9 そうだ、推しに課金しよう
彼は太腿の上に下ろしている自身の左の掌を見つめた。蒼い鱗を力一杯握り過ぎたせいで、皮膚が破れて、流血した痕があった。今は塞がっているが、切り傷は深く、完治したとしても一生残るだろうと思えた。それは、疵ひとつない宝玉の如し柔肌についたひとつの憎しみに相違なかった。
背後からケロケロと鳴き声が聞こえる。
「水の匂いがするぜ、その鱗」
「鱗で間違いありませんか、ギロゴ」
「ああ……今はちょっと特定できねえけれどな。そうだな、時間がいる」
頼もしい王子だ。エリアーシュが何とはなしに納得したような表情で私とギロゴを見ている。自分が魂獣と話していた時のことを思い出しているのだろうか。悲しいものを見せてしまっているような気がして、私はギロゴと会話をするのをやめた。
しかし、鱗が術の触媒として使われるものだろうか。私は疑問を抱いた。この世界では、何らかの力を帯びた石ころに術式となる模様を刻み込み、それに衝撃を加えることによって術を行使する。炎、水、風、土、光、闇の六属性に大別される術の種類は様々だ。そして、目の前にあるものは、ギロゴの言うことが本当であるのなら、水の気を帯びている。当然ながら、水の多い場所で発動すれば効果が高くなるので、湿地で水の術を使おうとした術者の選択は適切だ。
付着している血はどす黒く変色している。おそらくエリアーシュの掌から流れたものだろうが、確かなことが分からない以上、断定はできない。その時の記憶を引き出すのなら、今しかないと思った。
「アイデルの若様、これを奪った時、相手は流血しておりましたか?」
「……いや」
年頃の男の子らしい言葉遣いで短く返答を切って、彼は首を振った。
「……下手人どもは、私が落下して、踏み潰されたものと思ったらしいのです……思えば、最初からアヴァンティアにばかり気をやっていたようでした……あんなに沢山の数が集っていたのに」
秀麗な眉間が歪み、皺が寄る。最初から魂獣狙いであったということは、力を削ぐ為だったのだろうか。それはバルタール全体の士気にも関わる筈だ……尤も、既にバルタール領が内部から誰かの手に侵食されている可能性は高い。辺境伯爵が誰かに陥落されているかもしれない。
しかし、人数が多かったということは、その手合いの者がまだ周辺にいる筈ではないのか。イブルアーム沼地への帰路が途端に危険なもののように思えてきた。砦にいた方が安全かもしれない。そして耳に飛び込んでくる、ケロケロというどこか気の抜ける鳴き声。
「イリス、王都と沼にこっそり人をやれ。今からだ。腕の立つのを二人一組で、脚の頑丈な竜を使え。面倒なのがウジャウジャいるらしい。絶対にライマーニやバルタールの服なんか着るなよ、なんなら救援の要請ついでに、後ろ盾だけ書面で用意してからほんまもんの暇でもそいつらに出して、無理矢理旅行者にさせろ。それか王都の屋敷と沼の主城の使用人でも何でもいい、急に好きになって貰えばいいぜ……そういう気があるやつが何人かいる。ついでに、王都で流行りの読み物のネタ提供にはなるだろう」
「……わたくしは彼らの手が届きそうな想いを手助けする素敵な伯爵令嬢、っていうところね」
「そうだ、話が早くて助かるぜ、オゼンダテして素敵な令嬢の立場を他の奴らに示してやれ。因みに主城の使用人のガーデルラに惚れているのはファルニウスだ、王都の方のリリイには、ジグ。そう、人間がロマンスとやらで騒いでいるその間に、おれはその鱗の出所を探れる」
「……ギロゴ殿下は素晴らしい網をお持ちなのですね」
カッカッカ、と、ギロゴは高らかに鳴いた。これは笑っているな。というか、私が客間を訪れた時からやたら蛙が鳴いているなと思ったら、お仲間から情報を受け取っていたのか。気持ちが安らぐ鳴き声の癖にやり取りしているものは超シリアスだった。温度差で風邪ひきそう。
私は立ち上がって、今日も私の担当となっている騎士の一人を呼んだ。
「ゼルクト」
「こちらにおります、姫様」
「休みを取っているファルニウスとジグを連れてきて頂けますか、今すぐ。あと、襤褸の旅装を四着、用意をお願い致しますわ。最後に、強い騎竜を四頭、選んで欲しいのです」
