プロローグ
----『あたしは、この街がずっと嫌いだった。』
新しい日記帳の最初のページに藍がそこまで書いたところで、万年筆の文字はかすれてしまった。
地味なパジャマ姿の藍は机の重い引き出しを開けて、万年筆のインクや予備のボールペンなどを納めてある文房具ケースを探した。
この机は父の書斎にあった頑強な年代物で、今日譲り受けたばかりだ。高校1年の女の子が使うには地味な造りで、寝室も兼ねた自室の中では違和感がある。藍としては気乗りしなかったのだが、小学校から使ってきた学習机が小さくなってしまったため、父からのおさがりのこの机を受け入れるしかなかった。
引き出しの深い位置にあった文房具ケースの中から交換用のインクカートリッジの小さな箱を取りだしてみると、空だった。最後のひとつを交換した際に、次に買いにいく時のために空箱だけとっておいたことをすっかり忘れていた。
引き出しを閉める時に、藍は左手首に貼った湿布がはがれかけていることに気づいた。昼間に捻挫をおこしてしまい、とりあえずの処置と思って貼ったものだ。整えようと強く押さえると、予想外の強い痛みに藍は顔をしかめた。
「昼間はケガしちゃうし、今日はついてないなぁ」
藍は小さなため息をつき、イスに座ったままで大きく伸びをした。力を抜いたところで揺れを感じ、バランスをくずしかける。藍は姿勢を戻し、机の天板を両手で握って支えにした。飲みかけのアイスティーがグラスの中で波を作り、本棚のガラス戸が震えて小さな音をたてている。家の中で静かにしていなければ気づかない程度の地震だ。
「春あたりから地震が多い気がするけど……大丈夫かな」
揺れはいつも小さく、今回もすぐにおさまった。この不安も数日たったらまた忘れてしまうのだろう。
壁掛け時計は、22時を少し回ったあたりを示している。一学期の期末試験が終わったばかりのこの週末は、部屋の大掃除と模様替えで終わってしまった。明日からまた憂鬱な一週間が始まることを思うと、気が重い。
藍は日記帳を引き出しの奥へ片づけた。明日の授業への忘れ物がないか通学カバンの中身を確認していると、外が静かなことに気づいた。この土日の間に降り続いていた雨も、ようやくやんでくれたようだ。
薄手のカーテンと窓を開け、藍は身を乗りだした。7月のこの時期にしては珍しく涼しく、夜気が肌に心地よい。今夜はエアコンを切っても大丈夫だろう。空を仰ぐと、雨雲はすっかりなくなっており、星々が輝いていた。
藍は部屋の明かりを消し、もっとよく見ようと目をこらした。長雨の後とはいえ、ここまで星がはっきり見える夜はめったにない。
七夕にぴったりの夜空だ-—そう想いを馳せていると、流れ星を2つみつけた。ひとつめは小さくてすぐに消えたが、ふたつめは大きくはっきりと目にうつった。
----藍は、この街がずっと嫌いだった。
だがこの時だけは嫌なことをすべて忘れて、七夕の夜空を埋めた星々に見惚れていた。
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「---この測定値、確かに普通の地震にしては不自然すぎるね。おもしろい、期待せずに日本へきたけど、これは楽しめそうだ」
街の夜景を一望できる展望公園の一画で、屋根つきのベンチに腰かけていた少女は薄いタブレット型の端末を見つめたまま、誰にともなく呟いた。
年の頃は十代後半というところか。金色の髪は襟足より少し長い位置で切りそろえられ、濃い灰色のライダースーツのような服装とのコントラストが際立っている。線は細く、整った顔立ちだが、冷たく険しい雰囲気を漂わせていた。
「で、アンタもそれを調べにきた……っていうわけじゃなさそうだね?」
少女は立ち上がり、深い青緑色の瞳を肩越しに背後へと投げる。先ほどまで雨を降らせていた雲も流れ去りつつあり、月と星が投げかける明かりも次第に強さを増している。
少女から二十歩ほど離れた位置に、人ならざるものの影があった。並んだ外灯の光が届きにくい場所にいるが、それの異形さは隠せていない。
例えるなら、人と肉食獣の中間といったところか。肩と首の筋肉が発達しており、猟犬を思わせる頭部だが、その双眸には昆虫の複眼に似た模様がはりついている。太い左腕には、小柄な女の子が抱えられてた。どこかの学校のものと思われる制服姿の女の子の手足は力なく垂れており、その表情を確かめることはできない。
金髪の少女の問いかけに対し、人外のそれは奇妙な音をたてた。
「あー、悪いけど、今は通訳機をもってないんだ。日本語がムリだとしても、せめてこの星の言葉で意思表示をしてくれないかな?」
金髪碧眼の少女は端末を上着の大きめのポケットへしまうと、異形へと向きなおった。
「それとも、それすらできない"はぐれ"ってワケ?」
声に張りつめたものを含ませ、少女は目を細める。
異形の獣は鋭い犬歯を見せつけるように剝き出した。複眼が複雑な色を反射している。獣は身をわずかに屈め、太かった腕部がさらに膨張する。
金色の髪の少女は両手を上着のポケットにつっこんだまま、相手を眺めていた。
風が吹く。
公園の木々をざわめかせたその風は、ベンチの端に捨ててあったコーヒーの空き缶を倒し、地面へと落とす----瞬間、獣が動き、少女と交差しざまに右腕をふるった。空を切る重いうなりと、空き缶が地面にぶつかった音、そして硬いものが砕ける鈍い音が重なった。
獣の右腕は、むなしく空を切っただけだった。
「いきなりそんな対応? この子にケガはないみたいだけど……いろいろと答えてもらう必要がありそうだね」
位置を変えて獣の背後から言葉を投げる金髪の少女の両腕には、女の子が抱きかかえられていた。獣の左腕は手首のあたりが不自然な角度に折れ曲がっていた。人外の獣の攻撃をかわすと同時に、奪い取っていたのだった。
戸惑いを見せた獣が、大きく飛び退る。続けて、二度、三度と。少女が間を詰めるよりも早く、その獣は展望エリアの柵をこえて、夜の闇へと消えていった。
「逃げ時をわきまえるだけの知能はあるんだ……まぁ、今は仕方ないか」
少女は長く息を吐くと、女の子をベンチに横たえた。
「ドクに連絡して、この子のメディカルチェックをしてもらわないと……事前調査の不足についても、たっぷり文句を言わなきゃ」
少女はポケットから端末を取り出して操作する。反応を待ちつつ、少女はふと頭上を仰いだ。雨雲はすっかりなくなっており、星々が輝いている。
「この街、ずいぶんと綺麗に星が見えるんだ」
流れ星がひとつ、ちいさなものだが、夜空をかすめた。
「……懐かしいな」
少女が消えそうな声でつぶやく。自分の言葉に驚いたかのように、少女は目を瞠った。その直後、端末に反応があり、少女はすぐに冷静な表情へと戻って端末へ視線を落とした。
ふたつめの大きな流れ星が頭上を通過していったが、少女がそれに気づくことはなかった。