせたような雑さはない。まるで幼い弟を諭す姉のようだった。
「あなた、時間は大丈夫なの?」
園長が瑠璃花に尋ねると、瑠璃花はスマートフォンで時間を確認して渋面となった。
「んー、さすがにそろそろ行かないとやばいかも」
「何か用事でもあるんですか?」
「バイト、っていうか家の手伝い」
園長との話に出たスーパーだろうか。藍が首を傾げる様子をみて、瑠璃花は勤め先だというスーパーの名前を挙げた。それは明見市内でも複数店舗をもつ大型スーパーで、藍は驚きの声をあげた。
「あそこって先輩の家がやってるんですか?」
「うん。よかったら買いにきてよ。あたしのレジに並んでくれたら、こっそり社販扱いで安くするから」
藍の驚きに反して、瑠璃花の回答は軽い。藍が知る限り、あの大型スーパーは全国的に展開していはずだ。瑠璃花はそこのお嬢様ということだろうか。藍は驚きと好奇の視線を瑠璃花に向けることしかできなかった。
「あのコ、ここで預かってはおけないよね?」
瑠璃花が園長に尋ねる。
「ごめんなさいね。お世話してあげたいのだけど、規則だから」
「だよねー。お店のほうもダメだって言われたし。うーん……」
「あ、あの……もし良かったら、あたしが----」
悩んでいる二人に向けて、藍は思い切って声をあげた。
--つづく--