「承知致しました……忍びで、愉快な遠乗りをでもされるおつもりで?」
「ええ、そのようなものです」
屈強な身体つきのゼルクトは、騒がしそうな見た目に反して、殆ど音を立てず、あっという間に部屋を出ていった。エリアーシュが怪訝な顔で私を見つめている。彼は不安を飲み込んだような声を出した。
「……私が、何処かへ赴くのですか?」
「いいえ、アイデルの若様ではございませんわ。今この砦から出立すれば、今度こそあなた様は殺されてしまう。そのようなこと、わたくしは決して、させません。我が魂獣とわたくしは、あなた様に助力致します」
「……魂獣を喪い、バルタールすらも望めぬ私に、何を期待するのです?」
その瞳の奥に、ほんの僅かにちらついているのは戸惑いだ。
「同情であるのならば、必要ありません、ハンセルの姫君」
「違います。申し上げましたわ、名と、血は、ひとりになっても十分に機能するものであると」
私はエリアーシュに正面から近付いた。素足が触れ合うか触れ合わないかの距離で、両脚を折り、太腿の上の両手をそっと取って、握る。
そう。兄や兄嫁もそうだが、麗しい若者を愛でるのは私の今生の楽しみといっても過言ではない。正直に言うと、苦悩する姿や涙を流す姿、怒りを露にする瞬間だって非常に美味しい。しかし、今私が直面しているのは二次元じゃなくて、現実だ。そこに生きる人々は、他ならぬ私自身と関わっている、生きた人間だ。いや、二次元だってリアルだって人はちゃんと生きていて、等しく愛情を抱くことに変わりはないけれど、今の私は、他者の手によって始められて閉じられる物語なんかじゃない。
私の人生は私の幸せを掲げて進まねばならない。
苦難の果てに絶望することがあっても、幸せを諦めたくないのだ。そして、目の前にいるエリアーシュが己の足で立って歩き始め、彩られた人生を余すところなく味わうのを、私が見たい。
私が見たい。
一度は約束され、閉ざされてしまった未来の再来を。誰かを慮ることを忘れない、消えぬ傷を負ったこの手に、人を采配する力が生まれるところを。
物語よりも苛烈で美しい、いずれ生への幸福で満ちることになる、推しの人生を。
そう思った。思った今、エリアーシュは私の推しとなった。
見た目も今の状況も、マジでアルティメットレア級。十万円分の天井ガチャ回してやっと手に入れられるかどうかの逸材。
ならば、私がするべきことはひとつ。推しに課金。毎日課金。歌う間も寝ている間もどんな時も、彼に課金。彼に彼女が出来ても、彼が婚約しても、彼が結婚しても、彼に子供が生まれても、課金。というか三代前から我がライマーニはバルタールに課金していたと言っても過言ではない。経済を回すのだ。
エリアーシュが抱く懸念と無念を己の力で払えるように仕向け、どうか彼に幸福な人生を。どうか彼に実り多き生を。バルタールを蝕もうとしている何かを突き止め、辺境伯爵位を継ぐだけが人生ではない。この砦で私が囲うとかいう結果になるかもしれない。両親や兄夫婦を巻き込んで、ライマーニとバルタールが独立する可能性だって捨てきれない。ひょっとしたら、それは精霊王の加護に連なり、大陸を統べる覇道へと続く道かもしれない……私が父に話したような、突拍子もないような妄想の如き、夢物語。
だけど、決めた。私はやる。
「あなた様は、バルタールを欲しないと?」
「……私が将来的に辺境伯爵の座を欲せると思うのですか、この状況で?」
いかん。手は握り返してくれたが、出てくる言葉がのっけから折れている。
「……ならば、名を変えて、この砦で一生を過ごすか、誰の目にも触れぬ秘密の女伯爵の婿となって暮らすか、でございますわね」
「秘密の……女伯爵の婿……」
「私は構いませんわ」
そのように言えば、エリアーシュの喉が再びごくりと鳴った。後ろからまたケロケロが聞こえる。
「また欲情しやがったな」
「やめなさい、ギロゴ」
【ネタメモ】
騒がしそうな見た目って何なんでしょうね。顔のパーツひとつひとつがはっきりしてそう。多分、感情もよく表情として出るんでしょうね。
☆王都の使用人の名前を変更しました。名前のネタが尽きかけている……